いろは唄 | ナノ


足元から差す一筋の光を見下ろしながら、彼は僅かに目を細めた。

細い隙間から見えるのは妖美な笑みを浮かべる女と、下婢た好色さを隠そうともしない小太りの男。
盃を片手に酌を受けながら、女の細い腰の辺りを撫で回す光景を見て彼は内心肩を竦める。


勿論、彼とて好きでこんな光景を覗いているわけではない。実習という名目で致し方なくこの場に居るのであるし、序でに言うならば眼下の女も今でこそ着飾って別人のようだが、彼の良く知る人物であった。

普段はあまり感情に歪むことのない彼女が、今は見惚れそうに美しく口元に弧を描いて男と戯れている。
それは勿論演技であって、彼とて承知の上だが、そう知った上でも妖艶さを感じずにはいられない完璧な笑みであった。

内心は嫌悪で満ちているだろうに、そんなことなど微塵も滲ませない女は流石に双璧と呼ばれるくのたまだけはある。
酒と劣情に麻痺した理性が崩れ、ぽつぽつと目的の情報を吐露し始めた男の言葉を聞き漏らさないように耳を傾けつつ、彼はゆるゆると彼女を見つめる。

…本当に、見目だけは素晴らしいんだがなぁ。
普段自分に凄まじい嫌悪と苦無を飛ばしてくる少女と、今の姿を重ねながら肩を竦める。くのいちを志す以上見目が整っているのは当たり前なのだが、普段表情が表情なだけに今の彼女は常よりも美しく見えた。

かといって、自分もあんな造られた笑顔を向けられたいなどとは思わないが。彼女が愛想良く自分に微笑みかけるなど、それこそ気味が悪いの一言である。
着飾って笑みを浮かべる彼女は美しくはあっても、自分にとっては普段の方がよほど見慣れているし、例え苦無を飛ばそうが睨まれようがその方が心地良い。

我ながら嫌な慣れだと思いつつ、半哂いを浮かべながら下を見守ると、どうやら堪えきれなくなったらしい男がぐいぐいとその細い身体を押して床に縫い付けようとしている最中であった。

「(しかしよく滑る口だな…酒だけじゃそう口は軽くならなかったんだが)」

手を忙しなく這わせながらもつらつらと情報を吐き始める男に、彼は軽蔑と呆れを混ぜた視線を向ける。
酔うだけでは緩まなかった口の戸が、彼女の身体と笑みに触れてからは途端に緩くなった。どうやら酒より女に弱い性質だったらしい。
すぐにでも行為に及ぼうとする男を巧みに焦らしながら、女が男の言葉を促す。

そうして漸く全て欲している情報を吐かせた頃、彼はゆるりと立ち上がった。そろそろ蹴りがつくだろうか。


と、眼下で女が男の死角から鋭い手刀を落としたかと思うと、男の身体がずるりと崩れ落ちた。
途端に表情を失って、僅かに眉を顰めた女が溜息を溢すと同時に、彼は光を隔てていた板を外して部屋に降り立つ。

「意外に早かったな」
「……っち」

返事の代わりに飛んでくる舌打ちと苦無。予想し得たそれをさらりと躱しながら、彼は意識を失った男にちろりと視線を向け息を溢す。

「…実習終了だな。雷蔵と八は私から伝えておくから、お前は姿を戻しておけ」
「…これは」
「私が処理して置く。少し記憶を飛ばせば酔いも相俟って夢でも見たと思うだろう」

そう言って懐から取り出したもう一人の双璧お手製の薬を見せると、彼女は僅かに息を吐いてゆるゆると立ち上がる。
一瞬彼に視線を向けて、そのまま香を漂わせながら部屋を出ていく彼女を見送ると彼はがしがしと柔らかな髪を掻きむしる。

「さて…」

彼女が完全に遠ざかったのを確認して、視線を落とすのは涎を垂らして伏せている男。
さぞかしいい夢を見ているのだろう、叶う事のない先程の続きでも楽しんでいるのだろうか。
情報を吐かせられる為だったとはいえ、目も醒めるような美しい花魁の身体を撫で回せたのだから十分すぎる幸福だったことだろう。

そこまで思考を巡らせて、彼は俄かに腹の底から湧き上がる苛立ちを感じながらじっと男を見下ろす。
そして、

「…これだけ酔った人間なら、多少奇行に及んでも不思議はないよなぁ?」

にやり。意地悪く口元を歪めた彼が、一体何を思いついたのかはさておき。


翌日、男はその遊郭から出入り禁止を申し付けられたとだけ記しておこう。




20130308