いろは唄 | ナノ


  先輩たちに気に入られてるからって生意気なのよ!


その言葉に無表情で返したのがいけなかったのだろうか。正直何も思わなかったのだから仕方ないのに。
じくじくと痛む右の手の甲を見つめ、九子は一つ小さな溜め息をついた。
いくら一年生とはいえ仮にも忍を目指しているというのに、そんな自分へと向けられていた、恐らくは脅しの目的であろうクナイがかすったものだ。怒りに手元が狂ったらしい。
当の本人たちは顔を青くしてとっくに逃げている。


委員会の度に目にする顔ぶれ、九子の頭にも残るくらいには顔見知りな上級生たち。
他にも数人見たことのない顔もあったが、もしかしたら会ったことがあるのかもしれない。ただ記憶にないだけで。


「…」


井戸の水に手拭いを浸す。
それをそっと傷の上に乗せると、ピリッとした痛みがはしった。
傷自体は全く大したことのないかすり傷だし、見た目に反して酷く痛むだなんてこともない。
先程と言うことは異なるが、いくら忍を目指しているといってもたかが二年生三年生くらいの実力ということだろう。


ただ、少しばかり範囲が広い故に痕が残らないかが気になる。
腕ならまだともかく、こんな目立つ場所に傷痕なんて残しては、くの一に必須な美しさも何もないだろうから。


(保健室…)


女子の方はそろそろもう閉まる時間か。
男子の敷地にまで足を運ぶのは面倒くさいが、薬を貰うにはそうするしかない。非常に面倒くさいが。
もう少し冷やしてから、と言うよりはただなんとなく脱力感に襲われ動きたくなく、暫く井戸の前でぼうっとする。
血はとっくに止まった。念のためにも早く薬を塗ろう、そうは思うものの。
やはり、面倒くさい。


「…えーと、九子…?」
「?」


また一つ溜め息をついて、仕方なしに踵を返そうとしたところで耳に入った、戸惑いがちな高い声。
聞いたことのあるような無いような、だが聞き慣れないとは思わないということは  自信はないが  きっとそれなりに聞いたことのあるのだろうそれが己の名前を紡ぐのを聞き、九子は身体を向けていたのとは丁度正反対の方向へと振り返った。
するとそこにいたのは、自分と同じ忍服、長い茶色の髪、見覚えのある一人の少女。
名前は残念ながら覚えていないが体術に非常に優れていることが印象的な、そんな同じくの一教室の同級生で。


「やっぱり。どうしたの?こんなところで…って、怪我したの?」
「…えっと」
「ちゃんと薬塗らないと。あ、でも保健室はもう閉まっちゃうね…ちょっと待って」
「…」


ごそごそと懐を漁りはじめる、目の前の同級生。
九子が夜の鍛練に励むようになったその要因となった少女は、九子の視線に気付いているのかいないのか、すぐさま小さな入れ物を取り出す。
そのまま、ちょっとごめんね、と手を取られたかと思えば薄緑色の塗り薬が甲に塗られて。その間は僅かな間のみ。
まさにあっという間の出来事だ。
なんとなく、この間出会った先輩と似ているかもしれない。なんてことが頭の隅をふと過った。どこがと訊かれると困ってしまうが。


「うん、これで大丈夫かな。ごめんね勝手に」
「ううん、ありがとう。…えっと」
「千茅。初芽千茅だよ」
「…千茅」


九子の態度を特に気にすることもなく、にっこりと微笑んでくれる千茅。
その名前を噛み締めるように呟けばまた笑ってくれる少女は、やっぱりなんとなく先輩に似ている。
似ている、けど、違う。でも共通するこの感じは一緒で。
どことなく安心する。


「…ありがとう、千茅」


もう一度、目を見て名前を呼んで。
そうして紡ぎだした言葉は先程と何も変わらなかったけれど、なんとなく擽ったかった。




20120427