いろは唄 | ナノ


道なりに脚を進めながら空を仰ぐと、告天子が頭の上を飛んでいく。
それをのんびりと見送りつつ、少女は小さな身体を思い切り伸ばして思わずその場に立ち止まった。

春も終わりに近づいて、草花が賑わい始めた季節なので歩くのは苦痛ではない。
故郷から少し離れた土地には本でしか知らない植物も多かったし、身体を動かすことは嫌いではないから。


そう、ただ言うなれば、緊張しているのだ。これから向かう場所、始まる生活、見知らぬ土地に。

目的の場所はもう視界に映っている、ちらほらと自分と同じ年頃の子供たちがその建物に入っていく。
その中には少数ではあるが門の辺りで父親や母親に手を振って別れを告げる者も居て、それを見て彼女はほんの少しだけ心細さに身体を縮こめた。
…情けない、優しい父に迷惑をかけないようにと此処へ来ることを決意したばかりなのに。

深く深く息を吐いて、大きく胸を膨らませて。ぱしりと小さく音を立てて両頬を叩くと、彼女は覚悟を決めたように背筋を伸ばし再び歩き出す。


そうしてまだ幼い彼女には大きなその門をくぐり抜け、今までの日常に別れを告げるのだ。


― 『忍術学園』、そうご丁寧に掲げられた表札を横目に、少女は恐る恐る前へと進む。





「…広い」

ぽそり、独り言のような言葉を溢してきょろきょろと頻りに周囲を見渡した。
想像していたものよりも広く、大きな池や建物が並んでいる空間は彼女にはとても珍しく脚を進めるよりも首を動かす方が忙しい程だ。

この敷地の大部分の地面が平らに均されているというだけですごいなぁと感心するのに、こんなに建物が並んでいるとまるで小さな街みたいだと溜息を洩らした。

と、落ち着きなく首を動かす彼女に背後から唐突に声が掛かる。

「そこの貴女、入学希望者?」
「え…?」

自分の事だろうかと反射的に振り返ると、そこには背の高いすらりとした女性が此方を見つめてにこりと微笑んでいた。
その体躯を漆黒の忍装束に包み、頭巾を被っていることから恐らくこの学園の先生なのだろう。
その凛とした美しさと柔らかな笑みに見惚れて、上手く動かない口の代わりに小さく頷いて見せる。

「そう、じゃあ此方へいらっしゃい。名簿に名前を書いて、入学金の支払いを済ませたらこれに着替えてね」
「あ、はい…」

てきぱきと手を引かれるままについていくと、長机の上に乗った紙と筆。
流れるような仕草でそれを渡され、言われた通り筆を走らせる。自分の上には既に数人の名前が書かれていて、あぁこれからこの人たちと過ごすんだなぁと何となく感慨深くそれを見つめていた。

両親から預かったお金を手渡して、代わりに桃色の布を受け取って。にっこりと笑顔を見せたその女性はしなやかな手で彼女の頭を撫でる。

「そこの部屋でそれに着替えて、そこの角を曲がって真っ直ぐの一年の教室に行きなさい。またすぐに会うわ」
「はい」
「それと…何も取って食いやしないんだから、あんまり緊張しないこと。ね?」
「…っ、はい」

くすくすと可笑しそうに笑ったその人に、何だか気恥ずかしくなって彼女は足早に部屋に飛び込んだ。

ぴしゃりと戸を閉めて、ずるずると肩の力を抜いて。そうしてきつく抱きかかえていたそれを広げると、それは先程の女性が身に纏っていたそれと同じ形。
忍と呼ばれる人間が身に纏う、装束。


「…くの一、かぁ」

こんな自分になれるのだろうか。そんな弱気が若干顔を出したのを無理矢理押し込めて、誂えたようにぴったりなそれに袖を通す。

不安になるのは後でいい、だってまだ一日目が始まってもいないのだから。
そうなんとか言い聞かせ、彼女は平凡な少女から忍を志す者へと変わった己の姿を見下ろして、似合わないなぁと小さく苦笑した。



◆     ◆     ◆



くの一クラスというものは男子と違って希望者が少ないのが通年らしい。

どうやら自分達の年も例外ではないようで、教室の半分が埋まるかどうかという程度で先生…先程の女性が現れ今年の新入生は此処にいる者で全てだと言い放った。
尤も、同じ年頃の子供と会うことなど殆ど無かった彼女にとってはこんなに多くの少女が同じ空間にいることだけで随分な驚きであったが。

生まれも育ちもバラバラな少女達の視線を集めるその人がにっこりと笑って、ぱしりと手を打つ。

「まず自己紹介ね。私は山本シナ、これから貴女達にくの一となるために必要なことを教えていきます。よろしくね」

笑顔も、僅かに傾げられた首も、その一挙一動の全てが美しく思わず見惚れそうになりながら少女達はそれぞれ返事を返した。

綺麗な人、と溢す様に漏らした少女達の中に自分も将来あのような女性にならなくてはならないのだと理解している者は何人いるのだろうか。
強く、美しく、他人の心を操る術を持つ…それがくの一としての最低条件なのだから。


先生は何処か一瞬不敵に笑みを浮かべたかと思うとすぐに柔和なそれに戻し、そして一番前に座っていた少女を指差した。

「自己紹介は後で勝手にしておいて…と言いたいところだけど、名前くらいは知っておいた方がいいかしら。貴女から順番にお願い」
「は、はい!」

それを皮切りに順々に自己紹介をして頭を下げる中、彼女は自分の右隣の少女がそれを終えると小さく深呼吸をして立ち上がる。



「っ初芽千茅です、よろしくお願いします」



さぁ、これが記念すべき第一日目。




20120629