いろは唄 | ナノ


早起きは三文の徳、とは言うけれど。



「あ」
「ん」

片や、手拭いを引っ提げて寝起きの様子で。片や、泥に塗れ些か疲弊した様子で。

そんな全く異なる印象を与える二人が、まだ日も昇らない早朝に人気のない庭でばったりと顔を合わせる状況はそうあることではない。
しかもそれが敷地を隔離されている忍たまとくのたまであればますます稀有なことだ。

ぱちぱちとお互いに目を瞬かせて相手をじっと見つめ、そうして反射的に笑顔を作ることで返した。

「おはようございます、留三郎先輩」
「おぉ、おはよう。こんな場所でこんな時間に会うなんて珍しいな千茅」

一瞬困惑に身を固くしたものの、互いに相手を把握すると口の端を上げてそう挨拶を交わす。
留三郎からすれば彼女は何年も前から可愛がっている後輩であったし、千茅からすれば彼は尊敬する先輩の中でも特に信頼を置く人物の一人だ。
当然のことながら互いに好意を持っていたし、機会を作らなくてはそうそう会える相手でない人間と偶然に会えたことは喜ばしい事であった。…普通であれば。

しかし、今回は少しばかり状況が宜しくない。
千茅は些かの焦りを感じながら、泥に汚れた手を服で拭いにっこりと綺麗な笑みを作って留三郎に向ける。

「留三郎先輩すごく早起きなんですね、まだ寅の刻も過ぎてませんよ」
「いや朝の鍛錬をと思ってな。千茅こそそんな恰好でこんな時間に人目を避けるような場所を選んで通るとはよほどの事情があるんだろうなぁ?」
「………」

にこり。表面上は笑顔を象っているものの、完全に冷たい空気を醸し出す留三郎に千茅は口を閉ざすことで返した。
勿論こんな早朝に泥だらけでうろついているなどこの学園に所属する者なら大抵は同じ理由で、千茅も例に漏れずその日課を終えてきたところだ。

ただ彼女はあくまでくのいちを志す身であったので、身体に過度の負荷の掛かるそれは好ましくないと再三言われ続けている。
勿論、この目の前の留三郎と、その同室であるもう一人の先輩にだが。

言い訳をするにしても逃げるにしても、どうせ後で捕まってお説教は免れない。
諦めたように小さく息を溢した彼女がゆるゆると視線を合わせると、その先で留三郎の笑みが瞬きの間に真剣なものに変わった。

あぁ、逃げられない。

「…ごめんなさい」
「怒られると分かってるならいい加減懲りろ。ちゃんと寝たのか?」
「一刻くらいは…」
「全っ然足りん。九子はどうした?」
「休んでます」
「入れ替わりで鍛錬しているわけか。あいつは何時に寝たんだ」
「…半刻前?」

千茅が言葉を返すたびに、留三郎の眉間に刻まれる皺は少しずつ増えていく。
何のことは無い、生真面目なくのたまの双璧は自分達の再三の説教も何処吹く風で、睡眠も碌にとらず鍛錬に励んでいたというわけだ。

何処かの鍛錬馬鹿じゃあるまいし…。
そんな言葉を胸中で呟きながら留三郎は盛大に溜息を溢し、目の前で苦笑気味に此方の様子を窺っている千茅の顔を左手に握っていた手拭いでごしごしと拭ってやる。
頬の泥が白い手拭いに移るのを見て、彼女は焦ったようにわたわたと手を動かした。

「わ、わ、留三郎先輩…!大丈夫です、これからお風呂に行きますから」
「いいから黙って拭かれてろ。ったく、小平太じゃねぇんだから…女子なんだしあんまりやんちゃするなよ」
「…もう、子供じゃないんですから大丈夫ですよ」

まるで下級生にしてやるような手つきでごしごしと顔を拭ってくれる留三郎にされるがままに、千茅は苦笑気味にそう呟く。

留三郎とは普段九子か伊作を通して接することが多いのだが、こうして稀に二人になった時に改めて彼の面倒見の良さを実感することが多い。
それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあり。
漸く拭うのを止めて少し乱暴に頭を撫でてくれるその人を見上げて、彼女にしては珍しく照れたような笑みを浮かべた。

「よし、泥はとれたな」
「ありがとうございます、留三郎先輩」
「大したことじゃない。とにかく、さっさと風呂入って少しでもいいから寝ろよ」
「はい」
「あと、このことは伊作に報告しておくからな」
「………はぁい」

ぴしゃりと言い切る留三郎にほんの少し微妙な表情を浮かべて、たっぷり沈黙を置いて返事をする。
…穏便に済ませてもらえるかと少し期待したのだが、やはり見逃して貰えなかったらしい。

「今日実習だったな、早く終わりそうなのか?」
「あぁ、九子と色街に情報盗りです。すぐ終わると思いますよ」
「…遊郭か」
「色は必要無いような簡単なやつですから」
「…そうか、まぁ一応気を付けて行けよ。そんで終わったら俺らの部屋に来るように」
「……お説教ですか?」
「と、夕飯食って夜しっかり寝るまで監視だ」
「うぅ…」

些かげんなりした様子で呻く千茅に、ふと可笑しそうに口元を緩めた留三郎はそのまま踵を返し。
ひらりと片手を上げて井戸に向かいながら、さっさと一汗流して恐らく烈火のごとく怒るだろう同室の彼にこの事を伝えなくてはと思案を巡らせる。

「さて、忙しくなりそうだな」

さぁ、やんちゃ娘達に何と説教してやろうか。

白み始めた空を見上げて、彼は酷く楽しそうに笑みを溢した。



20120523