いろは唄 | ナノ


授業中という事もあって学園内の庭は人影が疎らで、いると言えば技術の授業を行っているクラス程度のものであった。
丁度敷地の境付近に立っている大きめの樹によじ登り、忍たま側の敷地を眺めながらさてどうしたものかと彼女は首を捻る。

薬を盛るにしても騙して物を頂くにしても、まさか授業中にちょっかいをかけるわけにもいかない。
何かを盛るのであれば昼食の前か、或いは八つ時を狙うしかないが休み時間にその機会があるだろうか。


いずれにしても今まで人を騙すという経験のない千茅にとって、今回の実習は少々難しいものであった。
一応両親は揃って庇護を受けているし、生きることに必死にならなくてはならないほど飢えた記憶も無い。だからこそ、誰かを欺いてまで必死にならなくて済んでいた。それはとても幸福なことだ。

ただくの一を志すからにはそんな甘いことは言っていられないことも彼女は理解していた。
良心が痛むから出来ないなんて愚かしい言い訳は通用しない、だからこうしてぐるぐると忙しなく思考を巡らせて策を練っているわけであるが。


「…?」

そんな思考の渦に捉われていると、ふと彼女の視界に止まったものがあった。

少し離れた場所から近づいてくる明るい水色の集団、彼女と同学年の忍たま達がわらわらと庭に集まるのを見て、彼女はかくりと首を傾げる。

まだ授業終了の鐘鳴っていない、どころか結構に時間は余っている筈だ。
中途半端な時間に出てきた彼らにほんの少し興味を惹かれ、高い位置で見下ろすのを止めて少し下の枝まで降りた。
幸い彼女は常人より少々耳が良かったので、彼らの会話を何とか拾うことが出来た。

「うーまいったなぁ。いきなり授業変更で裏山で実習なんて…」
「でもまぁ、あれじゃん?薬草見分けて摘んで帰ってくるだけなら簡単そうだし」
「裏山が範囲だろ?広すぎるし…見本が絵だけじゃ分かんないよ」
「まあまあ。昼までが期限なんだしそんな見つけ辛いとこにあるやつじゃないよきっと」

「………」

にこやかに話しながらわらわらと裏山への道を行く彼らの会話を聞きながら、千茅は少し思案を巡らせて、そしてゆるゆると口元を歪める。
なるほど、良い事を聞いた。どうやら想定外の授業変更による実習であるようだし、競争相手も多くないだろうから上手くいけば楽に事が進みそうだ。


そこまで考えを纏めると、彼女はいそいそと外出許可を取りにシナの元へと向かうのだった。



◆       ◆       ◆



「よし、と…」

裏山の入口から程なく離れた場所、道から外れた樹の上で、千茅は辺りを見渡して緩慢に頷いた。
直に昼を迎える、ぽつぽつと無事薬草を見つけたらしい忍たま達の姿がちらついたが、彼女はじっとそれを見下ろすだけで動くことはしなかった。

既に準備は整っている。と言っても殆ど用意するものなどなく、あとは如何に騙しやすそうな相手を見つけるかと自分が信憑性のある演技を出来るかにかかっている。
出来れば一人の、それもあまり警戒のなさそうな。そんな都合の良い相手が居ればいいのだが。


「…っ、」

そろそろ動く時間だろうか。そう考え始めた頃、彼女の目が遠くに人影を捉えた。
恐らく一人、学園に戻るのなら此方へ向かってくるはず。

そう一瞬で思考を巡らせると、彼女は静かに樹を降りて地に蹲った。
そして草を踏み分ける音が近づいてくるのを聞きながら俯いて、小さく啜り泣くような声を上げる。

「っ…ひ、ぅ…っく…」
「……?」

ぴたり、足音が止まる。
そのまま少し間が空いて、恐る恐る茂みを掻き分ける音が聞こえて彼女は内心ほくそ笑んだ。

掛かった。あとは駆け引きだけだ。



「…あの、君、どうしたの?」
「っ…ぅ、…?」

如何にも今気付きましたと言わんばかりに緩慢に頭を上げると視界には柔かそうなふわふわの髪を揺らした少年が此方を心配そうに見つめていた。
そんな彼に困惑したような仕草で首を傾げてみせると、彼はにっこりと笑って膝を降り千茅に目線を合わせる。

「大丈夫だよ、警戒しなくても。どうしたのこんなところで?」
「っ…」

態と怪訝そうな視線を向けて身体を揺らすと、彼は上手く勘違いしてくれたらしく諭すような口調で笑った。
忍たまを警戒している、そう思わせればまさか此方が準備を整えて彼を待っていたなど思わない。

思惑に順調に嵌まってくれる少年に、千茅はほんの少し拍子抜けしたような気分だったがそのまま恐る恐る窺うように彼を見て演技を続けた。
そして震えた声で、ゆっくりと口を開く。

「…授業が、早く終わったから…先生のお使い済ませようと思ったら脚挫いちゃったの」
「え!?挫いたって…大変じゃないか!」
「ううん、処置はしたから大丈夫。でも動けなくて…先生のお使いもまだ終わってないのに…」

言葉の終わりを涙声で終えれば、少年は少し困ったように唸って彼女の頭をゆるく撫でてきた。

「えっと、そのお使いって言うのは…?」
「…薬草を持って帰らなきゃいけないの。在庫が切れてて、薬草園じゃ育ててないやつだからって」
「薬草?因みにどんなの?」
「…………」

問われた言葉に黙り込んで、躊躇うように視線を彷徨わせてみせる。そして彼の手元に一瞬だけ固定して、そのまま黙り込んで俯いた。
さて、上手くいくだろうか。

少年はそんな千茅の一連の様子を眺め、そして考える様に首を捻った後に確認するようにゆっくりと口を開いた。

「…もしかして君が探してる薬草って、これ?」
「………」

沈黙で返す彼女。それを肯定と受け取った少年は、少し困ったように眉を下げて唸った。

「そっか…うーんでもこれは課題用…でも困ってる子を見捨てるのも…」
「別に大丈夫、もう少し休んだら自分で探すから。態々気に掛けてくれてありがとう、大丈夫だからもう行っていいよ?」
「………」

悩んだ様子で独り言を呟き始める少年に見えないように、ほんの少し口角を上げて。
彼女は最後の一押しとばかりに、ほんの少し痛みを堪えたような笑顔を浮かべて気遣うようにそう口にした。

途端、少年はぴたりと動きを止めて、心を決めたように小さく頷く。

「はい」
「…え?」
「これ、必要なんだよね。大丈夫、僕は元気だからもう一回補習を受ければいいだけだし、君にあげるよ」
「っでも、そんなこと…」
「いいんだ、僕がそうしたいだけ。足が痛いんでしょ?僕がおぶって行ってあげる」
「………」

にっこりと笑顔でそういって、手の中の薬草を差し出した彼に千茅は困ったように声を上げた。
心底申し訳なさそうな表情を作る彼女に少年は再び軽く頭を撫でて、背中を向けてそう笑う。

「…ごめんなさい、迷惑かけて」
「ううん、気にしないで。僕一年ろ組の不破雷蔵、君は?」
「くのたま一年の、初芽千茅…」
「そっか、千茅ちゃんだね。よろしく」
「…うん」

至極嬉しそうに微笑んだ雷蔵の背中で、彼女は複雑な胸中を抱えながら苦笑気味にそう返した。



20120805