Thank you,darling!



ありがとうテキスト 掌篇小説集
『Code 2715』Vol.59





夜明けのプラネタリウム





あやとりをするように星々をつないだ。
アステリズムはやがて新しい神話をつくった。


家出というのなら父さんの方だろう、とシンジは思う。母さんが亡くなってから父さんは僕から逃げ出した。それは取るに足らない昔話だった。なのに今、自分の世話が楽になった頃合いを見計らって、何を血迷ったのか、掘り起こしてきた。親子という生物学上の関係を。

シンジは嘆いてはいないのだと豪語する。どうでもいいくらいには時が経ち過ぎた。ただ、ものすごく面倒くさくうざったらしく呆れる事態だから、と告げるように「父さんなんていらないのに」とだけつぶやいた。カヲルはそれ以上何も聞かなかった。シンジは聞いてほしい時にはサインを出す。同じ話を二度しないなら、別の話題を振るまでだ。

そんなに長い付き合いではない、とシンジは思っている。けれどカヲルは着古したTシャツが肌に馴染むように、シンジに溶け込んでくれた。負荷もなく、何でも話せる友達というものを今まで知らなかった。ふかふかの布団の上で、シンジはこの胸騒ぎが友達から来るものなのか父親から来るものなのか判断がつかない。縮こまった肺を精一杯膨らませてみた。もうどれくらいこうしてああだこうだ考えて眠れないのだろう。
友達は寝てしまったのだろうか。彼の寝息はとても静かで生きているのか心配になるほどだから、耳だけではわからない。寝返りを打ち、背を向けていたベッドに視線を投げてみると、赤い月が、ふたつ。

「眠れないのかい?」

いつからこちらを見ていたのだろう。月の光に照らされた銀髪が嘘のように目映い。きっと自分は夢を見ているのかもしれない、とシンジは思った。静かで幸せな夢。夢のように美しく、やさしいカヲル。

「うん、まだ」
「ならこうしよう」

ベッドの軋むスプリングとシーツの床ずれの音。シンジが体を起こす間もなく、するりとカヲルが布団の中に入ってきた。

「ほら、こうして」

肩が触れ合う距離で横に並ぶ。

「同じ夢を見よう」

甘ったるく耳許で囁かれて、シンジはしびれて動けない。トクントクンと心臓が反応しているが知らないふりをした。じわっと汗ばむ手を隠したくて握り締める。変な緊張は艶かしい友達のせいだ。困惑して、何故だか少しあざとくなってしまう。

「一緒に寝ると見られるの?」
「そうだよ」

小指と小指が触れ合っていそうな手と手。音もなくするすると白い手がもうひとつの甲を滑り、やがて指の間をほぐしてゆく。重なる指が合わさって絡みつく。シンジはもう逃げられないと観念した。観念したのに、嬉しいと感じた。

「シンジ君は僕とどんな夢を見たい?」

カヲルの親指がゆりかごの速度で撫で上げてくる。シンジの表情がゆるみ、目を細める。数呼吸分考えてみた。

「遠くまで出かけたい、かな」
「どこへ行こうか」
「海はどう?」
「いいね。海水浴だ」
「うん、あとスイカ割りもやりたいな」

語尾に力がこもると淡く息が白んだ気がした。暖房が弱い室内で、毛布に包まれたふたりだけがあたたかい。

「他にやりたいことは?」
「水族館もいいかも。ペンギンを見てみたいんだ。カヲル君は?」
「ん?」
「水族館で見てみたい生きもの」
「そうだね、クジラかな」
「さすがにクジラは水族館にはいないよ!」
「そうなのかい?」

クスクス笑うと振動が体に響く。うっとりとして、見つからないように少しだけ、声のする方へと首を傾げた。

「僕たちの夢の中の水族館ならきっといるさ」
「夢だからね」

車の走行音と共に天井にはヘッドライトが反射する。流れ星のように刹那的に横切った。ベッドの隣の布団には斜めに影がかかっている。世界から隠れているように、ひっそりと。

「プラネタリウムみたいな空も見てみたいな」
「僕も君と星を眺めたい」
「オーロラがかかってて、流星群が降ってきて」
「にぎやかだね」
「せっかくだから見たことないものは全部登場させようよ」

真っ暗な天井は宇宙の闇のようだった。想像力でひとつひとつ星の光を灯してみる。沈黙が空気を満たす。きっとふたりは今、同じ星空を見上げている。

「星座の起源を知っているかい?」

ううん、と応えた。

「五千年前、夜に番をした羊飼いがつくったと言われているんだ。それが時代と共にゆっくりと変わっていった」

カヲルの声は何かを伝えたそうに、丁寧な響きだった。シンジは羊飼いになり夜空を眺めた。透明なカヲルの手が上空を指差した。

「オリオン座ももうすぐ今のかたちではなくなってしまうんだよ。左上の隅の星」
「ベテルギウス?」
「うん、ベテルギウスは赤色超巨星だろう?」
「……もうすぐ爆発するんだ」
「そう、もう超新星爆発を起こしているかもしれないね」

記憶をたぐり寄せる。ベテルギウスは太陽の千倍の大きさの赤色超巨星。つまり、エネルギーの使い果たし自らの重さを支えきれずに膨張した恒星。彼らは命を終える時に爆発し、新しい星々の命となる。

「そっか、爆発しててもすぐにその光は届かないもんね」
「642光年も離れているからね」

もし明日、夜空を見上げてベテルギウスが散っていてもそれは642年前の出来事。気の遠くなるような話だ。シンジは目を閉じて想像した。星の終わりと始まりを。



天井の星々は巡っていく。かのゲーテの言葉のように。その彼が残した言葉をカヲルはこの時、想っていた。

__He is the happiest man who can set the end of his life in connection with the beginning.

赤い瞳には満天の星がきらめいていた。その無数の輝きを、あやとりをするように、ひとつひとつ繋いでいく。

「そしたらオリオン座は新しい星座になるかもしれない」

ぽつりと、しかし熱を帯びた、確信のある声音だった。

「僕はねシンジ君、星空が少しずつ変化していくことを希望だと思っているんだ」

まるで星へと手を伸ばすように、彼は告げる。

「かたちが変わればいつか、神話も新しい物語になるかもしれない」

普段よりも饒舌に、カヲルは伝えることをはばからなかった。

「何度世界をやり直して何度世界が変わらなかったとしても、僕はその可能性を信じているよ」

幾星霜の天使のあやとり。星座のパターンを透明な指でなぞり続ける。長い歳月に星々はやがてほぐれてゆく。チカチカと新しい光は意味を持つ。少年の神話は彼にふさわしい幸福なピリオドを結ぶ。

きっと、今度こそは__そうして流れ着いたのは、布団の上で星を語る少年たちの夢のプラネタリウムだった。

カヲルは白い手にそっと力を込めた。触れ合う肌は発熱していた。けれど、握り返してはくれない。長い睫毛がまたたいて、横を見やる。目を閉じたまま、シンジは規則正しい呼吸を繰り返していた。

寝てしまったか。眠ってほしかったのに、カヲルは自分の思考にばつが悪くなる。平穏な生活が彼の中で我欲を育んでいるのかもしれない。

もうこの世界を逃したら二度と奇跡が訪れないかもしれないとカヲルは思っていた。何万回という絶望的なやり直しの末に、平和な世界は産み落とされた。カヲルは祝福した。そして祝福された。やさしい世界の中にいても、シンジはカヲルを求めていた。

隣で寝息を立てている彼とその父親はまだ、こんがらがった糸をほどけないでいる。けれど、それはそこまで嘆くことではない。どこにでもある、平凡な親子の事情だ。

(家出というのはね、シンジ君。たったひとつの最高の条件がないとできないんだ)

肘をついてシンジを見下ろすカヲル。そっと前髪をすいた。

(帰る家、ホームがあるという事実は幸せに繋がる。よい事だよ)

半刻ばかりが過ぎ、月も位置を変えていた。月明かりに照らされたシンジの目尻がきらめいている。拭いきれなかった涙あと。その慎ましさにカヲルは甘い哀しみを抱く。どんなに平和な世界であっても、心が握りつぶされそうな痛みは存在して、普通の少年を一歩成長させるために、そっと、背中を押す。果てしない時間を共に過ごしていても、一度だってカヲルはその痛みも成長も肩代わりすることはできない。それはシンジ自身が歩むべきものだから。

「明日になったら君のお父さんが電話をくれるかもしれないね」

不器用な彼の父親は時計の針が真上に上る頃に帰宅し、何度目かの空っぽの息子の寝室を覗くだろう。擦り減る日々がやり直せないものの影を濃くする真夜中のころ。父親は深い溜め息を吐いてささやかな晩酌をするかもしれない。それでも、彼はカヲルと同じことをするはずだ。ようやく新しいものを築き上げはじめた彼は、息子と共に歩むことを望んだのだから。そんなふたりをカヲルは見守るしかない、今のように。

「同じ夢を見ようね」

微笑んだ唇が安らかな額にそっと、落ちた。

シンジは夢の中にいる。カヲルがその夢に駆けつけるまで、待っていた。
同じ夢で夜明けを迎えられるように。


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