いろは唄 | ナノ


お世辞にも町が近いわけでもない場所にある寺子屋では、中々新しい書物というものは手に入りにくかった。
それでも物語の世界が面白くて、学問の世界が美しくて。同じものを何度も何度も、一字一句どころか文字の擦れ具合まで覚えてしまう程に端から端まで指でなぞった。兄姉に九子は本当に本の虫だなと笑われながら。
そんな九子にとって、忍術学園の図書室の存在はまさに宝の山のようなもので。見たことも無い本の山、知らない世界を記す文字たち。
抱えられるだけの本を借りては読んでいった。初めは驚いたり怪訝そうな顔をしていた図書委員の忍たまたちも、上級生はお勧めを教えてくれたりするようになって。



腕いっぱいの読み終わった本たちと共に、放課後の廊下を図書室へと歩く。
何度図書室との往復を繰り返しても、まだまだ未読の蔵書は底が見えない。このたくさんの本をいつか読み終えることは出来るのだろうか。
上級生にはそのうち読み尽くすんじゃないかと冗談交じりに笑われた。実際その日はそこまで遠くない未来にやってくるのだけれど。
まだ小さな少女には図書室という空間に並ぶ本棚は無限に続いているように思えて。



行儀悪くも足を使って図書室の戸を開ける。くの一教室の担任である山本シナ先生に見られでもしたら窘められそうだが。
たかだか自室から図書室までの道のりだというのに既に額に汗が浮かぶような陽気の中、流れてきたどことなくひんやりとした空気が少しだけ暑さによる不快感を和らげてくれた。



「あ、こんにちは」
「…。こんにちは」



障子の向こう、当番の図書委員がいる机のところにいたのは、ふわりとした髪を持ち、これまたふわふわした柔らかい笑顔を浮かべる忍たま。
その身を包むのは井桁模様の忍装束。同じ学年である不破雷蔵の顔を見て、一瞬立ち止まった九子はしかし何事もなかったかのようにぽつりと同じ挨拶を返した。
基本的に図書室内は私語厳禁だ。特に会話を弾ませるでもなく、まぁ元々彼女は口数もそう多くはないのだが、返却処理の為に本を手渡すと、たどたどしい手つきながらも丁寧に処理を進めていく雷蔵を九子はなんとはなしにじっと見つめる。



無意識だろうが、その表情はしかめっ面というよりは優しく緩んでいて、醸し出される雰囲気は柔らかくて。恐らく道を尋ねたい場合に声をかけやすいような見た目と性格。
良く言えば優しい人柄、悪く言えばお人好し。いや後者も悪口ではないが、少なくとも忍としては時と場合を選ぶだろう。別に悪いとは言わないけれど。
終わったよ、と顔を上げた雷蔵と目があってきょとりと首を傾げられる。なんでもないと濁すと小さく礼を告げて九子は図書室の奥へと足を向けた。新しい本を吟味せねば。



(…似ても似つかない)



以前対峙した、心底気に食わない存在を思い出し思わず舌打ちが零れる。幸い周りには誰もおらず気にされることはなかった。
鉢屋三郎。名前に興味など無いが。あれと雷蔵の外見がそっくりなことを知ったのは対峙したあの日で、級友である千茅が三郎は普段から変装しているのだと教えてくれた。少しばかり前のことだというのに忌々しい。
雷蔵よりも先に三郎と出会ってしまった為、そしてその印象が最悪だった為。雷蔵を前にしたときどうしても一瞬反応してしまう九子に、始めこそ戸惑っていたものの事情を知った彼は三郎がごめんねと苦笑しながらもふわりと柔らかく笑った。それ以来いつだって雷蔵は同じ笑顔を向けてくれるのだ。
図書室の外で会ってもそれは変わらず、時には話を交わしたりもして。彼のその人を安心させる空気に九子は好感を抱いていた。だからこそ外見が全く同じなもう一つの存在への嫌悪感は止まるところを知らないのだが。
先日顔見知りになってから話すようになった、というより向こうがよく話しかけてくるようになったと言った方が正しいが、八左ヱ門と雷蔵が同じ組ということもあり、この二人とは比較的よく関わるような気がする。何が忌々しいかってあの男がこの二人とよく行動を共にしていることだ、必然的に顔を合わせる機会が増える。



「九子ちゃん」
「…?」



背後からかけられた声に振り返ると、予想と違わず雷蔵の姿があった。真面目な彼が当番中にどうしたのだろうかと思ったが、ちらりと見回してみると先程まで幾人かいた図書室に今は自分たち以外誰もいないようだ。
その腕には数冊の本が抱えられていて、こちらが何かを言うよりも先に笑顔ではいと差し出される。反射的に受け取ったそれらは借りた覚えのないもので、どれもまだ紙が新しい。新しい本というだけでどこか心の端が高揚した。



「あのね、さっき届いたばかりなんだ。入荷処理終わったから、よかったら」
「いいの?」
「うん。九子ちゃん好きそうだなって思ったから」



邪気の無い笑みと言葉に素直にありがとうと言葉が零れる。
今日借りていくのはこれらにしよう。こんなにも新しい本を読むというのは初めてで、ただそれだけと言ってしまえばそれまでなのだけれど、なんとなく楽しみで。



暑いのはあまり歓迎できないが、日が長いから灯りを使わずとも暫く本を読んでいられるのは夏のいいところだ。
雷蔵に小さく手を振り図書室を足取り軽く後にした九子の頭上では、まだまだ高いところで大きく陽が照り輝いていた。






20150310