いろは唄 | ナノ


不自然に木の葉が揺れた、それがきっかけだった。




「…何してんだこいつは」

盛大にこぼす溜息とは対照的に、気持ちよさそうに小さく寝息を立てる寝顔。呆れて頬を摘みつつ器用にバランスを保っている細い身体をじっと見つめて、彼は思わず頭を掻き回す。

忍びを志す身の癖に、この無防備さは如何なものか。

「おい千茅、起きろ」

その身体を支えている枝から落ちないように小さく肩を揺する。
その細さに思わず驚いて、この身体の何処に自分達にも引けを取らない強さを秘めているのかと不思議になった。

伏せられた長い睫毛がふるりと揺れて、彼女はゆるゆると双眸に彼の姿を映す。

「…ん、三郎…?」
「何でこんなとこで寝てるんだおまえは」

ゆっくりと己を見つめる目に呆れたような声色でそう返しつつも、彼は自身の機嫌が僅かに上昇していることに気付いていた。


当然のことながら、くの一を志す女は皆美しくなければならない。
強さなど微塵も感じさせない、儚さすら漂う美貌をもってこそくの一としての任を果たすことができるのだから。
そのためくのたまの生徒は教養も、作法も、化粧も髪結いも全てを完璧に覚える。それは三郎も承知であったし、彼女達に一々胸を高鳴らせることはない。

ただ、そのくのたまの中でも優秀とされる千茅がふとした瞬間に見せる、年相応で気を張らない姿を見るのは中々に愉快であった。
人当たりのいい彼女ではあるが、ここまで素を晒すのは極限られた人間に対してだけであるから。
異性として見るにはあまりに近過ぎて、そういった色気のある感情はお互い抱いたことは無いけれど、それでも友人として信頼されるのを嬉しく思う程度には親しい関係だ。

今も眠そうに瞼を擦る彼女に、僅かに口角を上げてそんなことを考える。

「今何時…?」
「申の刻になったばかりだ」
「そっか、ありがと。そろそろ戻ろうかな」
「………」

のんびりと伸びをして、僅かに目尻に涙を浮かべる千茅にほんの少し悪戯心が首を擡げてきて。
そのままその白い頬に手を伸ばして添えると、ぱちりと目を瞬かせた千茅は意図を図りかねたのかそれに首を傾げることで返す。

「…どうかした?」
「外で寝こけて、接近にも気付かず起こされるなんて忍びの癖に油断が過ぎるんじゃないか?」
「それは、何時も外で昼寝してる勘ちゃん辺りに聞かせたい台詞だね」

そう可笑しそうに瞳を細めた千茅に彼はほんの少し驚いて小さく息を飲む。
生真面目な千茅のことだ、不注意をからかってやれば気まずそうな笑みを浮かべて不覚を反省するものだとばかり思っていたのに、彼の予想に反して彼女は全く意に介していないようだった。

そんな彼女に疑問を抱きつつ、彼はさらに続きを紡ぐ。

「…勘右衛門も問題だが、お前は笑い事じゃないだろう。お前はくのたまなんだ、いくら強くても不意をつかれて力尽くで来られれば最期だぞ」
「いくら私でも気配がすれば起きるよ」
「私が近づくまでぐーすか寝息を立てていた奴とは思えん台詞だなぁ千茅?」

こいつ、欠片も理解してやがらねぇ。
そう僅かな呆れを感じつつ彼女を半眼で睨み付けるが、千茅の笑みが崩れることはなく。
少し乱れた頭巾を取りながら彼女は可笑しそうに笑う。

「私も少し驚いてるよ、三郎」
「一体何を」
「こうして外で寝るの、昔からなの。でも伊作先輩と九子以外の人が来れば必ず目が覚めてた」
「は?」

ぱちり、今度は彼が目を瞬かせる。

「要は三郎の気配は私の警戒網から外れちゃったみたい」
「…それは良いことを聞いた、これで私は何時でもお前を殺せる訳だ」
「あはは、まぁ三郎に殺されるなら仕方ないかぁ」
「……お前なぁ」

微塵も恐怖など滲んでいない笑顔でそうからからと笑う千茅に、余りに潔過ぎて思わず肩の力が抜けてしまう。


自分達は忍びだ、今は同じ学び舎で過ごす仲間だとしても何時までもそうある訳ではない。
考えたくもないけれど、…いつか異なる主について敵として対峙することだって可能性としてあり得るのだ。

気を許されることは嬉しい、仲間として信頼を寄せられることが嬉しくない筈もない。
ただ、互いに忍びを志していて、将来万に一つでもその可能性がある以上気配に慣れてしまうことだけはあってはならないのだ。
元仲間なので気付きませんでした、なんて言い訳にもならない。

そんな基礎的なことを彼女が知らない筈もないのに、こんな風に笑っている理由が彼には分からなかった。


そんな三郎の心情を見透かしたように、彼女は僅かに口角を上げて返す。

「可笑しい?」
「あぁ、お前らしくないな」
「そう?寧ろすごく私らしいと思うけどな」

心底楽しそうにそう笑う千茅の表情には何の違和感も滲んでいない。
どうやら心からの発言らしいと判断して、三郎はその頭脳をぐるぐると巡らせて言葉の真意を探る。

「……」
「…三郎はさ、賢いのに偶に簡単なことに気付かないね」
「喧しい」

何処か悪戯っぽい笑みを向ける彼女が少し憎らしくて、ぺしりとその額を軽く叩く。
自分がからかってやるつもりで始めた会話なのに、逆にからかわれていれば世話はない。

「簡単だよ、三郎。私が三郎の気配に慣れるのは怒るのに伊作先輩や九子に慣れてるのに怒らないのは何で?」
「は?…そりゃあお前、あの二人は問題ないだろう」

不可解な質問に首を傾げつつ、至極当然というようにそう返す。

何故なら伊作も九子も彼女とは家族以上といってもいいような関係で、敵となるような事態はお互いに全力で避けるだろうからその心配をする事自体が無意味だから。
気配に慣れようが何だろうが、そもそも問題にならない。


そこまで思考を巡らせて、彼は己の思考の中に少しの違和感を感じて僅かに肩を揺らした。
そして漸く彼女の言葉を理解して、盛大に溜め息を漏らす。

「…お前なぁ」
「ん?」
「そんなこと言ってるとどの仕事も受けれないじゃないか…」
「仕事を選べるように頑張って腕を磨いてるんでしょう。友人と殺し合いするくらいなら仕事なんて蹴るに決まってるじゃない」
「…そうだな」

躊躇いなく言われた言葉に頷いて返しながら。

あぁ敵わない、そう苦く笑った。



20120420