いろは唄 | ナノ


下級生が居なくて良かった。


思わず零れた呟きの主が誰かなのか、はたまた無意識の己のそれだったのかは誰も判断が付かなかった。
とりあえず、少なくとも当事者以外の全員がこの想いを共有しているのは間違いのないことなので、それを音にしたのが誰かということは大した問題ではない。

全て事情を知った上で、そしてそうなるであろうと予期出来ていた。その自分達でさえ、この光景は少々どころでなく目に痛い。下級生が見れば泣き叫ぶことは必至だろう。

「…予想以上に不味い絵面だな」

呟いたのは兵助だったが、全員が即座に頷きを返したことからそれもまた共有された思いであったらしい。
各々雷蔵の変装のままであったので、それだけで十分不可思議な絵ではあったのだが勿論彼らが指すのは視線の先で硬直したまま視線を巡らせている二人のことであった。

鋭い、というより最早殺気にも似た険を宿し冷たい眼差しを向けるのは九子。
常日頃から三郎に対する時に限り冷淡な表情を見せる彼女であるが、此処まで機嫌が降下するのは少々珍しい。


― そして何より最も驚くべきは、その眼差しと放たれた苦無の矛先にいるのが、穏やかに苦笑するもう一人の少女であったことだ。

困ったように眉を下げ苦笑を浮かべた彼女に、九子はもう一度間髪入れずに苦無を放つ。
あまりにも速く、的確に首を狙って放たれたそれは少女の手により呆気なく地に叩き落とされた。


あぁ、なんて光景だ。思わず傍らで見守る彼らは天を仰ぐ。

くのたまの双璧と呼ばれるまでに上り詰めた千茅と九子は、たった二人でくの一教室を支えてきた実績を裏付けるように非常に馬が合う。
そんな彼女達は幼い頃から互いを尊重し合ってきたし、付き合いの長い彼らでも喧嘩らしい喧嘩をしていた記憶には心当たりがなかった。

そんな親友と呼んで差支えない二人が、こんな仕合をする光景を見る日が来るなんて。
非常に稀少ではあるが、別に有難くもない経験である。彼らは自然深い溜息を溢した。


そうこうする内に、多少気が収まったのか手持ちの武器が尽きたのか、…恐らく後者であろうと推察できたが、九子が漸く攻撃の手を緩めて舌打ちした。
そうして九子の容赦ない連撃を全て弾き躱した少女が小さく息を溢し、僅かに首を傾げつつまた苦笑する。


「ふぅ…酷いなぁ九子ったら、何も装備使い果たすまですることないのに」
「………」
「…おい、もうその辺にしとけよ。味方で揉めるような種撒くなっつの」

くすくすと微笑った少女の言葉に、一度は形を潜めた殺気を数倍に膨れ上がらせた九子の様子を感じ取り慌てて八左ヱ門扮する雷蔵の一人が割って入った。
心底呆れたような、一段落して安堵したような。そんな複雑な表情で自分達を見つめる雷蔵達の中で唯一可笑しそうに笑っている人物に歩み寄り、九子はぼそりと呟く。

「…もういいでしょ、勘弁して」

そう、雷蔵の一人を見上げた九子の表情は呆れに染まっている。
それに目を細めて微笑みを返すと、彼は首の辺りに手を伸ばして皮に爪を立ててそのまま無雑作にそれを引き上げた。


そうして、それまで雷蔵であったその顔の下から苦笑を浮かべる少女が現れる。


「ふふ、ごめんごめん。あんまりにも三郎が上手いからさ、面白くなっちゃって」
「俺らは心臓に悪かったぞ…」
「文句は悪ノリした三郎にどうぞ。ね?」
「…失礼な。私はやるべきことをやったまでだ、化けるなら完璧が当然だろう」

言いながら千茅が視線を向けた先で、千茅の姿をした人間が三郎の声で返す。

そうして芝居がかった仕草で肩を竦めつつ、先程の千茅と同じように首に手を掛ければ、瞬き一つで先程まで千茅であった人物は三郎へと変わっていた。
まぁ異なる点としては彼の場合服まで本来のものに戻っていた事だが。流石にくのたまの服装で普段の顔に戻るのは抵抗があったらしい。


やっと普段通りに戻った二人を見て、勘右衛門が心底疲弊したように不満を漏らした。


「もー冷や冷やだよ、例え中は違うって分かってても九子が千茅に苦無投げつける光景なんて見たくなかった…」
「三郎の演技が徹底していただけに現実味があって、何とも宜しくない光景だったな」
「私達が喧嘩するとあんな絵面になるんだねぇ、九子にあんな殺気向けられる自分を見るのはちょっと複雑だったなぁ」
「……好きでやったんじゃない」
「分かってるよ、ごめんね。でももうここから先は心配ない、でしょ?」

珍しく無表情の中に僅かに不貞腐れたような色を滲ませる九子を宥めつつ、千茅がにこりと好戦的な笑みを浮かべる。
そして先程学園長から受け取った密書を懐から取り出して、琥珀の瞳を煌めかせる彼女に三郎と九子が同時に溜息を溢した。

「…あのなぁ、生き生きとする状況じゃないぞ普通。守るべき密書を持ったお前が攻撃班にまわるなんて、危険な賭けにも程がある」

先程密書担当として名乗りを上げたのは千茅だ。
三郎として振る舞って居ようと、受け取ったのは彼女。あの時点で此方の担当が三郎であるという旨の発言は無かった、ただ「私です」と告げただけだ。

つまり、先程まで二人が姿を入れ替えていたのは、規則に反することなく此方の密書を保持する役目は千茅であることを伏せるための芝居だったのだ。
あとは密書保持役と錯覚されている三郎と、三郎を隠す為を装った兵助達が下手をしない限りは千茅に矛先が向けられることは無い。


それを知っているからか、あからさまに呆れを滲ませた三郎の言葉にも千茅はからからと暢気に笑って返した。

「大丈夫大丈夫、バレない限り先輩方は三郎が持ってると思ってらっしゃるんだから。それより、全力であっちの攻撃班に追われる三郎の方が大変だと思うけど?」
「確かに。九子の予想通りの三人が攻撃班だとすれば…地獄だね」
「…想像するだけで寒気がするな」
「……言うな、今から気が滅入る」

息を呑む勘右衛門と八左ヱ門に、些か覇気のない声でそう返し三郎は肩を落とす。

持ってもいない密書の為に、あの小平太と文次郎と留三郎という最も相手にしたくないトリオから追いかけまわされることになるのだ。
伊作などならともかく、戦闘好きのあの面子のことだ、それはもう嬉々として情け容赦なく襲ってくるだろうことは明白だ。自らも加担した一計とはいえ、気も重くなるというものだろう。

そんな三郎と、宥める雷蔵を横目に、九子が溜息と共にぽつりとぼやきを漏らす。

「…仙蔵先輩辺りにさっきの伏線を気付かれなければいいけど」
「注意しても長引くほど襤褸が出る、長期戦は不利だな。バレる前にやるしかない」
「短期決戦、か…。…千茅、」

懸念も漏らす九子の視線を受けて、千茅は瞳の奥に少々獣めいた揺らぎを灯してにっこりと笑う。


「分かってるよ。かますなら一発目に、…よね?」
「… 流石」

含みを持たせた彼女の笑みを見て、九子はこの実習が始まって初めて口元に弧を描いて薄く笑った。



20140427