いろは唄 | ナノ


初夏も大分過ぎた水無月の頃。

しとしとと降り続く連日の雨の中、今日はこの梅雨の頃には珍しい晴天が空を覆っていた。
その貴重な天気が幸運にも休日に当ったことから、学園は朝から各々買い物や遊びへと出掛ける生徒で慌ただしく、昼前を迎えるとすっかり人気が消え打って変わって静けさへと変わる。

素晴らしい日和に静かな空間。
そんな贅沢な状況の中で、一人少女がご機嫌の様子で自然足取り軽く廊下を進む。

勿論この素晴らしい休日に気分が浮上しているということもあったが、それ以上に上機嫌を支える理由があって。
ふとそのことを思い出しては、ふにゃりと頬を緩めて少女は小さく鼻唄を溢し始めた。



少女― 初芽千茅は、入学して以来休日に出掛ける習慣というものを持っていない。
それは別に内向的な理由などではなく、ただ単に外出などに興じている暇がないと言う方が正しい。
幼い頃から山奥で育ち、限られた世界で生きてきた彼女には学園へ来て触れるもの全てが未知のもので。
それらを自身の脳へ、目へ、身体へ刷り込むことに忙しく、街で甘味を食べようとかそういった選択肢は思いつく事すらないのである。


この学園で学ぶこと、触れる事、全てを自分の糧とする。
その幼い少女には似つかわしくないほどの勤勉さは、確かに彼女に結果という形で報いてくれていた。

それが、この上機嫌の理由。
昨日行われた、彼女が最も苦手とする髪結いの授業で、思いがけずシナからお褒めの言葉を貰ったのだ。
級友達と比較してずば抜けて出来が良いわけではなかったが、山奥で樵と番匠を兼ねる両親の元で育った少女には十分過ぎる快挙であった。

やっぱり、居残って練習した甲斐があったなぁ。
そう胸中で呟いて、ふと脚を止める。


「…立花、先輩」

一昨日。
髪結いの予習があまりに捗らず匙を投げかけていた頃、突然現れ助けてくれた忍たまの少年のことを思い出して、千茅は考え込む様に頬に手を当て廊下の真ん中に立ち止まった。

考えるまでもなく、昨日の成果はあの少年のお蔭である。
的確な助言は勿論のこと、彼との出会い自体が彼女の根気を支えたという点で非常に大きなものであることは自覚していた。
一般的に、礼儀として、一言礼を言うべきなのであろうことも承知している。けれど、

「……流石に、忍たま側にお邪魔してまで会いに行く勇気はないなぁ」

何せ数分の出来事だ。それ以外の面識など無く、此方にとっては恩人でも彼は顔すら覚えていないかもしれない。
個人間はともかく大凡忍たまとくのたまは犬猿の中であり、委員会などの大儀もないくのたま下級生が敷地内を歩いては忍たま側も良い顔はしないだろう。

共有敷地内で偶然すれ違う、なんて幸運に期待するにはあまりに無謀であろうか。

「…ないな」

そんな甘えた思考を自身で嘲笑し切り捨て、深く溜息を溢す。
あぁせめて、何か忍たま敷地に行く大儀名分があれば。ほんの少し彼を探して礼を言うくらいは許されるだろうに。


そう目を伏せた小さな少女が、背後から投げつけられた麗しい鈴の音がその幸運をもたらすと知るのは数十秒後。



「あら、千茅。ちょうど良かった、少しお願いしたいことがあるの」
「シナ先生」

妖艶な笑みを浮かべて手招きをするシナに、彼女は首を傾げつつ歩み寄る。




◆     ◆     ◆



『松千代先生にね、本をお借りする約束だったんだけど急に出なくてはいけなくなってしまったの。明日には松千代先生は実習の引率に出られるし、申し訳ないけど代わりに受け取って置いてもらえないかしら』

そんなシナの言葉は、今の千茅にはこの上なく都合の良い頼みごとであった。
忍たま側の教師である松千代万は、言わずと知れた極度の恥ずかしがり屋で身を隠すことに関しては天下一品と名高い忍びなのである。

そんな彼を探し出さなくてはならないとされた以上、例え忍たま側の敷地をうろついていても不自然はない。プロの忍びである教師ですら彼を探し出すのは容易ではないのだから。


そうして見事に大義名分を手にした千茅は早速忍たま敷地へと赴いていた。
そもそもこの陽気で忍たま側も人気は殆ど無く、心配していた視線は杞憂と終わり小さく安堵の息を溢す。
と同時に、件の仙蔵が外出している可能性も十分存在していることには気付いていたが、その時はその時だと割り切っていた。

いらっしゃらないのなら縁がないのだろう、不在かもしれないという不確かな仮定を理由に捜すことすらしないのは自分の怠慢でしかない。
そう生真面目に自身を納得させ、彼女は足早に廊下を進む。

彼がいるとしたらどこだろうか、図書室にはいなかった。忍たま側の敷地には詳しくないが、考えられるのは長屋か中庭か…。
歩みと同じく忙しなく思考を巡らせる少女は、思考の渦に沈んでいる為か背後から追いかける声に気付かない。


悩むように唸る千茅の肩に、しなやかな白い手が伸びる。


「こら、無視とは頂けないな初芽」
「っ…!?」

びくりと盛大に肩を揺らして勢いよく振り返った少女の目に映ったのは、些か呆れたような笑みで自分を見下ろす端整な美少年。

完全に不意を衝かれたことと、その人物が自身が巡らせていた思考とピタリと一致するその人であったこととに、千茅は言葉を喪う。

「っ……な、…」
「…おや、まさか覚えていないか」
「違っ、違います!こ…こんにちは、立花先輩」
「あぁ」

狼狽する千茅の態度を見知らぬ人物への困惑と受け取ったらしい仙蔵の言葉に、慌てて言葉を取り戻し頭を下げた。
礼儀正しく深々と礼をする千茅に薄く微笑んで、少年は肩に掛かったその滑らかな黒絹を払う。彼の癖のような仕草であるが、千茅は思わずその何気ない仕草にすら視線を奪われた。

「相変わらず礼儀正しい奴だ。珍しい場所で会うな、此方へ何の用事だ?」
「え?あ、ええと、少し先生からお使いを。松千代先生から本をお預かりするようにと…」
「…それはまた難儀な。一年には少々酷じゃないか」

未だに混乱と高揚で浮つく思考でそう返すと、それまでの笑みを崩して仙蔵は僅かにその柳眉を顰める。
捜し人が他でもない松千代ということを受けてなのだろう。加えてどこかそわそわと落ち着かない様子の千茅に、それが不安からくるものだと受け取ったのか、彼は書物を抱えているのとは反対の手を軽く彼女の肩に沿えると、宥めるように軽く叩く。

「分かった、ついてこい」
「っへ?」
「一年一人では日が暮れても見つかるか分からんからな。私も一緒に捜してやろう」
「っそんな…!」

さらりと述べた仙蔵の言葉に、彼女は先程まで仄かに染めていた朱を一転させて青褪めた。

まさか、そんな展開になろうとは。
礼を述べるべき相手に、更に手間を掛けさせるわけにはいかない。貴重な休日であり、書を手にしていたところから彼がこれから読書に興じる予定であったことは容易に推測できる。こんな自分の都合に付き合わせるなど申し訳なくてとても頷けなかった。

そう思って口を開きかけたが、どうやら彼は千茅の表情で全てを悟ったらしく、悪戯っぽく笑みを深めて茫然とする彼女の手を掬い取る。



「気にするな、暇を持て余していたんだ。読書より此方の方が面白い」
「でも…そんな、先日に引き続きご迷惑をお掛けするわけには」
「迷惑ではない、私が好きでやっているんだ。くのたまに親しい後輩が出来るなど、この機を逃したら二度とないかもしれんだろう?」
「っ…」

にこりと、それはそれは美しく微笑んでみせた仙蔵にまた頬を朱に染めて。

あぁ、全くなんて幸運だろう。
こんなにとんとん拍子に事が進んで、思いがけない申し出まで受けて。少しでも会えればという願いばかりか、一緒に行動できることになるなど予想もつかなかった。後でとんでもないしっぺ返しが来るようで少し空恐ろしくもある。
けれど、やはりこの瞬間はそんな憂いも深く気に留まることはなく、ただ手に触れる熱がやけに熱かった。

そんな思考を片隅に、引かれる手に従って歩き出しながら彼女はゆるゆると口を動かす。


「…立花先輩、有難う御座いました」
「気が早いな、礼は見つかってからだろう」
「いえ、勿論今回もですが。先日の髪結いのこと、どうしてもお礼をお伝えしたくて…先輩にお会いしたいと思って実は少し捜していたんです」
「何だ、捜し人は二人だったわけか」

気恥ずかしさからか小さな声で溢される千茅の言葉に、少年は小さく声を洩らして笑う。

「礼を言われるという事は、少しは役に立ったらしいな」
「少しなんて。とっても助かりました、先輩に励まして戴いたお蔭で頑張れましたから」
「おや、可愛らしい事を言う。助言が役に立った、ではなく私が励ましたから、か」
「………事実ですから」

揶揄うように目を細めた仙蔵を見て、しまったというように肩を縮めつつも素直に肯定する少女が何だかとても愛らしく感じられて。
彼は今度は遠慮なしに声を上げて笑い、従順な後輩の手を身体ごと引いて、後ろを歩いていた彼女を横へ並ばせる。

「っわ…」
「仙蔵だ」
「…へ?」
「名で呼べ、些か単純だが形式から入るのが手っ取り早かろう」
「え、えと…?」

きょとりと目を瞬かせ、飲み込めていないらしい少女の頭を緩く撫で。少年は嬉しそうに、何処か食えない色を滲ませながら笑う。

「さて千茅、今日をもってお前は私の大事な後輩だ。そんな先輩の好意の申し出は素直に受けてくれるだろう?」
「っ…」

そう言って、名を呼ぶのと同時に極上の笑みを向けた仙蔵に再び言葉を奪われつつ。
遂に朱では収まらないほどに真っ赤に染まった頬を両手で隠して、千茅は力ない声で何とか返事を紡ぐだけで精いっぱいだった。



「……よろしくおねがいします、仙蔵先輩」
「あぁ、頼まれた」


本当に、なんて狡い先輩。

そう胸中で呟きながら、暫く収まりそうもない熱に頭を抱えた。



20141128



こいつらはどう足掻いても甘酸っぱい