いろは唄 | ナノ


一見なんの変わりも無い、整然と均された地面。
それをじっと見つめて、不服そうに眉を顰めて。愛用の手鋤を片手に踵を返し、彼は不機嫌を隠すことも忘れてその場を後にした。


もう手段は選ばない、と。静かなる闘志を胸に秘めた彼が向かう先は学園で寮を担う長屋の一室で。
がらりと無遠慮に戸を引いた先に居たのは、少し驚いたように目を瞬かせる上級生の姿だった。

「先輩方、少々知恵をお貸りしたいのですが」
「…綾部?」

こうして、事件は始まった。









「「…はぁ?」」

拍子抜け、まさにその表現を体現したような顔で彼らはそう零す。

やけに真剣な表情をした喜八郎の冒頭の発言により、部屋を訪れられた伊作と留三郎が残りの六年を招集したことにより現在狭い室内に実に七人もの人数が集まっていた。
知恵を貸してほしい、そう態々頭を下げてきたのだから余程のことなのだろうと視線を集める六年を余所に、喜八郎が告げた内容は実に彼らしい…一般的には下らないもので。

「…双璧が罠にかかったことがあるかだと?」
「そうです。一年の時からあの二人をご存知な先輩方なら知っておられるかと」
「おい綾部、まさかそんな下らない事で俺の鍛錬を邪魔したのか…」
「そうですが」

既に青筋を浮かべて喜八郎の胸元を掴む文次郎に、当の本人は意に介した様子も無くあっけらかんと言い放つ。
その態度に完全に怒りに駆られる文次郎だったが、仙蔵が手にしていた宝禄火矢― 勿論火はついていないが ―を投げつけたことで彼が暴れ出すという事態は避けられた。
鈍器が後頭部に直撃しそのまま地に伏せた文次郎に代わり、興味深そうに仙蔵は後輩に問いかける。

「ふむ、いきなりどういう経緯でその疑問を持ったのか知りたいところだな」
「て、め…仙蔵っ…!」
「黙っていろ文次郎、話が進まんだろう。あの二人が罠にかからないことなど今更だろう、何か訳があるのか?」

もう一つの宝禄火矢を放り投げて、視線も向けずに止めを刺した仙蔵の問いに喜八郎は少しだけ沈黙した後きっぱりと答える。

「あのお二人だけなんです」
「…何がだ?」
「この学園で、僕の仕掛けた罠に一度としてかかっていないのは。先輩方も、稀に先生方すらかかる程度には腕を上げたつもりです。なのにあのお二人だけはどうやってもかからない」

淡々と紡がれる喜八郎の言葉に、痛みとの格闘を強いられている文次郎を除いた六年は各々顔を見合わせる。
…そういえば、不覚ながら皆一度はこの後輩の仕掛けた罠にかかった覚えがある。
伊作などは寧ろ日常茶飯事であるし、プロにも劣らないと謂われる六年といえど未熟な時期はあるもので、天才トラパーと謳われる少年お手製の罠には苦い思い出があった。

さて、自分達六年ですらそうであるのに、あのくのたまの二人はどうであったろうか。

五年間の記憶を各々辿っていくものの、付き合いの長い伊作や留三郎ですらそんな彼女たちの姿は思い浮かばなかった。

「…そういえば」
「無い、な」
「無い!」
「…ぼそぼそ」

疑問に思ったことも無かった。そんな様子で目から鱗とでもいうように頷き合う六年の姿を見つめて、喜八郎は言葉を重ねる。

「一度も?一年や二年の時もですか?」
「うーん…無いと思うけど、留三郎どう?」
「あー…いや、無い。俺は割と一年の頃から九子と関わってるが聞いたことも無い」
「千茅もなぁ、僕が落ちて助けられることは多々あるけど、落ちたって話は聞いた事ない」
「あいつら昔から化け物染みていたからな!」
「お前が言えたことではないと思うぞ小平太」

わいわいがやがや。思い思いに発言を交わし雑談状態になる六年の会話に耳を傾けながら、喜八郎はじっと考えを巡らせていた。

今日だって、きっちり二人の行動を考慮したうえで一番利用頻度の高い道に多数の罠を仕掛けていたのだ。
それなのに通る二人は絶妙にそのポイントを避け、そして気付いているのかも分からない素振りで平然とその場を行き来して、結果惨敗である。
たまに通りがかった忍たまはほぼ確実にその餌食となっていたのに、だ。


本人不在の状態で話の種となっている二人だが、くの一教室の双璧…つまりくのたま五年の初芽千茅と九子を指している。
今でこそ凡そ欠点の見当たらないくの一教室を支える双璧と謳われる彼女達であるが、一年のころはそこまで突出した存在ではなかったらしい。
喜八郎が淡い期待を込めて幼い彼女達を知る六年を訪ねた理由は此処にあるのだが…。

生憎山育ちで暮らしに自然が組み込まれていた千茅は一年時から地面や草木の僅かな変化で罠の存在を知ることが可能であったし、常人とは頭の構造が違うのではないかと囁かれる九子に至っては知識と理論によってそれを打破することは容易であった。
つまり、例え忍びとしての経験がほぼ皆無の時代であっても、罠の回避は容易かったのである。喜八郎には非常に気の毒な話ではあったが。


「…おい」

思考に捉われていた喜八郎や、会話に白熱している六年衆の間に響く声。
それは先程まで悶絶して転がっていた文次郎から発せられたものであり、低く響いたそれは図らずともその場に静寂を導いた。

「…潮江先輩?」
「どうかしたか文次郎」

六人の視線を一身に受けつつ、緩慢に起き上がった文次郎が発した言葉は実にシンプルなもの。

「のった」
「はい?」
「その作戦乗ったっつってんだよ。双璧を罠にかける、上等じゃねぇか。何より俺を差し置いて五年が無傷なんて六年の名が廃る」
「ちょっと文次郎!何言ってるんだ、それって千茅達を罠にかける手伝いをするってことじゃないか!」

焦ったような伊作の至極正論である制止も、何処か妙なスイッチの入った文次郎には届かず。
寧ろその傍にいた約二名に飛び火した事実に、伊作はまだ気付かない。

「…いいだろう」
「は…?」
「喜八郎、その作戦私も加勢してやろうではないか。作法委員として良い実習になりそうだ」
「仙蔵!?」
「良く分からんが私ものるぞー!あの二人ならば良い鍛錬になりそうだしな!」
「小平太まで!」

「…おやまぁ」

静かにプライドに火がついたらしい作法委員長と、あまり趣旨を理解していなさそうな学園きっての暴君まで加わって。
過去に罠にかかったことがあればそこからヒントを見出せるかもという本来の思惑とは別の方向に動き始める話を傍観しながら、喜八郎はぼんやりと燃え上がる三人とそれを必死に制止する伊作、呆れ気味の留三郎と無表情の長次という如何ともしがたい上級生たちを見つめていた。

「…少し妙な方向になってきたけど、まぁいいか」

丁度いい、やたらと張り切っている彼らの知恵を借りてあの双璧に通用する罠でも考えることにしよう。
のんびりとそう考えて、とりあえずこの騒ぎが収まるまで茶でも飲んでおこうと茶器を取りに立ち上がった。




20120428