いろは唄 | ナノ


「ありがとうございました、失礼します」

頭を下げつつ丁寧に戸を閉めて、彼女は廊下を歩いて進む。
委員会や実習のことでいくつかの質問を聞き終えて教師長屋での用を終えた彼女は軋む筈の床を音も無く歩いていたが、ふと後ろに微かな気配を感じて振り返った。

そこには同じく用を終えたらしい親友の姿があって、ふと頬を緩めて名を呼ぶ。

「九子、終わったの?」
「…松千代先生だけいらっしゃらなかったからそれだけ後で来なくちゃ駄目かな。あとは終わった」
「新書入荷の話?」
「うん、大陸から新しく兵法大全が入ったらしいから許可をね」

淡々とした口調ながら何処か喜色が滲むそれに、千茅は思わず口角を上げた。
どうやら知識欲旺盛な友人はその本に興味津々らしい、自分もそこそこ知識には貪欲である方だと自負しているが九子には到底敵わない。

嬉しそうな彼女を見て自分まで何処か嬉しくなっていると、九子はそれに気付いたのかふと僅かに口の端を上げて千茅を見つめた。

「千茅が読みたがってた医術書も申請出しておくから多分入荷される筈だよ」
「え、本当に?」
「ただ少し専門的すぎて、伊作先輩と千茅くらいにしか需要が無いのが気になるけどね」
「大丈夫、数年後には数馬くん達が必要とするだろうから」

にこにこと上機嫌を隠そうともせずに笑みを浮かべる千茅に、今度は九子が笑みを溢す。

自分と違って任務中以外は感情を隠さない千茅を九子は好ましいと思っていたし、逆に千茅は表情の変化に乏しい彼女がふとした時に表に出す感情が好きだった。
互いに自分にない相手の一面を好ましいと思っているからこそ続いている友情ではあったが、互いに相手がそう思っていることを知っているから口にすることは無い。

二人して上機嫌で廊下を歩いてくの一の敷地に戻る途中、ふと千茅が思い出したように口を開いた。

「あぁそういえば」
「どうかした?」
「庄ちゃんと彦ちゃん、あと左近くんに会ったから、あの道には今日一日なるべく近寄らないように伝える様に頼んでおいたよ」
「そう、なら一、二年は心配ないかな」
「もう既に乱太郎くんは犠牲になっちゃったみたいだけどね」

唐突な話題にも特に戸惑った様子も無く九子はそう返し、千茅も当然とばかりに話を進めていく。


あの道、とは彼女達が此処に来るまでに通るくの一教室から職員用長屋に続く道の事であり、当然学園内だ。
だがその日常の一部が今は少々の危険を孕んでいることを彼女達は理解していた。そしてその標的が自分達であること、その犯人、思惑も全て。

「全く…困った子」
「ここ二、三日ちょっと見境無いからねぇ…関係ない子巻き込み始めちゃったからどうにかするべきなんだろうけど、熱心なのはいいことだし注意するのもなぁ」
「この間の合同委員会ではずっと凝視されて居心地悪かったよ。かと言ってなんて言えばいいか分からないから気付かないふりしちゃったけど」
「可愛いんだけど…態とひっかかったらかえって不興買いそうだから出来ないしね」
「…飽きるのを待つしかないか」

苦笑気味に話題の種にしているのは、最近彼女達を悩ませている可愛い後輩のことで。

四年い組の穴掘り小僧、又の名を綾部喜八郎。
自分達を些か遠巻きに見る節のある四年の中では珍しく、何の遠慮もなく自分達と接してくれる彼を後輩好きの彼女達は例に漏れず可愛がっているのだが… 最近は少しばかり困っている。


気付いたのは一週間ほど前だっただろうか、ある日を境に学内に不自然な道が増えたなぁと首を傾げた。
勿論彼女達が僅かに違和感を覚えるだけで、一見して妙だと感じる人間はごく少数なくらい普通だったのだがそれでも彼女達に疑問を抱かせるには十分だった。

その違和感の正体は分かっている、そして普段見かけないわけではないからそれ自体を不思議に思ったわけではない。
問題はその量がどんどん増えて、そして自分達が利用するある一定の場所に偏っていることにあった。

首を捻った数時間後にはその理由を知って苦笑した彼女達だが、特に問題ないだろうと放置していた結果…現在無視できない量まで増えてしまったわけであるが。

「どんどん深くなってきててね?形も綺麗な逆円錐に返しまでつける徹底ぶりで、乱ちゃん自力じゃ出れなくて大騒ぎだったよ」
「…喜八郎は罠に関してのプライドは半端じゃないからね、そろそろ形振り構わなくなってきたんでしょう」
「ふふ、勉強熱心だよね。…ところで九子、風の噂で聞いたんだけど」
「何?」
「真剣な表情をした喜八郎くんが先輩方の長屋に入っていったのを一年生が見たって」
「………」

苦笑い、と呼ぶには少しばかり苦いものを多く滲ませた口調で呟いた千茅に、九子はぴたりと動きを止めて。
そして友人と顔を見合わせて、その無表情に僅かに呆れを滲ませて溜息を溢した。

「…少なくとも二人、下手をすれば三人かな」
「まぁ、小平太先輩がきちんと喜八郎くんの求めるアドバイスをなさるかどうかは置いといても、三人だろうね。仙蔵先輩もこういうの好きそうだし」
「……明日、大変な一日になりそう」
「でも明日で終わるんじゃないかな、きっと。あと一日可愛い後輩と尊敬する先輩方に付き合うのも悪くないよ」
「…一年生か留三郎先輩に会いたい」
「癒しは終わった後、ね」

くすくすと笑う親友に頷くことで返しながら、今頃罠改良の議論に花を咲かせているだろう六年長屋の方に視線を向けつつ九子は再び小さく息を漏らした。



20120504