いろは唄 | ナノ


「ありがとう、もう大丈夫」


少年の背中に背負われて山を下り、門の辺りに辿りついた頃に彼女は徐にそう呟いて彼の肩を叩いた。
地に降りるなりひょこりと脚を引き摺る様に歩く姿を見て、雷蔵は眉を下げて手を伸ばす。

「保健室まで連れて行くよ?」
「大丈夫、処置は終わってるし少し痛みも引いてきたから。それに早く持って行かなくちゃ」

表情に思い切り心配の二文字を滲ませた雷蔵の言葉に、千茅はふわりと笑みを返して右手に握られた薬草を示した。
そして一瞬考えるような間を開けた後、申し訳なさそうな表情を作って彼に向ける。

「…あの、本当にいいの?この薬草貰っちゃっても」
「勿論。だってもう君に上げたものだから」
「でもこれがないと実習やり直しになっちゃうんでしょう…?」
「気にしないで。もう生えてるところも分かったし、次は簡単に終わるよ!実習で合格貰うより、千茅ちゃんと友達に慣れた方が嬉しいから」
「っ、…」

ぱちり。
笑顔でそう告げた雷蔵に、彼女は思わず演技ではなく目を丸くして驚いてしまった。


…人が好い、といえば聞こえは良い。
だがどう考えても彼の発言はアウトだ。例え一年だろうが、幼かろうが、忍者を目指すものとしては甘っちょろいどころではない。

まぁだからこそこうして自分は無事騙すことが出来ているのだが。

「………」


数瞬の間固まって、思考を巡らせて。
そして何処か呆れたような可笑しそうな表情で口元を緩めて、千茅はそっと懐に手を差し込んで雷蔵へと差し出した。


その手に握られていたのは、一輪の白い華。

「…え、と?」
「これ森の中で見つけたの。お礼、にはならないかもしれないけど…貰ってくれる?」
「え、いいの?でも別にお礼とか気にしなくても」
「ううん。私も君と友達になりたいから、貰ってくれると嬉しいな」

お願い。

そう笑うと、彼は少し迷ったようだったが結局好意を受け入れることに決めたらしくゆっくりと彼女の手からその白い華を受け取った。
そしてくしゃりと今までで一番柔らかい笑みを見せて、彼女の手を握る。

「ありがとう、大事にするね」
「…うん。それじゃあまた」
「うん!脚の怪我、お大事に」

そう言ってひらりと手を振って、少年は踵を返し走り出す。

その背中に手を振りかえしながら見つめて、千茅はそっと苦笑を溢した。


「ちょっと甘かった、…かな?」


まぁ騙して何かを貰うという課題自体は熟した訳であるし、そう問題は無いだろう。

そう苦笑気味に表情を緩めながら、彼女は軽快な足取りでくのたまの敷地へと戻っていった。



◆       ◆       ◆



「雷蔵!」

弾けるように上がった声に、彼は視線を巡らせて軽く手を上げることで答えた。

安堵したように眉を下げて駆け寄ってきたのは、自分と全く同じ顔をした少年。
血縁というわけではない、証拠に偶然同室になった時は彼は自分とは違う顔をしていたのを朧気ながら覚えている。
ただ彼は入学当初から変装を趣味とし、その腕を磨くためにと次の日からは雷蔵の顔を借りるようになっていたのだが。

鉢屋三郎。一年にして既に校内でも有名な変装名人である。


鏡のようにそっくり自分を映し取ったような姿には未だ慣れないなぁと思いつつ、雷蔵はにこりと微笑んで傍に来た三郎に笑いかけた。

「ただいま三郎」
「良かった…遅いから心配したぞ。やっぱり一緒にいるんだったと何度後悔したか!」
「大袈裟だな…別に怪我も無いし大丈夫だよ」
「それは良か、 …雷蔵、薬草は?」

わたわたと忙しなく怪我の確認をしつつ、三郎はふと怪訝そうに彼の手元を見つめ眉を顰めた。

雷蔵の手に握られるのは課題に該当する薬草ではなく、見慣れない白い華。
そこそこ植物の知識は身に着けた彼らも見たことのない美しい華であったが、それは今重要ではない。

窺うように三郎が雷蔵を見ると、彼は曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁した。

「…色々あったんだ」
「見つけられなかったのか?」
「いやそうじゃないんだけど。…うーん、後で話すよ、長くなるから。とりあえず先生に報告してくるね」
「…? 分かった」

流石に此の場でくのたまに上げてしまったとは言い辛い。
三郎以外のクラスメイトもちらほらと見えるし、その中にはくのたまに苦手意識を持っている者も少なくないから。
まぁ入学から僅か半年の間に、彼女達から蛇を投げられたり絡繰りを仕掛けられたり痺れ薬の実験体にされた者に嫌うなという方が難しいのかもしれないが…。

雷蔵は苦笑気味に三郎に返して、担任の待つ場所へと足を急がせた。




「不破か、遅かったな」
「すみませんっ…」

少し歩いて担任の姿を見つけると、そこにはもう生徒の姿は疎らで自分を待つ担任だけがそこに立っていた。

駆け寄って謝罪すると、担任は僅かに安堵したように表情を緩める。

「まぁ無事に帰ったなら良い。さぁ薬草を提出して部屋に戻りなさい」
「…えっと、その、それが」
「?」

言葉を詰まらせる雷蔵に、担任は不思議そうに首を傾げた。
それを恐る恐る見上げながら、彼は僅かに息を呑んで背を伸ばし口を開く。

「っすみません、薬草は持って帰ってこれませんでした!」
「は?…見つけられなかったという事か?」
「…すみません」
「………」

ふむ。
謝罪の言葉を繰り返す雷蔵を見つめ、担任はそう声を漏らして思案を巡らせる。


言い方は悪いが、これが別の生徒であったのなら特に驚くことは無い。
ただ目の前で申し訳なさそうに眉を下げているこの生徒は学年の中でも優秀な生徒であったので、まさかその彼がこの程度の課題を熟せない筈はないというのが本音であった。

見つけられらなかったのかという問いに、返ったのは謝罪。
加えて今朝くの一教室のシナが楽しそうに話してくれた事を思い出し、何となく事態を察した担任は内心で小さく苦笑する。
…優秀は優秀でも、やはりまだ一年ということか。


例え課題を熟す実力はあっても、現物を持ってこれなかったのでは仕方ない。
そう考えて、可哀想だが補習を言いつけようと口を開きかけた時だ。

ふと目に入った、小さな手に握られた白い華に気付き担任は言葉を失った。

「っ! …不破、それは何処で」
「え?…あ、これはその…貰ったんです」
「貰った?誰からだ?」
「…? くのたまの子ですけど」
「……これはたまげたな」

不思議そうに答える雷蔵を余所に、担任は驚きと呆れを混ぜた笑みを溢すしかできなかった。


その手に握られた白い華は、忍びとして経験を積んだ自分でも殆どお目にかかったことがない。
生育条件が厳しく栽培は不可能、手に入れるにはその条件を満たす数少ない自生場所を見つけるしかないという書物でしか知らない希少な薬草。

…それをくのたまからもらったというのだから、その衝撃は生半可なものではない。

「不破」
「はい」
「…課題の薬草についてはとやかく言わん。それより、そのくのたまの名前は分かるか」
「え?あ、はい」
「なら新野先生にその華を見せて、そのくのたまの名前を教えて差し上げろ。それで補習は免除だ」
「へ…補習、しなくていいんですか?」
「あぁ。…課題よりもすごいものを持ってきたからな」


ぼそり。小さく呟きながら雷蔵の頭をぐしゃりと掻き回すと、担任はひらひらと手を振ってさっさと行けと指示を出す。



騙されて元のものより凄いものを手に入れる忍たまに、騙した相手に騙し取ったものより貴重なものを与えるくのたま。

つくづく妙な学年だと呆れつつ、担任は残りの生徒を待ちながら思わずふと頬を緩めて苦笑を溢した。



20120910