灯籠流し




 
 
半透明の紙を片側だけ赤く塗って、裏側から透かして見たら、こういう風に見えるだろう。
 小さな赤い指先は、太陽に炙られて、焼け焦げたように丸まっている。くるくる、丁寧に押しのばせば、カナダ国旗ができるかもしれない。風に煽られて、赤を塗った面が見えた。そしてまた裏。血管のように葉脈が透けて見える。表、裏、表、裏。少しずつ前に押し流されながら、上から下に視界を埋めていく。ほとんど白に近い青の空も、建物の群れも通り越して、茶色のレンガを組み合わせたようなアスファルトの上に辿り着く。
 先のとがった焦げ茶色のブーツの先が、かしゅり、とそれを踏みつぶした。
 歩道を踏みつけるたびに、ヒールがごつごつと音を立てる。前を歩く女の人の、細いピンヒールは、カツカツと音も細い。行き交う人たちの話す言葉から、互いに何の関係もない単語が、好き勝手に耳に飛び込んでくる。
 辻占というものがあった。四つ辻に立って、一番初めに聞こえた言葉を、行動の指標にする。四つ辻ではない道を歩くわたしは、全部を振り払って先に進む。車やバスやタクシーが、ひっきりなしに車道を走っていく。映画だと、雑踏を表現するのに、クラクションの音をたくさん入れたりするけれど、実際はそうそうあんな風に頻繁に、クラクションが鳴ったりはしない。ただぶすぶすとガスを吐き出す音と、タイヤが道路をこすっていく音だけが、飛び交っている。排気ガスの臭いを、冷たい空気が端から散らす。 人並みをすり抜けて、泳ぐように歩いた。人も車も建物も、みんな水のように流れて、意味のない音の群れと、意味のない人の群れが、ひたひたと周りを浸していく。細い身体をひるがえして泳ぐ、鰯になったつもりで、するするとそれをかき分けて歩く。腰をくねらせ、尾ひれを左右に叩きつけるようにして。鰭の下や鱗の隙間を、冷たい水がくぐり抜けていくのが分かる。ごくごくと水を飲み込んで、鰓から音だけを吐き出した。残った無音が体を流れる。尾ひれを打ち振って身をくねらせると、水は揺らぎながら、後ろに流れ去っていった。わざと細い隙間をすり抜けるようにして、泳いでいく。鞄やコートの裾が触れる、ぎりぎりのところで、尾ひれをひるがえす。長いコートを着た人の四角い革の鞄と、ブーツを履いた人のトートバッグをかわすと、学校が見えた。 校門のレールを、大股で越える。門そのものも、レールも、朝霧で濡れて、たくさんの小さな水滴が、表面を埋め尽くしている。レールとレールの間には、小さな水たまりができていた。ほんの一瞬、赤い服の裾を翻して、水の向こうに駆けていく人影が、見えた気がした。元は金色だったはずのそのレールは、ところどころ錆が浮き、油が染みて、まだらに変色している。水溜まりに工業用のオイルを浮かべると、こういう風になる。子どもの頃は、水の中に虹が浮いているんだと思っていた。すくって持って帰ろうとして、お父さんに笑われたっけ。あの頃、水の向こうに虹があることは、なんの不思議もないことだったのだ。
 朝の学校は、色とりどりの服と、色とりどりの話し声で溢れかえっている。それが虹ではないことをもう知っているわたしは、七色よりももっと多い色の洪水をかき分けて歩く。





 教壇の上では、教授が退屈な講義をぶつぶつとつぶやき続けていた。朝一番の教室には、存外多くの生徒が、好き勝手に座っている。一番後ろの列、真ん中より少し右寄りの椅子に座って、頬杖をついたまま、お経のような言葉の羅列を聞き流す。教授は、教卓の上に置いたテキストから、ほとんど顔を上げずに、ぶつぶつ言葉を垂れ流している。退屈で有名な講義を、真面目に聞いている生徒はほとんどいない。机に突っ伏して寝ている人が大半、本や漫画を読んでいる人、絶えず喋り続けているグループ。わたしの斜め前に座っている男の子は、さっきから熱心に、机の上にペンやら消しゴムやらで、芸術作品を作り上げている。教授は、自分の話を聞いているものがいないことを、まったく意に介した風もなく単調に話し続ける。
 なんとはなしに、隅の方で甲高い声を上げて喋り続ける女の子たちの会話に、耳を傾けた。誰と誰が付き合っているとか、えっあそこは別れたよ、ヒロトはユカのこと好きらしいよ、えー嫌だあんなキモいの、ねぇねぇこれ超カワいくない? カワいー! どこで買ったの? 今日って何時に集合だっけ、誰かリナにメール回した? 他愛もない話を、延々と続ける彼女たち。きゃらきゃらと笑い声が教室に響く。教授に聞こえないように配慮するつもりは、いっさいないらしい。
 こういうのを表すのにピーチクパーチクという言葉があったな、埒もないことをぼんやり考えた。だからそれでさー、ダイキなんて言ったと思う? やだーありえなーい、ぴーちく、ぱーちく、ぴーちく、ぱーちく。右前に座っている茶髪の小柄な子はスズメ、隣のモスグリーンのモヘアニットの子がウグイス、グレーのコートを着ているのがヒバリ、青とオレンジのワンピースはカワセミ。種類が違う割には、同じような鳴き声でぴーぴー喋り続ける。斜め前の子が、相変わらず熱心に組み上げ続けているオブジェからは、いつの間にやら芽が出始めている。それはあっという間にすくすく成長して、一本の大きな木になった。幹の途中から、枝や蔦がばらばらと伸びて、教室中を覆い尽くす。わたしは、熊のでき損ないか何かみたいな生物が出てくる、アニメ映画を思い出している。あれはドングリだったろうか。鳥たちは、枝から枝へ飛び移りながら、そこら中に鳴き声を撒き散らす。ぴーちく、ぱーちく、ぴーちく、ぱーちく。男の子がひとつペンを乗せるたびに、また新しい枝が伸びる。教卓の上には、小さなしじみが一粒乗っていて、ぷつぷつぷつぷつ空気の泡を吐き出し続けている。そのぷつぷつは少しずつ広がって、教室を包み込む。ぷつぷつの向こうから、時折甲高い笑い声が割り込んでくる。ケラケラケラケラ。あー、だから笑いカワセミには話すなよって言ったのに、枝にぶら下がるナマケモノが眠そうに目を擦りながらぼやく。増え続ける緑色は、もうそろそろジャングルの様相を呈し始めている。視界を埋め尽くす、枝やら蔦やらの隙間から、ぷつぷつと空気の泡が漏れ出してわたしを取り囲む。
「はい、じゃあ今日の授業はここまで」
 教授がそこだけ妙にはっきりした声でそう言ったとたん、寝ていた人も漫画を読んでいた人も、いっせいに荷物を片付けたり立ち上がったりし始めた。斜め前の彼は、一時間かけて作り上げた大作を、名残惜しげに、いかにもしぶしぶといった風にひとつずつ片付けている。女の子たちは、相変わらず絶え間なく喋りながら教室から出ていく。エツコとかゆってマジわがままだよね。わたしもエツコきらーい。初めから何も出していなかったわたしは。頬杖をやめてコートに腕を通す。あっという間に教室には誰もいなくなっていて、白髪の目立ち始めた教授がぽつんと一人授業道具を片付けている。





「それってその人ちょっとヤバいんじゃないの?」
 別段美味しくも不味くもない食堂のうどんをつつきながら、そうかも、と気のない相づちを打つ。目の前では、友人二人が口論を始めている。というよりも、片方が片方に向かって一方的に苦言を呈している。
「ちゃんと問い詰めなよ。絶対その人奥さんいるって」
「えーでも独身って言ってたし……」
「嘘嘘、絶対嘘だってば。怪しすぎるよ。そう思わない?」面倒見のいい彼女は、顔をしかめたままわたしに話題を振ってくる。ちょっと考えてから、でも何も略奪愛しようってわけじゃないんでしょ? じゃあ奥さんいてもいいんじゃない? と答えてみると、彼女は「そういう問題じゃないでしょ」と呆れたように言った。当の本人はうんうんそうだよねと気楽そうに頷いている。
「ちょっと、他人事じゃないんだから」
「でも確かに奥さんいても別にいっかなーって」
「いいわけないじゃん。だいたいなんでいっつもそんな年上の人ばっかり好きになるわけ?」
「だってお父さんみたいな人が好きなんだもん」
 毎回同じようなやり取りをしている気がするな、と、考えるでもなく考える。ずっと足を組んでいたせいで、下敷きになった左足が、しびれてきている。下ろした右足の踵が、がりっ、と何かを踏んだ。まだ口論を続けている友人たちから目線を逸らして、テーブルの下を覗き込む。ブーツのヒールの下には、半分欠けた白い錠剤のようなものが落ちている。
 小学生の頃、学校のプールに先生が入れていた、塩素のタブレットを思い出した。塩素って、人体には毒なんじゃなかったんだっけ。錠剤の欠け落ちた部分から、しゅうしゅうと気体が立ちのぼって、あっという間に食堂全体に広がり始めた。テーブルの脚と、様々な靴やタイツや靴下を履いた人の足の間をすり抜けて、するすると侵攻していく。テーブルから上に頭を持ち上げると、さっきまで口論していた友人たちの頭が、テーブルの上に投げ出されている。唇は腫れ上がって舌がはみ出し、顔がみるみるうちに青紫に変色する。半開きの口から、赤い細かい泡が溢れてテーブルを汚した。隣のテーブルの四人組も、向かいのカップルも、カウンター席に座っていた人たちも、みんな口から泡を吐き出して倒れている。椅子からずり落ちていたり、座ったような格好だったり、床にべったりと寝転んでいたり。手足がばらばらに投げ出された人の群れは、象形文字の塊みたいだ。もしくはクロマニョン人の書いた壁画か、ナスカの地上絵。今この食堂を上から撮影したら、宇宙人のメッセージか何かみたいに見えるのかもしれない。ガスは素早く食堂中に広がって、生徒たちが音もなく次々に倒れていく。操り人形の糸を上から突然切ったら、こんな風に見えるだろう。無音の中にうどんをすする音がずるずると響く。
 時計は十二時五五分を指していた。もうすぐ次の授業始まるよ。慌てて立ち上がりつつも口論を続けている友人たちを見守りながら、つま先を床に打ち付けて踵についた白い粉を落とす。まだ決着はついていないらしい。隣のテーブルの四人組も、向かいのカップルも、カウンター席に座っていた人たちも、みんながいっせいに移動を始める気配で、食堂は騒然としている。






 午後の授業の間に、にわか雨が降ったらしい。アスファルトと土の匂いが、入り雑じって漂っている。濡れて色の濃くなったアスファルトに、ところどころぺったりと貼り付いている落ち葉を、避けながら歩く。赤いランドセルを背負った小学生が、足元を見ながら歩くわたしを、追い抜いて走っていった。留め金のきちんと止まっていないランドセルは、少女がアスファルトを蹴るたびに、ぱかぱかと開閉する。黄色い帽子をかぶった子どもの群れが、騒然と通り過ぎていく。子どもというのは無意味に走りたがる生き物らしい。朝は賑やかだった道路には、ほとんど車の影はない。空車のプレートを光らせたタクシーや、がらがらのバスが、断続的に走っていく。みんなどこに行ってしまったんだろう。朝はあんなにたくさんいた人たちは。
 照明を切り替えたように空は薄暗くなって、あたり一面に橙色の薄い膜をおろしている。毛玉の付いたセーターに、エプロンをつけた主婦が歩いていく。右手に下げた買い物袋からは半分ネギがはみ出している。
 もしかしたらあの人は、主婦のステレオタイプを演じているだけで、本当は主婦ではないのかもしれない。買い物袋から何かがごとり、と地面に落ちた。気付かずに歩き去ってしまう彼女を、呼び止めようと一歩踏み出す。足元には、人形が落ちている。色あせた赤いワンピースに白いリボンのベルトをした、金髪の人形。ゆるくウェーブがかかった髪が、腰まで伸びている。白いまぶたと、ぽってりと赤い唇は、固く閉じられている。腰を屈めて拾い上げたとたん、かこん、と突然目が開いた。金髪に映える蒼い目だった。真っ赤な唇が、かくかくと動く。何か喋っているのかもしれないけれど、聞き取れない。耳に近付けようとすると、手から滑り落ちてしまった。背中から仰向けに地面に着地したあと、金髪が遅れてばらばらと顔に落ちる。立ち上がってうるさそうに頭を振って髪を払いのけ、指ですいて整える。少ししか開かない足で、動きづらそうに走っていく。信号待ちをしていた主婦のところまで辿りつき、右手に下げた買い物袋によじ登って入り込む。
 信号が青になると同時に、一時停止してした人びとはいっせいに動き出した。歩き出した主婦の、左肩からかけた鞄には、木でできた人形のストラップがついている。自転車に乗った、セーラー服の少女のあとについて、わたしも信号を渡る。歩道を左に走っていくのをなんとなく見送って、公園の遊歩道に足を踏み入れた。花も、木も、石畳の道も、道と花壇を隔てている柵も、雨に濡れてきらきらと光っている。ひとつひとつの粒に、小さな橙の空が映っている。木の葉についているそのひとつの橙を、覗き込んだ。そこにはもうひとつの小さな公園があって、遊歩道では、犬をつれた小さな女の子が歩いている。わたしの後ろには、誰もいないのに。女の子は、犬の散歩をしているというより、ほとんど犬に引きずられているように見える。転びそうになりながら、彼女は楽しそうに笑っている。背の高い男の人が、ゆっくりあとについて歩いていく。





 その男の子は、自分と同い年くらいに見えた。
 道にしゃがみこんで、小さな水溜まりを覗き込んでいる。膝小僧に置いた手は、泥で汚れている。スカートの裾が、地面にべったりついてしまっているのを、気にした風もなく一心に水溜まりを見つめる。男の子と家族は、どうやらバーベキューをしているようだ。大人たちが肉を焼いている横で、男の子はぴょんぴょん跳ね回っている。大きな毛の多い犬が、男の子のあとをついて、駆け回る。大人たちは、何か話しながら、ときどき男の子と犬に目を向ける。
 新しいしずくが落ちて、水溜まりを揺らした。波紋が広がって風景を覆い尽くす。ぱっと立ち上がって、駆け出した。赤いスカートの裾は、雨を吸って濡れてしまっている。地面の段差に蹴躓きそうになりながら、わたしが走っていく。 


 あのなかにひとがすんでるわけじゃなくて、


 花も、道も、雨で濡れそぼっている。手にも足にも、さやさやと雨が降りかかる。また新しい水溜まりを見つけて、しゃがみこんだ。スカートが泥を吸い込んで冷たい。汚れた手で握り締めたので、前も汚れてしまった。水溜まりの中では、女の子と男の人が、手をつないで歩いている。
 しずくが落ちて、水面を滑る波が、二人をはしから塗りつぶしていく。わたしはまた立ち上がって新しい水溜まりを探す。 


 あれはまどだからむこうがわがみえるんだよ


 何の気なしに手を伸ばして、水滴に触れた。水滴は、葉の傾斜にしたがって葉脈を滑って、先端まで辿りつくと、そこから地面に向かって垂れ落ちた。指先から、無数の小さい虫が這い上ってくるような気がして、手を振り払う。葉からは、水が落ち続けている。葉を滑るしずくは、葉の先端で一瞬だけ止まり、小さな玉になって落下する。落ちるごと、空の橙と、遊歩道が、その中に閉じ込められていく。足元の小さな水溜まりは、次第に筋になって流れ始めた。細い筋は、水が落ちるにつれてどんどん太くなり、やがて川になる。晴れて風のない日の、凪いだ川。空の青を映した水面が、さわさわとかすかに波立つ。川の流れに沿って歩いていく。歩くうちに水の色は少しずつ濃くなり、橙を映し始める。水面が陽を浴びて、きらきらと輝いた。水嵩はどんどん増え続け、増えるにつれて、橙から紺に移り変わっていく。歩くわたしを追い抜いて、小さな船がひとつ滑っていった。竹の枠組みに、和紙を貼った船には、ろうそくが一本だけ乗っている。その一本のろうそくで、いっぱいになってしまうくらいの、小さな船。水面を滑る船は、歩くごとに増えて川を埋め尽くす。後を追って歩くわたしを、次々に追い越して、無数の船が粛々と流れていく。川面はいつしか黒に変わっている。水嵩はどこまでも増えていって、とうとう船は全部、その中に飲み込まれてしまった。黒い水はそれでもまだ増えて、歩いているわたしも、気づけば飲み込まれている。一面の黒の中に、わたしが立っている。手も足も見えないので、もしかしたら立っていないかもしれない。船の灯は、もうずっと遠くにいってしまった。灯の群れが、点々とまたたいているのが、かすかに見える。灯はぽつぽつと少しずつ増え、みるみるうちに広がって、そこら中を埋め尽くした。黒の中のずっと遠く、何億光年かもっと遠いところで、たくさんの光が輝いている。その真ん中に、わたしだけのわたしが立ち尽くす。やっぱり手も足も見えないので、やっぱりここにはいないのかもしれない。かすかに風が吹いたような気がした。灯がいっせいにまばたきをするように、ひとつまたたいた。風を感じるわたしは、無数の星が灯る中に、ひとりで立っている。





 スポーツウェアを着た若い女の人が、歩くわたしを追い抜いてジョギングで駆けていく。イヤホンをつけた耳の脇から、汗のしずくが転がり落ちる。老夫婦が、向かいからゆっくりと歩いてくる。片一方は杖をついている。公園のグラウンドでは、たくさんの子どもたちが遊んでいて、笑い声や甲高い叫び声が遊歩道まで響いた。遊歩道を抜けると、大きなスーパーの裏手に出る。左に曲がって、表通りの方に歩く。スーパーの横に取り付けられている、大きなロッカーからは、中年の男の人が、ずるずると何かを引きずり出している。それはホースか、もしくは何かの内臓のようにも見える。中学生らしい、制服の少女たちと擦れ違った。きゃあきゃあと笑い声をまき散らしながら、公園の方に歩いていく。空はもうほとんど赤に近いような橙に染まっている。
 表通りを行き交う車の音が、耳に届く。ずり落ちてきた鞄の紐を、肩にかけ直した。公園の並木と、スーパーのビルで、細長く切り取られた表通りでは、車やバスやタクシーが、ひっきりなしに車道を走っていくのが見える。スーパーの横では、男の人がまだ、ロッカーから何かを引きずり出し続けている。
 



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