いろは唄 | ナノ


夕暮れにはまだ届かない、だが授業は終わり各々が委員会なり自主学習なりと自由に過ごしている、そんな時間帯。
くのたまの一年生は本日に限り実習の関係で期限の夕暮れまでは自由に忍たま、くのたま双方の敷地を行き来することができる。普段から忍たまにちょっかいをかけたがる彼女たちにとってはまたとない機会であるし、そうでなくとも普段あまり立ち入ることのない場所に入れるというのは好奇心を擽られるだろう。
最も、そのどちらにも当てはまらない、もう少し言えば寧ろ先程済ませた実習で同年代の忍たまというものに悪印象しか抱かなかった九子にとっては忍たまの敷地に興味がある筈もなく、先日借りた本を返却すべく図書室へと足を向けていた。まぁその図書室自体が忍たまとくのたま共同のものではあるのだが。


両腕に数冊の書を抱いて歩いていると、前方から桃色の装束がこちらに向かってくる。
その色はくのたま下級生独特のもので、だが今彼女たちは実習の課題をこなすべくほとんどが忍たまの敷地に赴いているためか普段よりも目に入るような気がした。
ふわりと揺れる蜜色の髪に九子が顔をあげると同時に、ぱちりと視線が交わる。


余談ではあるが、忍術学園はそれぞれ忍たまとくのたまの敷地が分かれているために施設も二つずつ存在する。
中には図書室のように共同のものもあるが、基本的には別々だ。保健室もまたその一つで、くのたまの方が閉まる時間が早かったり校医がほとんどいなかったりと色々簡易ではあるものの施設自体は分かれている。
しかし今千茅が歩いてきた方向は忍たまの保健室がある方で、例えばくのたまが忍たまの保健室を訪れる場合というのは仕事か又は自分たちでは対処できない、校医を頼りたい場合である。それかくのたまの保健室が既に閉まっているか。
未だ空の明るいこの時間に一番最後の仮定はありえない。


「千茅。…怪我?」
「お疲れ九子。ううん、ちょっと用事があっただけだよ」
「…そう」


僅かに首を傾げながらの九子の言葉にふわりと微笑って応えた千茅が隣に並ぶ。
九子の反応は自分から振った割にはあまりにも薄いものだったが千茅はまるで気にしていないかのような表情で、そんな千茅に九子も少しばかり目を細めた。


「実習終わった?」
「うん。でもシナ先生にちょっと甘過ぎるって言われちゃった。本番にはもっと非情にならなきゃ駄目よ、って」


言われた言葉を思い出したのか苦笑する千茅に、しかしきっとこの少女はいざとなったら容易くこなせるのだろうなと九子はぼんやりそう思う。
性格が冷たいとかでは決してない、寧ろ優しい人柄だ。でも、なんとなく。根拠は無いけれど。
何を持って甘いと判断されたのか詳しいことは知らないが、シナもまたそう思ったからこそ冗談混じりのような注意のみで終わらせたのではないだろうか。
担任の姿を思い出す。全てを分かっているかのように妖艶な笑みを浮かべていたシナには、自分たちのことなど全て筒抜けなのだろう。


「九子はなんだか機嫌悪いね?」
「…嫌な奴に会って」
「凄かったみたいだもんね。噂になってたよ」


珍しくはっきり分かるほど顔を顰める九子に千茅はこれまた苦笑する。他のくのたまの実習をやりにくくするくらいには、九子と三郎の一件は広まっているのだ。
そのままの流れで図書室まで共に足を運んだ二人は、私語厳禁故と書かれた張り紙にどちらからともなく目を見合わせ口を閉じた。


***


「あ、千茅ちゃん!」
「…雷蔵くん?」


図書室を出て長屋に戻ろうと足を向けると同時、背後からかかった聞き覚えのある声に千茅はくるりと後ろを振り向いた。
早足で近付いてくる水色の装束はつい先程まで目にしていた馴染みのあるもので、そしてもう少し言えばこのタイミングだと中々に彼女の良心を痛ませる色だ。
最も、既にお互い和解済みではあるが。謝る千茅に怒るどころかこちらも助かったと笑顔で礼を述べてきた雷蔵は大層なお人好しだと思う。人のことを言える立場ではないけれど。
頬を緩める千茅に九子は小さく首を傾げ、そして相手に視線を移すと目に見えて分かるほどに全身の動きをぴたりと止める。
幸いと言うべきか、互いに意識を向けている千茅も雷蔵も九子の様子に気付くことはなく、完全なる無表情を浮かべた九子はぐっと拳を握り締めると数歩下がり二人から距離をとった。


「ごめん。特に用事はないんだけど、姿が見えたから」
「ううん。雷蔵くんは図書室に用事?」
「うん。僕図書委員なんだ。」


人のいい笑みを浮かべてじゃあねと手を振る雷蔵に千茅も笑顔を返す。
待たせてごめんねと振り返った彼女はそこで初めて固まっている、というよりはあえて動かないようにしているとでもいおうか、表情の無い九子を見てきょとんと目を瞬かせ、次いでことりと首を傾げた。


「九子?」
「…千茅、今の誰?」
「雷蔵くん?ろ組の不破雷蔵くんだよ、実習の相手だったの」
「不破、雷蔵」


ぽつりと呟くその様子も、やはりおかしい。
先程少し実習の話をしていたときのような、忌々しそうな、しかしそれにどこか不可解そうな感じ。
雷蔵と九子に接点があったとは考えにくく、なら一体どうしたのだろうと不思議に思った千茅は、とりあえず長屋に帰ろうと促しながら直接訊ねてみることにした。
特に何か気兼ねがあるわけでもない。


「九子、雷蔵くん知ってるの?」
「違う、けど…あのね」


ぽそりぽそりと己の実習の様子を語る九子に、あぁなるほどと納得する。雷蔵を見て固まっていたのはそういうことか。
心底気に食わない相手、雷蔵と同じ外見、三郎と雷蔵に感じた違和感。
彼女は胡散臭いと言っていたが、きっとそう感じたのは。


「鉢屋三郎くんじゃない?」
「はちや?」
「会ったことはないけど、変装がすごい上手なんだって。素顔は誰も見たことなくて、いつも誰かの変装してるみたい。」


九子と会ったとき、雷蔵くんの姿に変装してたんじゃないかな。
続けた言葉に黙りこんだ九子に千茅は苦笑する。


似ているどころの話ではない、見た目だけなら全く同じ。
だけれども、演技とかそういう感じではなく、強いて言えば双子のもう片方を相手にしているかのような、そんな違和感を雷蔵から感じたというのも恐らくはそのせいだろう。
少し歩いた後、鉢屋三郎、と小さく呟いた九子の心中はいつになく分かりやすい。そんなにも馬が合わなかったのだろうか、話を聞く限りではかなり気に入らないらしいけれど。


顔を顰める九子と苦笑を浮かべる千茅、対照的な二人以外のくのたまが長屋に戻るのはもう少し先のことで。
今年は例年に比べ、随分と補習者が多いという結果で実習は幕を下ろした。




20121001