いろは唄 | ナノ


何度も何度も櫛を通して、最近漸く引っかからずに梳くことが出来る程度に手入れされた髪を結いあげて、そうして鏡を見ては溜息を溢して結い紐を解く。

授業が早めに終わり自由行動となった昼下がり。
同級生が思い思いに外出したり遊びに精を出す中、千茅は一人実習用の部屋でそんなことを繰り返していた。

「……はぁ」

駄目だ、上手くいかない。
長い髪を持ち上げ続けた腕は疲労で重く、彼女は思わずそのまま床に身体を投げ出す。
必然的に床に散ることとなった蜜色の髪が首やら腕を擽ったが、そのまま構わずにごろりと寝返りを打って溜息を吐いた。

一年前の同じ季節には痛んで目も当てられなかった彼女の髪だが、今では一応くの一を志すに足りるくらいには回復している。
入学して以来丁寧に梳かしたり薬草を練り合わせたものを塗って傷みを和らげたり、それはもう色々手をかけてきた彼女の努力が実った形である。

だが、それを美しく結い上げるという課題が明日の授業で出される事を聞かされて、彼女は一気に気分が落ち込んでしまっていた。


物心のついた頃からずっと山奥で育ち、見た目に気を遣うなど考えたことも無かった千茅には手裏剣を的に当てたり素早く駆けることよりも、琴だとか茶だと髪結とかいう作法を覚えることの方がよほど難しく苦痛である。
人一倍そういったことに疎いからこそ、せめて明日の予習をとこうして苦しんでいるのだが…どうにも上手くいかないものだ。

「…髪結いなんてしたことないよ」

床に頬を預けて、ぐったりと倒れたまま情けなくそう愚痴を溢した。
元来打たれ強い性格の彼女がへこたれることはそう無いのだが、こうも思うようにいかないとやはり泣き言の一つも言いたくなる。

仰向けになってぼんやりと外を眺めて、あぁ身体を動かしたいなぁと独りごちる。
いっそ予習など投げ出してしまおうかという甘い誘惑と予習しなくてはという義務感の狭間で揺れながら外を眺めていると、ふとある一点を見て彼女は思わず目を瞬かせた。

「…っ!」

視線の先は、広大な学園内を二分する大きな塀。そしてその上に存在する違和感に気付いて、声にならない叫びを上げながらぱちぱちと瞬きを繰り返す。


…忍たまとくのたまの敷地を区切っているそこからは確かに誰かがひょこりと顔を覗かせていて。ふいに重なった視線に、最早彼女は硬直するしか出来なかった。
まず間違いなく忍たまの生徒、忍服の色から一つ上だろうか。その少年もぱちりとその切れ長な目を瞬かせて彼女を凝視していた。


暫し沈黙が続いて、二人は図らずとも見つめ合う形となる。

「………」
「………」

どうしよう。
あまりに互いに動かない為に、彼女は内心で僅かに焦りを抱く。

取りあえず、寝転がったままでは失礼かとゆるゆると身体を起こして向き合うと、彼も顔だけ覗かせていた状態から塀の上に腰かけて此方を見つめていた。
奇妙な光景だが彼女はそのまま正座して、恐らく此方の出方を窺っているのだろうその人に恐る恐る話しかける。

「…あの、くのたま側に何か御用でしょうか?」

その千茅の言葉に返ったのは、返事ではなく何処か感心したような溜息だった。
少年のその反応の意図を図りかねて首を傾げると、彼はくのたまの敷地であるというのに躊躇う様子も無く塀から下りて彼女に近付く。

「…?」
「…驚いたな、くのたまは上級生より一年の方が礼儀を知っているらしい」
「………」

心底感心したような彼の言葉に、彼女は沈黙を返しつつも内心で苦笑を呈した。


確かに自分達の一つ、二つ上の学年の先輩達は総じて忍たま嫌いが激しい。
伝統的に忍たまとくのたまの仲は良好とは言い難いのだが、その中でも群を抜いて激しいのだそうで。そのため挨拶をするどころか顔を合わせれば嫌味と手裏剣の応酬で、それはそれは険悪なのだ。

そんな先輩の影響を受けて同学年の中でも忍たまを毛嫌いする子も多かったが、千茅としては正直そんな諍いに興味は無かったし年長者には敬意を払うという最低限の礼儀は心得ているつもりだ。
寧ろ年上である彼に敬語を使っただけで感心される方が妙な話だろう。


そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、その人はまじまじと千茅を見つめる。

「…自習か?」
「え?」
「見たところ髪結いの練習中のようだが」
「…あー、はい」

周りに散っている結い紐や櫛を見て言ったその人に、千茅は少し気まずそうに俯いてそう返事をする。
妙なところを見られてしまったと少し恥ずかしくなっていると、彼は少し思案するような仕草を見せた後ゆるりと彼女の後ろに回った。

何をと問うよりも早く、彼女の髪をその白い手が掬い上げる。

「え、あの、え?」
「どの形にしたいんだ?」
「え…と、“立兵庫”ですけど…」
「分かった、じっとしていろ」

何事だ。言葉にならない混乱に追われている間に、その人は背後でてきぱきと手を動かしていく。
恐らく髪結いをしてくれているのだろう。
初対面の忍たまに勝手をされて抵抗すべきなのかもしれないが、何故か動く気にもなれず鏡越しにその鮮やかな手つきに見惚れてしまう。

あっという間に自分が作りたかった髪型がそのまま頭の上に完成してしまったのを見て、彼女は感嘆の息を溢した。

「すごい…綺麗だし早い」
「あまり他人のをつくるのは慣れていないが、まぁこんなものだろう。お前は髪が柔らかいから少しやりづらいかもしれないな、もう少し確り固めた方が纏まりやすいぞ」
「あ、ありがとうございます…」

にこりと綺麗に笑うその人の言葉に、まだ困惑を残しつつもそう礼を口にする。

まさか自分の為に態々目の前で披露してくれたのだろうか。初対面で、しかも忍たまが。
彼女としては忍たまに何の確執も抱いていないが、先程の言葉から彼はくのたまに対してあまりいい印象を抱いていないだろうに、こんな親切をしてくれる理由が彼女には分からなかった。

思わずじっとその人を見上げていると、彼は少しだけ可笑しそうに頬を緩める。

「名前は?」
「へ?あ、すみません名乗りもしないで…えと、一年の初芽千茅と申します」
「そうか初芽、此方こそ急にすまなかったな。暇だったものだからつい手が出てしまった」
「あの…でも何か御用だったのでは?」
「あぁ気にするな。今鬼事で賭けの途中でな、此方に居れば捕まることもないかと思って忍び込んだだけだ」

飄々とそう笑って、そろそろ頃合いかなとその人が言った瞬間塀の向こうが騒がしくなる。
苛立ったようなその叫び声からどうやら鬼は見つける期限を過ぎてしまったらしい、さっさと出てこいと叫ぶその声に目の前のその人は可笑しそうに笑って千茅にゆるりと笑みを向けた。

「決着がついたらしい、邪魔したな」
「いえ、その…ありがとうございました」
「気にするな、勉強熱心な後輩の背を押したくなっただけだ。頑張れよ初芽」
「あ…あのっ!」

軽く頭を撫でて、そのままひょいと塀に登ってしまったその人を少し上ずった声で引き留める。
さらりと黒髪を揺らしてくるりと振り返ったその人に見惚れそうになりながら、何とか口を開く。

「その、先輩のお名前は」
「あぁ、まだ名乗っていなかったか。二年の立花仙蔵だ」
「立花先輩…本当にありがとうございました」
「生真面目な奴だ。ではまたな」

確りと腰を折ってもう一度礼を言うと、その人は可笑しそうに笑って。そして言葉が終わるが早いか、ひらりと手を振ってそのまま塀の向こうに消えてしまう。
その後ろ姿を茫然と見つめてそのままゆるゆると自分の頭に手を伸ばすと、彼女は小さく息を漏らした。

…どうやらへこたれている場合ではなさそうだ。先程まで揺れていた心を思い直して、そのまま櫛を拾って鏡の前に座り直す。

「…頑張ろ」

現金と言われてもいい。ただ、あの先輩が頑張れと言ってくれたそれだけでもう少し頑張ってみようと思ってしまう。
そう思う程には彼女は初対面の彼に尊敬にも似た感情を抱いたし、上手く出来たら今度はお礼もかねて自分から会いに行ってみようかと考える程には好意を抱いたのだ。


もう少し、この難解な課題と向き合ってやろうじゃないか。千茅はそう薄く微笑んで、再び櫛を握り直した。



20120623