いろは唄 | ナノ


  あ。


そう思ったときには時既に遅く、衝撃と痛みを甘受しながらも内心はこれからのことを考えると面倒くささで埋め尽くされた。


***


「まぁこれだけで済んだのはさすがと言えなくもないけど…はい、終わり。」
「…ありがとうございます」


怪我自体褒められたものじゃないんだからね、暫くは安静に、大体時間が経てばそれほど云々。
聞き慣れた柔らかい声でのお説教を右から左に聞き流しながら、九子はぐるぐると白い包帯で固定された己の右足をぼんやりと見つめた。
背中を中心として全体的にズキズキと痛んでいた身体も、先程と比べれば、と言うよりも比べるのもおこがましいくらいに楽だ。
最も怪我なんて日常茶飯事なこの世界、このくらいの傷は傷とも呼べなければ痛みだって感じないに等しい…だなんてうっかり漏らしてしまえば目の前の保健委員長のお説教は三倍に膨れ上がるのだろうけれど。


「九子ちゃん、なんか変なこと考えてない?」
「特には」


くるくると余った布を慣れた手つきで巻きながら呆れたように溜息をつく伊作に、さらりと言葉を返しながら。
九子はただ、この足は失敗したな、と。そんなことを考えていた。


そもそもの事の始まりは四半刻程前、医務室で薬草の整理をしていた伊作のところへ九子が足を引き摺りながらやってきたところから始まった。
大体のことなら自分でなんとかしてしまうであろう性格の可愛い後輩の登場と、全体的に薄汚れている忍服と、そして何よりその右足と。全ての情報が瞬く間に伊作を慌てさせ、また同時に冷静にもさせ。
とりあえず先に症状を訊いてみると、背中を中心とした打撲と恐らくは足首の脱臼だと言うものだから、処置を施しながらも詳しい事情を尋ねてみれば少しばかり言い淀んだように見えた九子はしかしぽつりぽつりと話し始めたのだが。
その語られた内容の何とも言えなさに、伊作は同室である留三郎の不在をこれ以上なく嘆いた。


昨日降った久しぶりの大雨、それによって用具倉庫に何か問題は起きなかったかを調べに行ったらしい。
用具委員会の委員長である留三郎は先程も述べたように今学園にはいなくて、そして同じくくのたまの用具委員長である九子がそれを行ったのは別にどこからどう見ても自然であっただろう。
そこまでは何の問題も無かった。そして案の定倉庫の一部に雨漏りが見つかったのだそうだが、それも問題ではあるが今問題とする点では無かった。
問題、と言ってしまっては些か言葉が悪いかもしれないが、そう、たまたま不運が重なったとでも言えばいいのだろうか、ともかくたまたまそんな九子の姿を見つけて寄ってきた用具委員会の一年生たちが倉庫に入るのと、九子が雨漏りしていた天井付近に近付いて様子を見ていたのと。
雨に濡れて強度が落ちていた棚がたまたまそれなりに重いものを収納しているものだったのと、そしてそれが限界を訴えて崩れたのと。
どれが悪かったのかは分からないが、それらが全て同じタイミングに重なったのだ。


結果、九子は反射的に下級生たちを庇う形になったわけだが、棚だけならまだそんなに問題では無かったものの、前述の通り何故その棚が崩れたかと言えば、雨に濡れたからだけではなく重いものを収納していたからで。
己の頭上に落ちてきたそれを見て、咄嗟に蹴り飛ばした九子の足はものの見事に悲鳴をあげた。


「しかもその後強情にも一人で歩いちゃうんだから」
「…一年生に変に心配かけるわけには」
「あのねぇ」


はぁ、と吐き出された伊作の溜息に、九子にしては珍しく罰が悪そうに顔を背ける。
分かっているのだ。そうやって無理して悪化させても自分も周りも困るだけだし、現に今自分が動けないことで千茅と、心底遺憾ながらも三郎に多大なる負担をかけている。
たまたま居合わせてしまった一年生は言わずもがな、今は不在の留三郎にだって心配をかけてしまうだろう。変に委員会が絡んでいるから余計な罪悪感を感じさせてしまうかもしれない。
そして今現在一番迷惑をかけているのは誰でもない伊作なわけで、誰にでも優しい彼ではあるけれども、それでも今親身になって治療してくれるのはそれだけではなくて、きっと、


そこまで考えたところで再び、はぁ、聞こえた溜息に反射的に顔をあげた。


「だから、変なこと考えてない?って訊いたのに」
「考えてないですよ」
「あのね九子ちゃん。」


ぼんやりと。
ただ事実を口にするかのように言葉を零す九子をそっと覗きこむように、真っ直ぐに見つめてくる伊作の視線はなんとなく逸らせなくて。


「確かに僕は千茅も留三郎も大好きだから、二人にとって大切な九子ちゃんを好きだなって思う。でもね」


小さな子供に言い聞かせる口調で、ゆっくりと、はっきりと。


「僕自身、君の事を大事だと思ってるんだよ?」


打ち付けた背中はもうあまり痛まない。
頭だけは守ったけれど、他は一年生に被さることに使ったからどこもかしこも打ち身だらけだ。塗られた薬がひんやりと気持ちいい。
唯一はっきりと痛むのは例の右足だけれど、これも綺麗に固定されたことで随分と楽になった。
それらは全て伊作がやってくれたことで、それで。


ぱちぱちと瞬く。にっこりと柔らかく微笑む顔がなんとなく見ていられなくて下を向く。
留三郎の同室の先輩。千茅の兄のような存在。その繋がりで昔から可愛がってもらってきた。
何を言えばいいのか分からなくてただただ足の包帯を見つめていると、先程とは違った種類の息を吐く音が聞こえてきて、ぽんと頭の上に重みが加わる。


「竹谷呼んどいたから、部屋に戻って暫く安静にしていること。いいね?」
「…なんで八…」
「鉢屋よりいいでしょ?い組は実習だしね」


普段自分の頭上に乗るものよりもほんの少しだけ小さいけれど、でもとても暖かいそれ。
やっぱり先輩は偉大だな、とか。あの千茅が全力で慕う人なだけあるな、とか。そんな感心かもしれないし、もっと別のものかもしれない、よく分からない感情が胸の中をぐるぐる渦巻く。
けど、一つだけ言えるのは、きっと自分は幸福者だな、と。
今の状態からは随分と正反対なことを思いながら、ぽんぽんと幾度か撫でられる感触に大人しく目を閉じた。




20120521