いろは唄 | ナノ


頬に触れる風を切る感触と、危なげなく自分の身体を支える腕に僅かに息を溢す。
木々の隙間から僅かに覗く空は徐々に白み始めており、直に学園が賑わい出す頃だろうかとぼんやりと思案した。

情けなさと、熱を帯びる傷口の鈍い痛みで正常な思考には遠く及ばない脳が捉えたのは此方を見下ろして眉を顰める先輩の姿。
己を抱えたまま木々を蹴って進む青年に、彼女はくしゃりと情けない笑顔を返す。


「…すみません」
「全くだな。どうして飛び出した」
「……浅慮でした」
「本当だぞ、何で庇うんだ。独断で進めたあの人が責任を取って怪我するべきだったんだ、お前が盾になる必要がどこにある」

憤慨したように淡々と恐ろしいことを口にする彼に、彼女は力なく声を漏らして笑った。
いつも陽気で強引な彼がこのような表情を見せるのは稀であったし、そしてこの状態の時は決まって少々物騒な行動に出る。

じわりと血が滲んだ右肩に反射的に手を添えて、獣と紛うような雰囲気を帯びる青年をどうにか宥めようと鈍い思考を回転させた。

「小平太、先輩」
「どうした」
「確かに…作戦は少々有事への配慮が欠けていましたが、成功ですよ」
「………」
「体育にすら任せて良いかと教員会議で最後まで揉めた忍務と聞いています、死者が出ていないだけで奇跡です」

言い聞かせるように言葉を続けるが、小平太の表情は緩まない。


― 体育委員会、所謂千茅と小平太の所属する委員会であるが、彼らは普段から他の生徒よりも鍛錬を重ねる機会を多く与えられている。
それは単なる委員会活動としてではない、忍びのたまごとして確固たる目的があって組まれた内容であることは、誰に教えられるわけでもなかったが歳を経るにつれて誰もが理解していくことであった。
“委員会の花形”、そう呼ばれることの意味も。

学園に舞い込む依頼の内、最も危険な類のそれは大抵が彼らに回される。
それらには命の危機が伴う事も少なくない、無傷で熟すことなど奇跡に近い内容ばかりで。
今回はその中でも殊更に困難なそれである為に、覚悟のある者のみが参加するようにと通達があった程であった。

そんな忍務を終えて、怪我人が軽傷の自分ひとりであるならば喜ばしい事だ。


そう宥めるつもりで口にしたのに、小平太は黙り込んで脚を進めるのみだった。
彼女の胸中に若干の不安が滲み始めた頃、漸く彼は大儀そうに口を開く。

「…お前はまだ三年だ、確かに上級生に比べたら経験は浅いかもしれん」
「はい」
「だがそれを理由に先輩がお前の諫言を無視した結果、どうだ。庇ったお前が怪我をして先輩は無傷だ、納得できるか」
「彼が今回の忍務の総指揮です、欠くことは出来ませんでした。一番経験も浅く力も弱い女の私が代わるのが被害を最小限に止める最善策かと」
「……気に入らんぞ」
「すみません」

ぶすりと、大層不機嫌そうにむくれた小平太だったが、千茅の弁舌が功を奏したのか先程までの鋭く危うい怒りは形を潜めたようだった。
不機嫌を極めたような表情で苦笑を滲ませる千茅を見下ろし、彼はぴたりと動かしていた脚を止め太い枝に立ち止まる。

「小平太先輩?」
「千茅、決めたぞ」
「はい?」

じっと視線を向ける彼の目は真直ぐ彼女を射抜いて、僅かに常の無邪気さを滲ませながら宣言した言葉が明け方の森の静寂を裂く。

「私とお前で、誰も怪我をしなくても忍務を熟せるくらいに強い体育委員会を作る!私の代になる頃には最強の体育委員会だ!」
「っ……」
「お前と私なら出来るぞ、何せ体力は既に先輩を凌ぐと言われてるしお前は女とは思えんほどだからな」
「…ふふ、」

彼がにかりと、至極楽しそうに、あまりに事もなげに言い放つものだから。
彼女は一瞬ぽかりと間抜けに口を開けて呆気にとられたが、すぐにくすりと笑みを溢して彼を見上げる。

冗談の色が少しも見えない、純粋に実現できると信じて疑わない瞳に、彼女は痛む肩も忘れて目を細めた。
あぁ、…眩しいなぁ。それは口にする事のない羨望と尊敬から零れる心からの言葉で。

「先輩、私もっと頑張ります。体力も付けて、力も鍛えて、早く走れるように、高く跳べるように、的を外さない様に、…確実に仕留められるように、」
「おぉ、その意気だ。いけどんに鍛錬してよく食べてよく寝ろ!」
「はい。先輩の脚を引っ張らない様に」
「よし!」

半分は彼に、半分は自分に言い聞かせるように。

今回だって、自分がもっと早く動ければ、いやもっと早く気付いていれば、或いはもっと説得力のある諫言が出来ていれば。
こんなヘマをすることも、小平太に心配をかけることもなかった。情けない、その思いは表に出さないまでも確かに彼女の胸に燻っていた。

そんな、僅かに切羽詰まったような色を滲ませる千茅の表情に気付いたのか小平太ががしがしと彼女の頭を乱暴に撫ぜる。

「っわ…こ、へいた先輩?」
「その心意気は良いぞ、だけど」
「…?」
「まずはその怪我を治すことに専念だ。名誉の負傷とはいえ痕が残れば事だし、何より私が伊作と留三郎に怒られる」
「確かに浅くはないですが、この程度なら治療をきちんとすれば痕は残りませんよ」
「そうか、流石保健委員だな!」

遠慮なく掻き乱されて妙な方向に流れた蜜色を直しながら、豪快に笑う青年を見上げて彼女はじわりと襲う面映ゆさに歪みそうな頬を何とか堪えた。

あぁもう、この人は。
伊作や留三郎のそれとも、仙蔵のそれとも違う真直ぐで誤魔化しようのない優しさに、彼女は思わず両手で頬を包む。

「先輩、」
「ん?」
「…私、体育に入って良かったです」
「おう!私も良かったぞ!」



貴方の後輩になれて、良かった。

そんな恥ずかしい言葉を省略して伝えた言葉だったが、理解したのか否か彼は僅かに目を細めて物知り顔で笑った。




20131206