いろは唄 | ナノ


さぁさぁ、とつとつ。
枝の先から水滴がひとつふたつ。まぁるく滴になって雫となって地面へ落ちる。
ぴちゃん。小さな水溜りにまた水が跳ね、それはだんだんと大きくなって。


「…」


空から線のように降り続ける雨。
ずっと重い色をしていた雲から先程降り出したそれを見つめて、九子はほぅと息を吐き出した。


  そんな、よろしいんですか?
  人と待ち合わせをしているんです。その人にいれてもらいますから


学園から山を一つばかり越えて、近くの町との丁度間にある一本杉。
根元に地蔵のあるそれは畑に囲まれ見通しの良い道に我を見ろと言わんばかりに立っていて、いつから生えているのか随分と立派な幹から葉までが夏には日除けを、冬には雪除けを提供してくれる。
勿論目立つから待ち合わせの場所として利用できるし、こうして雨宿りとして活用することも可で。
少し前までここにいたのは、母と小さな子の二人組。
我が子の肩を抱く母親と母親の着物の裾を握りしめる子が揃って空を見上げているのを、休日を利用して買い物に出ていた九子が通りすがりに見つけたのだ。


  おかーちゃん、おなかへったよぅ
  そうね、お父ちゃんもきっと待ってるわ。お雨が止んだらすぐに帰ってご飯にしようね
  うん!!


なんとなく、本当になんとなくだけれど。
強いて言えば、重なる二つの影が眩しかっただけで。


さぁさぁ、とつとつ。
強くも弱くもない雨脚は先程から変わらなくて、日が出ていないから空の明るさも変わらない。
だが時間は経っているのだろう。あまり遅くなると千茅を心配させてしまうだろうかとは思うものの、特に急ぎの用があるわけでもないのに雨の中走るのは憚られて。
万が一体調を崩しては元も子もない。この寒さの中佇んでいるのも同じかもしれないが。


そんなことをつらつらと考えながらぼんやりと空を見上げて。
そうすることに少し飽きて、すっと目を閉じ雨の匂いを吸い込んだ、その時。
とつ、雨の音が止まった。


「…先輩?」
「千茅が、九子が帰ってこないって言っていたから気になってな。傘はどうした、傘は」


ぴちゃん。新しい音が生まれる。
たまに葉と葉の隙間から落ちて来ていた雫が遮られて、少し薄暗くなった視界の中見上げた先には見慣れた人の姿があった。
少しだけ寒くなくなった気がする。気のせいかもしれないけれど。
しかしやはり時間は経っていたのだ、少なくともあまり買い物に時間をかけない九子が帰るであろう時刻を大幅に遅れるくらいには。


「母子が、夕ご飯を食べるって言うから」
「それで渡したのか?まったく」


仕方がないな。
そう言って笑ってくれるその顔が、頭を撫でてくれるその手が。


(きっと、すごく好きだ)


さぁさぁ、とつとつ。変わらない雨の中、一つの傘に二つの影を入れて帰っていく。
杉の木の下と、傘の下と。雫のぶつかる音は似ているようで似ていない。




20120503