いろは唄 | ナノ


「おー九子。今帰りか?それともこれから?」
「八。帰りだよ」
「そりゃお疲れさんだな」


腕に小さな壺を二つ。
空の色も橙を通り越して紫が黒ずんでくる時間帯、口笛を吹きながら飼育小屋へと足を向けていた八左エ門は見知った同学年の姿を見つけ軽く手をあげながら声をかけた。
普段と違い高い位置で結われている髪は、彼女が頭巾を纏うときを示している。即ち校外での実習や忍務の場合だ。
今は忍務からの帰りらしい。小さく首を傾げる九子に労わりの言葉と共にニカッと笑ってみせれば、相変わらずの無表情の彼女は徐にこちらへと近付いてきた。その様子に疲れたところが見えないのはさすが双璧といったところか。


「なぁ、これから暇か?」
「別に何もないよ」
「ちぃっとばかし付き合ってくんね?」


忍務帰りに悪いという思いはあるが、今彼女と偶然出会ったのは八左ヱ門にとって幸運だった。
ちょい、と腕の中の壺を掲げながら言うとやはり九子は小さく首を傾げ、そして本当にそう思っているのかどうかもよく分からない声音でただ一言いいよと言う。
しかしそれなりに長い付き合いで、またその中でも九子とよく関わっている方だと自負している八左エ門は彼女が嫌がってもいなければ疎ましく思っていないことも分かった。彼女は慣れてくると結構分かりやすいのだ。
勘右衛門あたりは色々と頭の中でごちゃごちゃ考えては空回りしたりしているのだが。思い出すと少し笑えてくる。


「蜂蜜採るの?」
「おう。本当は孫兵がいるときがよかったんだけどな、急に保健委員会に頼まれちまって」
「孫兵…あぁ、三年生は野外実習」
「さすが、よく知ってんなー」


自分は後輩である孫兵を探している間に、たまたま教師に会って知ったというのに。忍たまの、しかも他学年の実習まで把握しているというのはさすが双璧だと素直に感嘆の声が漏れた。
生物委員会の三年生である孫兵は、毒虫の扱いにおいて学園の中でも飛び抜けて優れている。だからこそ普段委員会活動として蜂蜜を採取するときは、後輩に手順を示しながら八左エ門と孫兵の二人で行っているのだが。
その孫兵がいない今日に限って保健委員会から急遽蜂蜜を貰えないかという話が来て、そしてそれを簡単に断れるような性格を生物委員長である八左エ門はしていなくて。
仕方なく一人で行おうとしていたところに、なんとも都合よく、と言っては言い方が悪いかもしれないが、くの一教室の生物委員長でもある九子が通りがかったのだ。一人での採取は中々に骨が折れるから。
彼女も毒虫、と言うよりも何故か生物委員会の生物に対しての扱いが非常に巧い。特に孫兵のジュンコなどは、九子が特別可愛がるわけでもないのに異様に懐くのだ。


「じゃ、そっち頼むな」


じじ、翅が擦れあう音。
人差し指の先で蜜蜂を遊ばせている九子に蜂の対処は任せ、巣箱を引っ張り出し少しばかり蜜を壺の中へと失敬して。
決して全てを奪ったりはしない。傷付けもしない。
安全な居場所と餌場を提供し、その報酬を分けてもらう。その利害関係を壊してはならない。


こちらが敵意を持たなければ、向こうもむやみに攻撃をしてはこない。小さな翅を撫でながらそう言ったのは、目の前の少女だったか、それとも今は実習でいない後輩だったか。


「それ、保健室に届けるの」
「頼まれたからな。向こうが来るって言ってたけど、こっちから行った方が早いだろ」
「ふーん…一つ持つ。今なら千茅いると思うし」


この時代、蜜は貴重品だ。慎重に運ぶに越したことはない…が、ただの小さな壷二つ、八左ヱ門なら軽々と危なげなく運ぶことが出来る。
そんなことは互いに百も承知で、しかし九子の申し出に八左ヱ門は素直に甘え一つ壷を預けた。
特に理由はない。強いて言えば互いにそんな気分だっただけだ。


飼育小屋を出て鍵を確認した八左ヱ門は、先に歩き出していた九子の後ろ姿を見て不意に何か思いついたように手を伸ばす。
するり、髪が下りる感覚に九子の足が止まった。


「なに?」
「や、ちょっと」


片手に抱えていた壷を地面に置くと、今しがた解いた髪紐を咥え視線よりも下にある髪を梳いていく。
両手で壷を支えている彼女は、特に身動きをすることもなく大人しくされるがままになっていた。彼が自分に何か害を加える可能性など考えるだけ馬鹿らしいから。
僅かに引っ張られる感触がして、いつもの位置に髪が纏まっていく。八左ヱ門の手先は生物を扱うだけあって、見かけよりも丁寧で柔らかだ。


「うし、完了っ!やっぱこっちの方が落ち着くなー」
「…ありがとう」


普段と同じ場所、少しだけ違う感覚で結われた髪。
仕上げとばかりにぽんと頭を撫でて笑う八左ヱ門に九子もゆるりと頬を緩めた。
さて行くか、と壺を抱え上げる彼の隣に並んでゆっくりと保健室を目指す。もう辺りはすっかりと暗くなり、そろそろ生徒たちが夕飯の準備に動き出す頃だろう。


「千茅がいるってことは先輩もいるんだよな」
「…やっぱこれ返す」
「たまには食えって」


彼の言う通り、千茅が保健室に行ったのは伊作に会う為だ。
この時間帯に伊作に会うとどうなるか。八左ヱ門の言葉を正確に汲み取った九子はやはり逃げようかと考えたが、彼女の壺を受け取る気などさらさら無い八左ヱ門はカラカラ笑うだけだった。




20130319