いろは唄 | ナノ


西日の差し込む、ぱらりと紙を捲る音すら響くような静かな空間。
人によっては近付くのにすら尻込みを感じるようなその場所、図書室。少なくとも通い慣れていなければ居心地の悪さは多かれ少なかれ感じるだろう、特に忍術学園一無口な男と言われている図書委員長が当番の日には。
幸い  と言うのは些か如何なものかとも思うが  今日の当番は穏やかで後輩当たりも良い五年の不破雷蔵で、仕事をしている同級生の姿に片手を挙げた八左ヱ門は普段よりも人の多い室内を見回した。
きっちりと私語飲食禁止を守っている下級生たちがなんとも微笑ましい。


手前の長机が並ぶ空間を通り抜けて、端の本棚、専門書の並ぶそこを進んでいく。
利用する者が限りなく少ない為にいつでも人気の少ないその場所の奥に、もう一つひっそりと置かれている机があるのだ。
知る人ぞ知るとでも言おうか、一人で集中したい時や今日のように混んでいる時には便利な穴場。まぁ穴場だろうが何だろうが普段図書室に縁のない八左ヱ門にとってはあまり関係のない話ではあるのだが。
自他共に体力派だと認める彼が何故そのようなことを知っているのかといえば、偏にある人物から聞いただけのことであって。そして今八左ヱ門が珍しくも図書室に足を運んでいる理由もまた然り。
基本的に室内で大人しくしているよりも外で身体を動かす方が落ち着くのだ。決して座学が嫌いなわけじゃなくて、と誰にするでもない言い訳をしながら小難しい本たちに囲まれるそこに足を進める。
正直、あまり居心地はよくない。よくはないけれど。


「九子」
「…八」


ただ、数日間の忍務に行って明朝まで帰らない筈の彼女が帰ってきたと、そう聞いたから。理由なんてそれだけで。
自身の感覚に引っ掛かった、見知ったという言葉だけでは最早足りなすぎるそれに無意識の内に頬が緩む。そのままの流れで自然と零れるように名を呼べば、徐に顔を上げた彼女がぱちぱちと瞬いた。
勿論私語厳禁な図書室内、だが五年ともなれば声を出さないで会話をするなど朝飯前だ。


「おかえり、予定より結構早かったんだな」
「ん。」


隣にすとんと腰を下ろせば、ただいまと頭が小さく頷く。
予定されていた期間よりも早く忍務を終わらせてくるだなんて、九子や彼女の相棒にとっては珍しいことでもないけれど。笑う八左ヱ門につられるように柔らかくなった九子の表情にゆるりと眉が下がり、次いで彼女の手元にある数枚の紙に目が行った。
机上に図書室のものと思われる本は一冊もなく、どうやら個人的な仕事をしに来たらしい。資料が必要なものでもなさそうだ。
珍しいな、と思う。九子はこう言ってしまってはなんかもしれないが自分から人に関わろうとするタイプではないし、故に部屋で済むようなことをわざわざ外に出てやるような性格でもないから。外と言っても図書室のこんな奥まった所なわけだが。
そう思ったのが表情に出ていたのか、九子は少しばかり忌々しそうに顔を顰めて。


「…庄左ヱ門と彦四郎が来てたから」
「部屋にか?でもお前あの二人好きだろ?」
「いつ鉢屋が来るか分からない」


ちっ、と舌打ちすら飛び出しそうな口振りに苦笑が漏れる。
本当に気に入らないんだなと、そんなことすら野暮過ぎて言えない。
どうやら最初は自室で休もうと思ったらしいが、同室である千茅のもとを学級委員長委員会の後輩二人が訪ねてきていたらしい。
後輩は愛でるのが基本な九子は例に漏れずその二人のことも気に入っているが、如何せんその学級委員長委員会という肩書きがいけなかった。そのメンバーが集結していることも。
何故とは言わずもがな、鉢屋三郎もまた学級委員長だから。
よって部屋の障子を開く前に踵を返し、仕事を抱えて図書室まで足を運んだのだそうだ。気配に気付いていたに違いない千茅は内心苦笑していることだろう、八左ヱ門だって話を聞いて苦笑がおさまらない。


しかし、そうなると九子はもしかしなくとも忍務から帰ってきてそのままなのか。
いくら彼女がくの一、ひいては忍術学園すらをも支える双璧の片割れだとしても、それは如何なものだろうか。忍務に忙殺されてぱったり、だなんて前科があるだけに笑えない。
鉢屋も九子が忍務だったのは知っているから、無闇に押し掛けたりはしないだろうに。最も彼女に言わせればそれすらも含めて気に食わないのだそうだが。


「少し休んだらどうだ?眠いんだろ」
「…」


先程から少しばかり瞬きが多い。
俺隣にいるから。そう頭に手を乗せると、迷うように揺れている筆を問答無用で手元から奪い取ってやる。
明朝に帰ってくる予定だったのだからこの仕事が急ぎな筈はないし、ここで仮眠をすることのリスクはたった今取り除いた。そして何より、九子がここまで眠そうなのも珍しいのだ。
そう指摘してやると、う、と言葉を詰まらした彼女は小さく息をつく。それにまた苦笑して。


ぽすん、と。
頭が隣の肩に導かれたのをとどめに、九子は潔くその柔らかな布の感触と温度に目を閉じた。


(…各委員会の昨年度と今年度の帳簿か)


すぅ、程無くして聞こえてきた浅い寝息。左腕は傍らの身体を支えたまま、机上の紙たちと筆を引き寄せる。
くの一教室のものだが、勝手は同じだ。曲がりなりにも自分だって生物委員会の委員長代理なのだから。
ぽん、ぽん。一定の間隔で軽く叩けば寄りかかってくる重みが増す。
その様子に小さく笑い、八左ヱ門は筆を手にするとくるりと一回りさせ、さらさら紙面上に踊らせた。




(八ー、そろそろ図書室閉める時間なんだけど。どうする?)
(ワリ、鍵預からせてもらえねぇ?)
(ふふ、どうぞ。)




20120614/20120716