いろは唄 | ナノ


「お疲れ、九子」
「千茅も」


しゅるりと頭巾をとり、数刻ぶりの顔にお互い軽く微笑みあう。
単独忍務からの帰り、どちらかが失敗するだなんて微塵も思っていないけれど。それと同時に、この世界に絶対だなんて言葉は存在しないことも分かっているから。
学園長室での報告も巻物の提出も終わらせた、やっと一息つくことのできる時間。この切り替えにも随分と前に慣れた。
時刻はまだ寝静まると表現するには少しばかり早いくらいで、簡単な、と言ってしまうと驕りがすぎるかもしれないが、それでも三年の時から様々な忍務を請け負ってきた経験から考えても今日の任務は珍しいなとも思う。
十分過ぎる程余っている体力と、珍しく早い帰還時刻。


だが、いつもより随分と静かな学園内に気付き、それもそうかと二人は小さく頷いた。


「先輩たち合同演習だっけ?」
「一二年生も」
「じゃあ今いるのは三年生と四年生だけ、か。そりゃ私たちが出払う訳にはいかないね」


忍術学園の夜は騒がしい。それは夜遅くまで駄弁っているだとかそういった意味ではなく上級生になればなる程鍛錬に励む者が多くなるからで、しかし今夜に限ってはしんと静まりかえっている。その理由は単純に人が少ないからで。
五年生と六年生は合同で学外演習。一年生は初めての実習、だが組毎に地図を確認しながら山の中を学園まで帰ってくるだけの至って簡単なもの。簡単とは言っても、ほとんど明りのない山奥を夜動くのは入学したばかりの一年生には戸惑うものなのだけれど。
そして二年生は偶然かどうかは別にして、一年生と同じ山でサバイバル演習。
故に今学園に残っているのは、忍たまの三四年生とくの一教室、それにその先生たちだけとなる。


普段関わることの無い忍たまの方の事情を把握しているのも彼女たちならではだ。
忍術学園の双璧と謳われるようになってからどれ程が経っただろうか。自信、謙遜、重荷。そのどれも当てはまらない。
事実として千茅と九子は先輩のいないくの一教室をたった二人で支え、学園を守り後輩を守っている。ただそれだけの話だ。


話を元に戻して何故人が少ないことを気にするかというと、それはとても単純なことで。
忍術学園に入ってくる者たちは実に様々で、動機から将来から、現実的に言えば実力から何から全てが異なる。
そしてその中で共通していることは、実力と覚悟の両方が伴い、且つ努力を重ね続けることのできる者だけがこの学園の上級生となれること、六年生ともなればプロと呼ばれてもなんら支障の無い程にまで成長していること。
その六年生と、それに続く五年生が学園を留守にしている。言い換えれば学園内の実力者が激減している。
その事実は、少なくとも忍術学園に隙あらば仇なそうとしているような輩には知られたくないことだ。また万が一何かあった時には、残った者でなんとかしなければならない。


「ゆっくり休めるわけではないね。学園長先生も人が悪いんだから」
「疲れた?」
「特に」


軽く肩を竦める。前述の通り、こなしてきた忍務は至って軽いものだったから。
こうして他愛もない話を交わす時間だけでも充分だ、軽口を叩き合える関係が心地いい。
この関わりがこの人生に対して長いのか短いのか、それはよく分からないけれど。肩を並べて自室へと足を向ける。


長屋に向かいながら、食堂が空いているならたまには夕食を作ろうかなんて、そんな我ながら雨が降りそうなことを言ってみながら。
流れ出した穏やかな空気はしかし、長くは続かなかった。


「…千茅」
「うん」


すぐさま頭の中のどこかが切り替わる。先程とは真逆の間隔。
一瞬視線を交わすや否や、次の瞬間には学園の門まで一気に跳んで。
固く閉ざされた大きな門。見慣れたそれから妙に嫌な空気を感じるのはただの気のせいだろうか。
その下方に存在する小さな連絡口の取っ手に千茅が手をかけ、開く。


そこから鮮やかな青色の忍服たちが多数転がり込んでくるのを見て、千茅も九子も目を細めた。
決して、穏やかなものではない。


「っ千茅さん…!!」
「どうしたの?」


バランスを崩して倒れこむ後輩たちを支えてやりながら、なるべく柔らかく、だが厳しい声で問い掛ける。
一年い組の生徒たちだ。一番に雪崩れ込み、また馴染みの委員会の後輩である左近の肩に千茅が手を添えると、ただ単に走ってきたからかそれとも別の理由か、苦しそうに息をしながらも左近を筆頭に一年生たちが途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「実習中に、っ襲われて…!」
「二年の、先輩が、僕らを庇って…」
「一年生はみんな無事?」
「っはい」


九子の方に視線を送る。
久作の背を擦っていた彼女が小さくこくりと頷き、懐から紙を取り出すとさらさら何事かを書き込み、それを小さく折り畳んで。
ぽん。後輩の頭を撫で、その紙を差し出す。
既に頭巾を巻いている千茅。屈んでいた九子もすっと立ち上がって。


「久作、これを学園長先生に。それと状況説明。…できるね?」
「…はい!」
「左近くん、怪我してる子たちは保健室で手当てしてあげて」
「はい!」


しゅるり、髪を高い位置で結い直す。
地面を蹴った次には気配すら消えている二つの小さくも大きな背中に、泣きそうに顔を歪めた一年生はしかしぐっと拳に力を入れて立ち上がった。
何も知らない一年生でも、入学したばかりの未熟者でも。
自分たちだって、忍たまだから。


月は細い上弦、淡い光が闇を照らす。
夜はまだ、長い。




20120504/20120625