いろは唄 | ナノ


「兵助」
「…九子?」


いつも通りの起床時間、いつも通りの日差しと空気、いつも通りの朝の訪れ。
そんな、人が息を吸って吐くくらい自然で当たり前の光景の中、だが分かる人には分かる異質さに兵助は軽く目を見開くと足を止め振り返った。
背後から聞こえてきたのは、自分と同じここ忍術学園五年生、くの一教室の九子が己を呼び止める声。
聞き慣れたと言ってもいいくらいには深い付き合いである、珍しく忍たまと友好的な関係を築いているくのたま双璧の片割れだ。


そう、先に述べたように、歴代の中でも群を抜いて優秀だと謂われている現くのたま五年生の二人は、忍たまたちと基本的に仲が良い。
それは隙さえあらば忍たまたちで遊ぶことしか考えていないくのたまと、低学年のうちに彼女たちにいいように遊ばれトラウマを植え付けられる忍たまの間に溝が生まれるのは必須である忍術学園では、彼女たちに実力があることをふまえると余計に異例であるのだが、まぁそれは今は置いておくとして。
確かに仲が良い、それは自他共に認める事実だ。
だがその一言で纏められた中にも色々な事情というか何とやらが詰められているのであって、双璧のもう一人、千茅と比べて九子は少しばかり表面的な社交性が足りていなくて、つまり何が言いたいかというと。


九子が自分から兵助に話しかけるというのは、中々に珍しい光景なのだ。


「おはよう。どうかしたか?」
「…おはよう」


とりあえず朝の挨拶から入って問いかけてみれば、そう言えば、と言った風に九子も挨拶を返してくる。
ぼんやりと合わさる視線と、動くことのない表情。
大体の場合においてこれがデフォルトの彼女が姿を見たからなんて理由で寄っていくのは、六年の留三郎、同学年では八左ヱ門とたまに雷蔵、そして片割れの千茅くらいのものだ。廊下で対面したならともかく、後ろから呼び止められるなんてそうそうあることではない。
だからといって気まずさを感じるかと訊かれたら、別に答えは否なのだけれど。


些か話が逸れたが、結局は九子が何かしら久々知に対して用事を持っているからこそ今この珍しい光景が成り立っているのであって。
視線で続きを促してみれば、考えるように首を傾げた九子は懐から一枚の紙を取り出した。
ん、と差し出されるそれを受け取る。どうやら口頭での説明は面倒くさかったらしい。


「…豆腐直売会?」
「兵助興味あると思って」
「ある。…だけどこれどうしたんだ?」


ぴらりとしたそれに書かれていたのは、三日後の朝、丁度忍術学園の休日にあたる日に大きな街で開かれる市場のことだった。
その中の出し物というか、目玉の一つなのだろう。何人かの豆腐屋がその場で手作りの豆腐を作り売り合う、そんなことが大々的に説明されていて。
それを斜め読みしながら興味があるだろうという九子の言葉が終わるか終わらないかのうちに返事を返した兵助だが、不意に紙の下方、日時の書かれている場所に目を留めると軽く首を傾げる。
その街の名前は知っている。色々な店があるから買い出しをするには便利だし、それ故にたくさんの人も行き交う為情報も手に入りやすい。実習に使われることもしばしばだ。
だが、少しばかり忍術学園からは遠い。


普段から自分達とは比べ物にならない程の忍務や委員会の仕事に追われ多忙な上に、私情で出掛けることのほとんど無い双璧である九子が何故こんな紙を持っているのだろうか。
そんな疑問を込めた兵助の言葉に、ただ反対側に首を傾けた九子はあぁ、と口を開いた。


「忍務で行ってきたから」
「…まさか、今帰りか?」
「うん」


けろりと答える彼女に肩の力が抜ける。
どうやら忍服を纏っているにも関わらず髪が下ろされているのは、これから結うのではなく先程下ろしたところらしい。
なるほど、確かに今帰ったところならば朝の挨拶が頭になくても仕方がないだろう。今から活動を始める自分達とは異なり、九子は今から休むのだろうから。
…多分。


それだけ、と踵を返す背中。
もしかしなくとも、これを自分に渡す為だけにわざわざ忍たま長屋まで来てくれたのか。
普段からあまり表情が変わることもなければ故に感情も表に出にくい、そして合同演習ではろ組とよく組んでいる為にい組である自分とは関わりが少ない彼女。


「九子」
「?」
「ありがとうな」


それでも、安心して背中を預けられる大切な仲間だし、それに。
小さく首を傾げながら振り返った九子は、告げられた感謝の言葉にひらりと手を振って去っていく。
そんな彼女の背を曲がり角まで見送った兵助は、小さく口許を緩めると当初の目的地である井戸まで足取り軽く歩を進めた。




20120531