いろは唄 | ナノ


妙だ。そう一度感じた違和感は瞬く間に彼女の全身を駆け巡り、数瞬置いてはっきりとした確信へと変わる。

顔も、口調も、仕草も。何も可笑しいところは無い、でも分かった。
これは自分の知らない人間だということが。



「…貴方は誰?」

敵意は無い。
それでも一応警戒して懐の苦無に手をかけて問うと、それを象った人は少しばかり意外そうに目を見開いた。
特に見破られたことへの執着はないのか、その人は演じることをやめてにやりと楽しげに笑う。

「へぇ、驚いた。くのたまに見破られたことは無いんだが」
「ということは忍たまかな。…噂に聞く変装名人ってところかな鉢屋三郎くん」
「御名答。あんたは…知らないな、でも私を見破ったってことは一応優秀なんだろう?」
「優秀かと聞かれて頷くような人間を優秀だと思う?」

にこり。そう笑う少女に鉢屋は思わず目を瞬かせた。

彼が予想し得た反応はそんなことはないという謙遜か、もしくは黙認という肯定。
それなのに目の前の少女が口にしたのは疑問を装った皮肉。しかもとびきりの、少なくとも彼に興味を抱かせるほどの。

…面白い。気に障るくのたまの連中をからかってやろうと思ったが思いがけない収穫だ。
予想外に興味深い邂逅に彼はにやりと笑う。

「…なるほど、間違いなく優秀だ。その上曲者だな、名前は?」
「興味を持ってもらえたのは光栄だけど、ごめんね鉢屋くん。私今急いでるの、暇つぶしなら他を当たって」
「確かに暇つぶしだった、さっきまではな。だが興味が移った、名前を聞くまでついていくぞ」

抱えている箱を持ち直して踵を返した少女にぴったり二歩分の距離を空けて歩くと、彼女は振り返ることも足を止めることもせず苦笑する。

「それは賢明とは言えないんじゃないかな。確かに貴方が化けている子は先生に呼び出されて暫く帰ってこないけど、先輩方に会ったら最後だよ?私が気付くような変装じゃね」
「その先輩方とやらには此処に来るまでに数人とすれ違ったが」
「…今度は私が失言だったかな」
「気にするな、私とお前が優秀なだけだ」

気まずそうな表情を見せる少女に、鉢屋はくすくすと笑みを零す。
この僅かな間ではっきりと分かったのは、彼女が相当頭の良いということ。それと、その実力はどうやら上級生も凌ぐということだろうか。
上級生が見破れなかった己の変装を、あっさりと見抜いてしまったのだから。

「…うーん、今のは不味かったなぁ」
「買い被りすぎなんじゃないか。ただ少し早く入学したというだけで、お前より優れてるという保証はない」
「先輩は敬うものだよ鉢屋三郎くん」
「違うな、敬うに値する人間が先輩と呼ばれる資格を持つ。そして少なくともくのたまの二、三年程度にはお前の先輩はいないと見た」
「忍び込んだ上にその暴言、流石度胸あるね」

びしりと指を指して言うと、少女は至極可笑しそうに笑う。
歩みを止めない彼女を追い抜いて正面から進路を塞ぐように立つ取ると、鉢屋の目に楽しそうな笑顔が映った。

「で、名前は?」
「どうしてそんなに知りたがるの?」
「将来手練れになる人間の名を聞きたがるのは可笑しいことじゃないだろう?」
「なら私の名前は必要ないと思うけど」
「寧ろ私はお前の名が広まっていないことが心底驚き…あぁいや、そうでもないか」

こんな生徒が居たら、自分の名を彼女が知っていたのと同じように此方にまで名が広がっていても可笑しくは無いのに。
そう思ったが、一瞬後にはあの上級生ではまだ目立たない小さな芽である彼女の才に気付かなくても無理はないかと思い直した。

そんな一連の思考を察したのか、はたまた心底自分に才は無いと思っているのかは分からなかったが彼女はただ微笑むだけで口を開くことは無い。
そうしてゆるりと箱から右手を離したかと思うと、目の前の鉢屋の肩に伸ばし軽く叩いてみせた。

「ねぇ鉢屋くん」
「何だよ」
「私を認めてくれるのは光栄だけど、私は興味があるとか才能があるなんて理由で名前を聞かれても答えないよ」
「…じゃあどういう理由ならいいんだ」
「簡単だよ?」

笑った彼女はそのまま肩から手をおろし、そしてゆっくりと彼の右手を掴んで持ち上げる。
俗にいう握手の形を取ったところで、怪訝そうに眉を顰めている彼ににっこりと笑みを向けた。

ぱちり、目を瞬かせた鉢屋の脳に少女の笑顔が届く。

「…これはどういう意図だ?」
「見ず知らずの人間に名前を教える義理はないけど…これなら話は変わるでしょ」
「…は?」
「友人なら、名前を知る権利はあるよねってこと」

茫然とする鉢屋に、彼女は満足げに握った手を上下に振って笑う。

暫く思考を巡らせて、彼女の言葉をかみ砕いて。
そうして漸く理解という領域まで嚥下したところで、鉢屋は盛大に噴き出した。

「ぶっ、く、はは…!あーそうか、お前面倒な奴だったんだな」
「だって、妙に理屈捏ねてる相手に素直に教えるのは癪だし」
「分かった分かった…今日からお前の友人になってやる。だから名前を教えてくれ」
「…初芽千茅。よろしく、鉢屋くん」

止まらない笑いを抑えつつそう言うと、ふわりと今までで一番柔らかく微笑んだ彼女を見て鉢屋はますます笑みが止まらなかった。

この偶然出会ったくのたまは優秀で、曲者で、そしてとんでもなく面倒だ。


そして何より、それすら何処か心地良く感じさせるのがこの少女の最も不思議なところだろうか。

「…さて、そろそろ私は戻る。暇つぶしには十分すぎるくらい愉快な出会いもあったしな」
「こちらこそ、貴重な友人を得られて嬉しかったよ。またね」
「あぁ、またな千茅」

口元を歪めて、瞬き一つで変装を解いていつもの姿に戻ると、その一瞬先には彼は敷地を隔てる塀の上で彼女に笑みを向けていた。
鮮やかと言わざるを得ない早さに感心しながら、彼女はひらりと彼に手を振る。

そうして塀の向こうへ姿を消した少年を見送りながら、千茅は小さく独り言を溢して苦笑した。


「…友人になってやる、か。確かに九子とは馬が合いそうにないね」

少し前、忍たまを相手にした実習で友人と最悪の出会いを果たしたという忍たま、鉢屋三郎。
彼と友人になったと言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
想像に難くない反応を脳裏に描いて、彼女は思わずくすくすと笑みを零す。

「でも私は…意外と嫌いじゃないかもね」


彼女の小さな呟きは、そのまま柔らかな風に散る。



20120422