立体交差




 
 
静寂に音があるのと同じように、喧騒の中にも静寂がある。
 ばらばらと無節操にふりそそぐ言葉のつぶてに対して、私は傘を広げる。というよりも、こいつは私の意思とはかかわりなく勝手に広げられる、そういう設計になっている。傘のふちからまっすぐ地面に向かって下ろした線でできる、傘の直径分の円柱の内側、そこにだけ静寂は生まれる。人とは共有できない、一人分のせまさの円柱の中にだけ。押し寄せる言葉のつぶては傘の上をすべって円柱の外側にざらざらと落ちていく。傘の中から雨天を見上げる、寄る辺ないこどものように、私はただそれを眺めている。
 L字になったカウンターのちょうど曲がり角のところ、この店のだいたい中心。周りのテーブル席は若い人たちの集団がほとんどを占めている。こういうところでテーブル席に座って話をする人たちは、だいたい若い。年齢的にか、精神的にか、一時のテンションか、いずれにしても。身を乗り出して、叫ぶようにしてでも伝える熱意がないと、できない話をしている。
 そういう風にするのでない話をするときは、カウンター席のほうがいい。カウンター席に並んで座ると、傘の直径分の円柱が少しだけ重なる。重なった分だけ、そこは一人分の静寂ではなく、二人分の静寂になる。
 最初に出てきたきり、いまだにもてあましているお通しの塩キャベツを箸の先でつつく。キャベツは嫌いではない、嫌いではないのだけれど、こういうざく切りのキャベツを食べるとどうしても口の端の化粧が落ちる、私はいつもそれを気にしてしまう。誰も見る人がいないにしても。箸で小さく千切れないかという些細な試みは、硬い芯にはばまれて挫折したので、代わりに揚げ餃子を口に突っ込んだ。温かいものを食べると、食堂から胃まで温かさで満ちる。滑り落ちていく、というよりも、そのままそこにとどまって、全部が温かくなる。つながっている。そういう感じ。洋酒を飲むときと同じだ。洋酒は、温かい、というより、熱い、ので、つながっているなんて悠長なことを言っていられないのだけれど。胃の中に熱のかたまりが確かに質量を持って存在していて、ファンタジーに出てくる火を噴くドラゴンの気持ちも今なら理解できそうな気がする。
「何、それ、何飲んでるの、すげえ甘そう」
 広げている傘の中、静寂の中に、その声は無遠慮に割り込んできた。同時に煙草のにおいと煙が侵入してくる。この傘はもともとにおいに対する耐性は弱い。雨はシャットダウンできても、雨のにおいはシャットダウンできない。同じことだ。隣に座って灰皿に煙草を叩きつけている彼を半眼で見上げた。
「いつ来たんですか」
「いやだなあ、さっきからずっといたよ」
 ふふん、と笑いながら、たぶん辛いたぐいのお酒が入っているであろうグラスを傾ける斎木さんは、まったくいけすかない。そんなのは今に始まったことではないにしても。食べ終わったものと、まだ食べ物が乗っているものと、いくつも皿が積み上げられた私の前と比べて、斎木さんの前にはグラスしかない。グラスと灰皿。煙草を吸う人は基本的にあまりものを食べない。それも、斎木さんを見ていて学んだことだ。
「何、これ、飲む?」
 視線の意味をどう捉えたのか、斎木さんが手に持ったグラスを差し出してくる。それ、わかってて言ってるでしょう。さあ、何のことかな、そうすっとぼける斎木さんにはかまわず、ナスの串揚げを二度づけ厳禁! と注意書きが貼ってあるソースの中に突っ込む。ざく、と口の中で音を立てて衣を噛み砕くと、ナスが想定より柔らかかったせいで、まるで中身がないように一瞬思えた。味、とか食感、とかいうよりも、ただ温度のかたまりがのどの奥に落ちていく。つけすぎたソースが鼻に刺さるので思わず顔をしかめた。斎木さんは二度づけ厳禁って言われるとさ、思わずつけすぎちゃうよね、と隣でわかったような口を叩いた。まったくいけすかない。
 無視を決め込んで、ご指摘のとおり甘ったるいグラスの中身を流し込んだ。お酒というものは、どれだけ甘くてもアルコール特有の苦さがあるので、そろそろ回らなくなってきた頭で、これでアルコールがなければ完璧なのに、と埒もないことをつい考える。広げていた傘は酔うと勝手にたたまれてしまう、勝手に広がったくせに、欠陥の多い機能なのだ。代わりに耳の中にごうごうと音を立てて川が流れてくるので、周りの話し声はその川のむこう、どこか遠いところから聞こえてくる。遠くから聞こえるくせに、傘をさしていたときよりも聞こえてくるひとつひとつはクリアだ。斎木さんの声だけが相変わらず川よりも手前側から聞こえてくる。どうせろくでもないことをしゃべっているのに違いないので、頭にはとどめず右から左に聞き流してやった。
 冷めかけたすいとんをつつく。無計画に注文した水分と固形物で胃の許容量はほとんど限界に近付いているけれど、頼んだものを残すのは性に合わないのでしかたなく口に放り込んだ。しかも、ここにいたって炭水化物なんて、自分の浅慮を呪う。小麦粉が好きなので仕方ないのだ。すいとんは、味がないなあ、と思っていると、忘れたころにふっと喉の奥から立ち上ってくるような味をしている。だから、お酒で流し込んだりはしない。それが立ち上ってくるまで、何も口に入れずに、ただじっとおとなしく待っている。
「まあ、これはこれでさ、楽しいよ」
 何の話だか、斎木さんはそう言って、がらがらと氷を鳴らしながらグラスの中身を飲み干した。私と話していることがか、今の状況がか、それとももっと違うことを言っているのか、脈絡がわからないので返事はしない。そうなのか、と思うだけだ。斎木さんはもとより私の返事など求めていなかったようにふふん、と笑うので、やっぱりいけすかない。
 ちょうど全部の皿をなんとか空にし終わって積み上げたころに、店名の入ったエプロンをかけた女の人が寄ってきて、そろそろ、お時間が、と言う。そういえば、最初に入ったとき、最大二時間だと言われたような、と思い出した。テーブルの上、一段高くなったところに置かれている伝票を手にとって、ついでに一応隣をみやる。そこには誰もいなくて、煙草のにおいと煙だけがかすかに残っているので、私はため息と苦笑をこぼして、ひとり立ち上がる。まったく、あの人は、いけすかない。
 


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