いろは唄 | ナノ


珍しく、それこそ此処数年で一番と言ってもいいだろう。
それ程に盛大な溜息を溢した彼は些かげんなりした様子で背を丸め緩慢に脚を進めていた。
そして左右にちらりと視線を巡らせて、もう一度堪えきれない様に息を溢す。


首元を擽る柔らかな猫毛、それは本来自分と、そして自分に扮して遊ぶ三郎だけが持つものだ。
自分と同じ顔が目の前にいることなどもう大分前になれてしまったし、気味が悪いとも思わなくなった。感覚が麻痺してしまったともいえる。

だが今回ばかりは流石に、如何に彼がその点で寛大であっても、気味が悪いと言わざるを得なかった。
それくらい複雑で、異常な光景なのだ。現在彼の目に映るのは。

「はぁ…」
「雷蔵、そう落ち込むなって」
「落ち込んでるわけじゃないけど…複雑になるのは仕方ないよねこれ」
「はははー大丈夫、俺達だって変な感じだし」

慰める八左ヱ門、暢気に笑う勘右衛門。耳だけで捉えれば常と変らぬもの。
だが奇妙なことに、雷蔵の肩を叩いたのも頭の上で腕を組んで笑ったのも、その姿は雷蔵と寸分違わぬものだった。
違うのは声と、表情だけ。それ以外はきっちり同じ、それこそ鏡に囲まれているかのように。

右を見ても左を見ても、序でに言えば後ろもその横も全てが自分と同じ顔。気が滅入るのも無理はなかった。
慰める自分の顔を見上げながら、彼は何度もかも分からない溜息を溢す。

「三郎だけならまだしも…はぁ」
「私は悪くないぞ、恨み言は発案者に言ってくれ」
「そもそも僕の顔と髪の予備を三つも持ってる君が恐ろしいよ三郎」

平然と返す元凶の一人を恨みがましく睨んだが、当人は悪戯っぽく口の端を歪めて肩を竦めるだけだ。
千茅の発案からものの数分で三人分の変装を完璧に施してしまった彼は確かに変装の天才であったが、今の彼には忌々しいだけである。

が、そんな雷蔵の様子にも三郎は悪びれるどころか得意げに胸を張って答えた。

「勿論、雷蔵のなら予備はごまんとあるからな」
「うわー三郎気持ち悪っ」
「そこまで突き抜ければいっそ清々しいな」
「喧しいぞい組」

淡々と暴言を吐くい組扮する雷蔵二人の軽口を聞きながら、彼らは集合場所へと脚を急がせる。
そんな暢気な彼らの背後で、些か大義そうに緩慢に動く影とそれに合わせるように歩調を緩める影がそれに従っていた。

「……はぁ」

常の無表情は形を潜め、九子は大層不機嫌そうに眉を顰めて溜息を溢す。
そんな相棒の様子に苦笑を漏らしつつ、どこか楽しさを隠しきれない様に千茅が声を掛けた。

「ふふ、ごめんね九子」
「…別に、千茅の所為じゃない。奇を衒うには最善の策だから」
「その割に不機嫌そうだね?」
「… 気に入らないのは事実だから」

舌打ちと共に的確に前を歩く三郎の背に鋭い視線を突き刺して、彼女は小さく息を溢した。

別に皆が雷蔵の姿をすることが気に入らないのではない。確かに必然的に気に入らない三郎と同じ顔が増えることにはなるが、そもそも元々は雷蔵の顔なのだから苛立ちの元にはならない。


ただ、そう。これほどまでに彼女の機嫌を損ねているのは。


「……はぁ」
「何時になく三郎を見る目が厳しいのは気のせいじゃないよねぇ」
「一刻も早く始まって欲しい、じゃないと何時まで保つか自信ない」
「はは、もう少しもう少し。最初が勝負だから、お願いね九子」
「…善処はする」


あまり自信はないけれど。

何とかその一言を飲み込んで、彼女は忌々しい姿を目に入れぬよう顔を伏せる。
演習開始まであと僅か、それまで自分の理性が保つことを祈ろうではないか。



◆       ◆       ◆



「んん、皆集まったようじゃな」


そう来たか。

定刻通り姿を現した敵方の姿に、学園長の言葉を聞くことも忘れて六年生の面々は僅かに目を見開くこととなった。


目の前にずらりと並んだのはくのたまの二人、そして…不破雷蔵が五人。
変装名人と称される三郎がいることから変装を使ってくることは予期し得たが、まさか開始以前から、しかもこんな形で仕掛けて来ようとは。

しかも見た目には完全に見分けがつかない。どうやら三郎直々に施した変装らしい。
そう判断して、思わず各々口の端を歪めてこれからの期待に高揚する心を諌める。なるほど面白くなりそうだ。


僅かにぎらついた空気を漂わせる彼らに、学園長の声が割って入る。

「うぇっほん。あー、それでは、密書担当を教えてもらおうかのう。六年生は誰じゃ?」
「私です」

緩慢に手を挙げたのは仙蔵だった。

九子の予想通りであったことに五年の面々は僅かに視線を交わし、学園長が視線を五年へと移した後、口を開くより先に五人のうちの一人がゆるりと手を挙げる。

「五年の密書担当は私です」


にやり。些か生意気そうに不敵な笑みを浮かべて言った彼を見て、六年側も小さく言葉を交わす。


「なるほど鉢屋か、面白くなりそうだな」
「予想通りといえば予想通りだが…厄介だな」
「え、何で?だって分かるから問題なくないか?」

苦々しげな仙蔵の言葉にかくりと首を傾げて見せたのは小平太だった。

というのも、五年の変装は確かに見事ではあったが六年である彼らからすれば決して見破れないものではない。
八左ヱ門などはあまり変装を得意とはしていないし、勘右衛門や兵助は流石にい組だけあって優秀ではあったがごく僅かに仕草に違和感は残る。
つまり、完全に見破ることが困難なのは三郎だけであり、さほど演習に支障はない。そう判断しての反応であった。


しかし仙蔵の表情は晴れぬまま、呆れ気味に小平太を窘める。

「小平太…よく考えろ、確かに見破るのにさほど苦労はないが演習中は戦闘も伴う。判断力も普段通りとはいかない、見た目が同じというだけでも混乱は必至だ」
「まぁ…確かに」
「しかも一度見破っても見失えばそいつが誰なのか分からなくなる。遭遇するたび逐一見破らなきゃならんのは面倒だな」
「考えたね…密書は千茅か鉢屋だとは思ってたけど、千茅が手空きとなると攻撃が厳しくなるだろうし一筋縄じゃいかなそうだ」
「鉢屋が保持者となれば九子は防衛ということはないだろうが…攻撃班って性質でもないしな。その時々で指示を飛ばす参謀ってとこか」
「もそ…厄介だな…」

各々五年の戦略を見透かすように言葉を交わしつつ、言葉とは裏腹に楽しげに笑みを浮かべていた。
なるほど、強敵だ。流石に五年間経験を積んできただけのことはある。


そんなどこか獣染みた、好戦的な表情を浮かべる彼らの視線に甘んじつつ、五年の面々はどこか緊張気味に肩を寄せ合って小さく声を交わす。


「…大丈夫、だよね?」
「まぁ千茅と三郎の案だ、大丈夫だろう」
「先輩方やる気出し過ぎだろ…」

ぼそぼそと多少弱腰ながら会話を交わし、彼らはちらりと視線を右へと向ける。
そこには大層不機嫌そうに頭を抱える少女と、その横で苦く笑うもう一人の姿があり彼らは自然に苦笑を溢すこととなった。

「…早くしないと九子の血管切れちゃうかも」
「すぐ終わるさ、ほら」
「とりあえず最大の難所は終わり、かな…?」

言いながら、学園長からそれぞれ担当の二人に密書が手渡されるのを見届けて彼らは僅かに安堵の息を漏らす。



さぁ、まず第一関門は突破だ。



20130619