「ここはもっとピッチを上げた方がいいですね。それからこの部分の速さなんですが」
「はっ、はい!」

私は今、一ノ瀬さんと一緒にレコーディングルームにて歌の練習をしています!
流石一ノ瀬さんと言うべきか、かれこれ三時間経つんですが、何度歌っても納得がいかないと歌い直しの連続。
使用時間については先生から許可をもらっているので当分は大丈夫なんですが…。
ぶっ通しで歌い続けると喉にも良くないかと思います…。
でも、当の一ノ瀬さんは全く辛い表情をしないんです。本当に凄いです。

「……何をじろじろ見ているんです」
「はっ…す、すいません、つい」

一ノ瀬さんは相変わらずの仏頂面で私を見つめる。…ほんのりと顔が赤くなってるのは…気のせいかな?
よし、一ノ瀬さんの足を引っ張らないよう、私も全力でアシストしよう!

「あ、あの、ここのフラットの部分、もう少し低音で頂けますか?その方が曲に合うと思うんですけど…」
「…ええ、構いませんよ。確かにその方が合いそうだ」

私はBメロの部分の譜面にチェックを入れながらどんなふうに歌えばより曲に合うかチェックする。
一ノ瀬さんは譜面通りに、心をこめて歌う。一ノ瀬さんは歌に心をこめることを苦手としていたけど、今では曲をすっかり自分の物にしたという感じで、何を取っても完ぺきというくらいの歌い方になってきていた。

「では…もう一回、録り直しますよ」
「…一ノ瀬さん、少し休憩しませんか」

私は勇気を出して、一言。一ノ瀬さんはそれを聞いて、眉に皺を寄せた。

「それはできません。今やっと掴めて来たんです。ここで休憩したらまた失敗の繰り返しになってしまいますから」
「でも、一ノ瀬さん、ずっと歌いっぱなしで…」
「君が止めても私は歌い続けます」

そう言って、一ノ瀬さんは一人で録音を始めようと機器に手を付けた。

「だっ、ダメです!!!!」
「なっ…!」

私は咄嗟に機器の電源を切って、一ノ瀬さんから譜面を奪い取った。

「君は…なんてことをしてくれるんです。」
「休んで…欲しいんです…」

私が俯きながら答えると、上から大きな溜め息が聞こえた。
呆れられちゃったよね…。パートナーなのに。邪魔するようなことしちゃったし…。

「…分かりました。ただし、すぐに再開しますからね」
「ほ、本当ですか!」
「…ええ。」

良かった、分かってくれた。備え付けの椅子に並んで座る。私は一ノ瀬さんに笑顔を向けた。

「嬉しそうですね…。そんなに休んでほしかったのですか」
「もちろんです!ちゃんと休まないと良い声も出ませんから」
「あまりなめてもらっては困りますね。それくらいで私の喉は壊れません」
「そ、そういうわけでは…」
「…でも、ありがとうございます」
「え…?」

一ノ瀬さんは私にふっ、と笑顔を向けて、またすぐに仏頂面に戻った。
笑ってくれた。あの一ノ瀬さんが。
私は一ノ瀬さんがHAYATOというもう一つの顔を持っているということを知っている。
その笑顔は、HAYATO様のあのキラキラ輝くような笑顔とは違うけど。
でも、それと同じくらい…いや、それ以上に素敵な笑顔だった。

「一ノ瀬さん、今の笑顔……」
「……?」
…ここ最近徹夜で譜面とにらめっこしてたから…かな………………急に睡魔が襲ってきた。
「今の笑顔……もっと…見せてくださ…い…」



こつん。

未美が私の肩に頭を預けた。

「………藤堂君……、未美」

全く……少しだけ休憩と言ったのはどこの誰ですか。
…疲れが溜まっていたのか、すやすやと寝息をたて気持ち良さそうに眠る未美。少し無理をさせすぎましたかね。

「もっと…頼って下さい」
「……」

彼女は何も答えない。

「私は…そんなに頼りないですか」

未美の頭を、そっと撫でる。

「…………ん」

気持ち良さそうに笑う彼女に柄にも無く、無性に可愛いと思う。

「…………は、」
「……」
「はや、と………様…………」

その言葉に…少し、心が痛んだ。

「………なにかにゃ、未美ちゃん」

HAYATOの口調で、そう答えた。

「…………ん……ち、が…」

「…………とき、や……く……ん」
「!」

不覚。

「っ………」

未美が寝てて良かった。
きっと今、顔は真っ赤になっているだろう。

「………未美、起きてください」

これ以上この状況はまずいと、彼女を起こしにかかる。

「………え……あれ、…いちのせさ……私…あれ…………?」

軽く肩をゆすると彼女はすぐに起きた。

「…あ………」

少し考えてから、彼女は今の状況を理解したようで、真っ青になった。

「ご、ごごごごごめんなさい!私、寝てしまって……しかも一ノ瀬さんの肩に…!!休憩しようと言ったのは私なのに…!ああ、本当にごめんなさい…」

今にも泣きそうな顔で謝る彼女。

「………トキヤ」
「…え?」
「金輪際私のことを一ノ瀬さんと呼ぶのはやめると誓うなら、許します」
「え、え?ええっ!?」
「さあ、どうするんですか?」

自分でもよく分からなかった。でも、トキヤ君というあの言葉を聞いてから、一ノ瀬さんという呼び方に無性に寂しさを覚えたのだった。

「…分かり、ました………と、トキヤ…君」

未美は小さく呟くと、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
嗚呼…私は、彼女が…未美が、好きなんだ。

「それで良いんですよ、未美。…さあ、練習しますよ。準備して下さい」
「はっ、はい!今すぐに!」