君を忘れる


 

 桜の話をしよう。
 僕と彼女が初めて出会ったとき、彼女は桜を描いていた。だから、僕と彼女の話も桜の話から始めるのがいいだろう。桜の話。桜の下で眠っているものの話。
 桜の木の下に埋まっているのは死体じゃないのよ、というのが彼女の持論だった。その頃の僕と彼女は花の話をよくしていた。彼女がとりわけ好きだったのは桜と彼岸花の話だ。
「彼岸花って、真っ赤で不気味に見えるし、お墓なんかに咲いているから彼岸、なんて名前を付けられちゃったけど、彼岸に咲いている花じゃないと思うの」
 その話をしたとき、僕と彼女はまだ知り合って間もなかった。舞台はどこにでもあるような小さな公園。ブランコを揺らす彼女を僕が見守っている。彼女の赤いマフラーがブランコの動きに合わせて揺れている。歩くうちに片寄ってしまったマフラーは右側だけが妙に長い。その端が舞い上がって鎖に絡まりそうになる。慌てて駆け寄りかけて、やめる。彼女はマフラーを揺らしてブランコを漕ぎ続ける。
「彼岸花が咲いているのは此岸。彼岸に咲いているのは、どちらかというと桜の方」
「さくら? 」
「彼岸花は赤いでしょう。赤は血の色、いきているいろ。白は骨の色、しんでいるいろ。だからこちらがわに咲いているのが彼岸花で、あちらがわに咲いているのが桜」
 彼女の頬が赤く染まっている。僕は小学校の学芸会で作ったセロハンの照明を思い出している。赤いセロハンを貼った照明。遠くから子供の泣く声が聴こえる。母親が我が子を呼ぶ声。ひろくーん、帰るわよー。
 ブランコはもう木の影にすっぽり包まれている。彼女はブランコから飛び降りて、今度はジャングルジムを登り始めた。
「だって、夜桜なんて見てると、連れていかれそうじゃない。桜の木で首を吊る人が増えないのって不思議」
 てっぺんに腰を下ろして、マフラーをほどき始める。何をしているんだい?それには答えずに、彼女はジャングルジムにマフラーを巻き付ける。
「確かに、桜の木の下には死体が埋まっているってよく言うしね」
 思い出したように僕が言う。彼女は首をかしげて、違うよ、と答える。
「桜の木の下に埋まっているのは、死体じゃない」
「じゃあ、何が?」
「記憶」
「きおく?」
 そう、記憶。





 思い出せないことは色々ある。
 小さい頃飼っていた犬の名前。近所の公園の滑り台の色。好きだった俳優の顔。
 生きるように、忘れていくこと。
 左手からずり落ちかけていたコートを抱え直す。まだ少し風は冷たいけれど、歩いていれば気にならない。のろのろ歩いている僕を自転車が追い抜いていった。犬を連れた人が向かいから歩いてきて、会釈をするので、僕も会釈を返した。犬が足元に伸びた僕の影を踏んで通り過ぎる。
 桜並木の下を歩いている。
 蕾はまだ膨らみ始めたばかりだ。それでももう春の気配を感じているのか、道行く人たちの表情は明るい。公園の方からもざわめきが聞こえてくる。ランニングをする人。犬の散歩をする人。手を繋いだ親子連れ。たくさんの人が僕のそばを通り過ぎていく。
 僕はたった一人で、まだ花の咲かない桜の下をゆっくりと歩いていく。




 星の話をしよう。
 幼い頃、僕は空には天井があると信じていた。家みたいに天井があって、クリスマスツリーの飾り付けに使うような星を吊るしたり、貼り付けたりして夜空を作っているのだと思い込んでいた。彼女はこの話を聞くのが好きだった。
「ずいぶん高い天井」
 何度聞いても飽きもせずに彼女はそう言って笑う。それに、吊るしたり、貼り付けたりって、一体誰がそんな大仕事したのかしら。じゃあ君はどうだったの?と訊くと、わたしはあれは穴があいているんだと思ってたの、と答えた。夜っていうのは本当は昼に真黒の布か何かをかぶせて隠しているだけで、でもその布がぼろぼろだから、穴があいて昼間がその隙間から見えてるんだと思ってた。ずいぶん詩的な子供だね。だって、本を読むのが好きだったから。
 今では僕たちは、あれは遥か彼方の恒星の光が、気の遠くなるような時間をかけて僕たちの目に届いたものだと知っている。何億光年もかけて届いた、過去の光。もしかしたら今はもう存在しないかもしれない、遠い遠い恒星の光。
「きっと、本当は人と人の間にもそれくらい距離があるのよ」
 あの日、僕たちは小さな喫茶店にいた。入口から一番遠い隅の席に座って僕らは話をしていた。もう真冬で、外で話すには少し寒過ぎたのだ。やってきた女の人にカフェオレを頼む。お一つでよろしいですか?と訊かれたので彼女の方を見ると頷いたので、二つで、と言う。ウェイトレスは一瞬何か言いたげな顔をして、でも結局何も言わずにかしこまりました、と去って行った。
「人と人の間にも何億光年くらいの距離があって、その長い長い距離を越えるうちに、伝えたいことはどんどん変化していってしまう。だから、わかりあえない」
「でも、そんなに距離があったら、同じ時間に一緒に存在することは出来ないよ」
「同じ時間に存在してるかどうかなんてわからないじゃない。あなたにとってわたしはもう過去の人なのかもしれないし、わたしにとってあなたはもういない人なのかもしれないよ」
 ウェイトレスが中途半端な位置に置き去りにして行ったカフェオレを彼女の方に押しやりながら、でも、と反論を試みる。
「それだと計算が合わないよ。それに、全くわかりあえないってわけでもない」
「全くわかりあえないなんて言ってないでしょう。でも、完全にわかりあうなんて絶対に無理。人間という生き物が元々わかりあえない生き物だと思うよりも、距離が遠すぎるから、っていう方が救いがあると思わない? 」
「すくい」
 僕は遠い遠い過去の光に思いを馳せる。彼らは何のために、何億光年もの距離を越えて地球まで届くのだろうか。彼らの伝えたいこと。僕らの伝えたいこと。
 どうしたら、この遠い距離を越えて、正しく伝えられるだろう。




 桜並木の終わるところから左に曲がってしばらく行くと、僕の家がある。昔住んでいた家。赤い屋根の、その当時にしては洒落たデザインの家には小さいけれど庭もついている。僕が生れた年に父が植えた椿の花はもうほとんど落ちてしまっていた。その濃い緑が目に眩しい。庭を眺めながらぼんやりと突っ立っていると、不意に扉が中から開いた。顔を出した母親が、さして驚いた風でもなくあら、と言う。
「もう着いてたの? そんなところに突っ立ってないで早く入ればいいじゃない。わたしはこれから買い物だから、留守番よろしくね」
 僕は苦笑して母から鍵を受け取る。久しぶりに帰ってきた息子にほとんど興味を示さずに母はさっさと歩いて行ってしまった。昔から僕の周りの女性はマイペースな人ばかりのような気がする。
 玄関を入ると、懐かしい匂いがした。家族の匂い。一家団欒の匂い。シャンプーの匂いとか、父親の使う整髪料の匂いとか、昨日のてんぷらの油の匂いとか、そういうものが混ざり合った独特で猥雑な匂い。
 どの家庭にもその家庭に独特の匂いがあって、友達の家に遊びに行ったりするとそれがよくわかる。みんながそういう「自分の家の匂い」を背負ったまま生きているから、学校とか、駅とか、人が大勢集まるところにいると妙に息苦しくなったりする。他人の家の匂いはすぐわかるけれど、自分の家の匂いはその家で生活しているうちはわからない。離れてみて初めて、その匂いが感じられる。
 この話の教訓は、失って初めて気付くものがこの世にはたくさんあるということ。ありきたりな教訓だ。
 昔自分の部屋だったところに荷物を置きに行く。家の中は僕が暮らしていた頃とほとんど変わっていない。変わったことといえば、廊下の電球が蛍光灯になったことと、テレビが新しくなったことと、家全体が妙に広々として肌寒く感じられることくらいだ。日が当たっていない分外よりもここの方が少し余計に寒い。コートを着ようとして、家の中でコートを着るのも妙だ、と思い直す。父親のタンスからセーターを引っ張り出して借りることにした。
 僕の部屋からは庭の椿がよく見える。また一つ、赤い花がぽたり、と地面に落ちた。





 記憶の話をしよう。
 僕と彼女は桜の木の下に座っている。舞い散る白い花びらが彼女の長い髪に落ちる。僕は手を伸ばして花びらを取ってやる。そこここの木の下でレジャーシートを広げて人々が寛いでいる。元気よくはしゃぎまわっていた子供が転んで、大声で泣き出した。母親が慌てて駆け寄ってくる。どうしたの?もう、そんなに泣かないの、男の子でしょう。まだ日が高いのに、スーツを着た若い人がちらほら見える。場所取りを任されたんだろうか。花見にも、宴会にも、ぴったりの季節だ。
「こうやって、みんなが桜の木の下に集まるでしょう。家族や、恋人や、会社の同僚や、友人や。そういう人々が、こうして桜の木の下で話したり、お酒を飲んだり、泣いたり、笑ったりする。その記憶が、桜の木の下には埋まっている」
 僕らはシートも敷かずに地面に直接座り込んでいる。母親になだめられて、男の子はようやく泣き止んだ。手を引かれて大人しく歩いていく。頭上は一面の白。隙間からかすかに空の青が差し込んでくる。風が吹くたびに、花びらが落ちた。
「桜の下に埋まっているのは死体じゃなくて、記憶なの。死体みたいなどろどろしたものじゃなくて、みんながここに残していった残りかすみたいなもの。だから、桜は生々しくない。みんなが捨てたもので出来ているから、あちらがわと繋がっている」
 あちらがわ。
 「そう、彼岸。桜は彼岸で招く花。自分が捨ててきた半分を持っているから、ついついそちらに曳かれてしまうの」
 桜がピンク色だと最初に言ったのは誰だろう。こうして見るとピンクよりも白にずっと近い。白い花びらが、視界を埋めて、ひらひら落ちていく。雪が降っているみたいだ。降り籠められていくよう。僕は山の中の小さな村を思い描く。雪が積もれば外界と完全に遮断されてしまうような、不便で小さな村。そこに、僕と彼女が二人きりで暮らしている。雪がどんどん僕らを世界から切り離していく。





 彼女がいなくなってもうずいぶん経つ。
 買い物から帰ってきた母が夕食を作り始めたので、手伝った。今日の夜ご飯は鍋よ。そう言いながら母は大量の白菜を刻んでいる。ちょっと、それ、多すぎるんじゃない? と訊くと首を傾げてそうかしら? と返してきた。久しぶりに二人分以上の料理をするから、よく分からなくって。余ったらあなたとお父さんで全部食べて頂戴ね。
 母がリズミカルに野菜やら肉やらを切っていく横で、僕は戸棚の奥深くにしまいこまれた卓上コンロを引っ張り出すのに悪戦苦闘していた。もう長いこと使っていないらしいコンロの上にはお皿とか、カップラーメンとか、さまざまなものが積み上げられていて、コンロだけ取り出そうにもなかなか上手くいかない。仕方ないので無計画に上乗せされたものを先に取り出す。ごめんねえ、それ最近使ってないのよ、二人だと鍋なんて面倒くさくて。母が能天気に言う。
「ただいま」
 ようやくコンロをセットし終えて、鍋に火をつけたところでタイミングよく父が帰って来た。僕に目を止めて、珍しいものでも見るような顔をする。おかえり、と言うと父もおかえり、と返してきた。
 三人で食卓を囲んだ。正方形のテーブルの一辺に父、その向かいに母、父の右隣が僕。小さめのテーブルはコンロと具材と三人分の食器でいっぱいになっている。父の眼鏡が湯気で白くくもる。仕事はどうなんだ? ちゃんとご飯食べてるんでしょうね? 両親は饒舌だ。僕もその質問にきちんと答える。両親は満足したように頷く。また夏休みをもらったら帰ってきなさいよ。うん、僕は笑って見せた。
 母が切り過ぎた白菜を食べながら、僕は「人と人の間にも何億光年もの距離があるのよ」と言った彼女の声を思い出している。





 僕と彼女の話をしよう。
 僕と彼女が初めて出会ったとき、彼女は桜を描いていた。
 足元を埋める落ち葉を踏んで歩いている。駅から家までは桜並木を通って行くのが近道なのだけれど、どうにも桜というやつは夏は夏で毛虫が落ちてくるし、秋は秋で落ち葉が大量に降ってくる。桜が美しいのは春だけだ。少しうんざりした気分になりながら、落ち葉を踏み分けて僕は歩く。足の下で落ち葉が潰れる音が意外に大きく響く。ざくざく、ざくざく。道には僕の他には猫の子一匹見えない。
 ふと視界の隅に黒っぽい塊を見つけて、ぎょっとする。それがうずくまる人影だということに気づいて、いっそうぎょっとした。慌てて駆け寄って、大丈夫ですか、と声をかける。人影が大儀そうに、ゆっくりと顔をあげた。僕はもう一度、大丈夫ですか、と尋ねる。その女の人は、ぼんやり首を傾げて、別に大丈夫ですけれど、と答える。
 そのときようやく、僕は彼女の膝の上にスケッチブックが置かれていることに気付いた。
 自分の勘違いに気付いて赤面する。同時に、スケッチブックに描かれている絵を見て違和感を覚えた。スケッチブックの上には美しい満開の桜が描かれている。春の桜、いちばん美しいときの桜だ。けれど、今は10月。桜の花が咲いているはずもない。彼女の視線の先にある木も、すっかり葉が茶色くなって、花びらの代わりに落ち葉を振り落としている。
 念のため断わっておくけれど、僕は別段おせっかいな性格ではないし、嫌味のつもりで訊いたわけでももちろんない。ただ、気温と時間帯に見合わない薄着の彼女が、あまりにも頼りなさそうだったから、思わず口を出してしまっただけだ。
「なんでこんなところで満開の桜なんて描いているんです? もう寒いし、スケッチでないなら部屋の中で描いた方がいいですよ」
 彼女は何を訊かれているのかわからない、という顔をして僕を見た。
「なんでって、桜が咲いているから、描いてるのよ。見えないの? 」
 あのときは気味悪く思ったし、おかしな人だと思った。けれど、今の僕はあのときの彼女の言葉を信じている。彼女が咲いているというなら、きっと本当に桜は咲いていたのだ。





 思い出せないことはいろいろある。
 庭に咲いていたさるすべりの色。幼いころ聴いた歌。隣の家の女の人の香水の匂い。
 忘れるように、生きていくこと。
 桜並木の下を歩いている。道には僕の他には猫の子一匹見えない。時間はもう真夜中。きっと両親ももう眠っているだろう。真っ暗な道を、点々と灯る街灯の明かりを辿って歩いていく。
 その桜は、ぽつんと街灯の明かりの中に浮かび上がっていた。
 白い花びらが明かりを吸いこんでぼんやりと輝く。風が吹くたび、雪のような花弁が舞い落ちる。春の桜。いちばん美しいときの、満開の桜。
 さわさわと枝を揺らして風が吹き抜ける。ざぁっ、と音を立てて花びらが舞い散る。その音に混じって、微かにこえが聞こえた。
「ほうら、ゆうくん、綺麗だよ」
「お父さん早く、こっちこっち」
「是非ビールでも飲みながら花見をしたいですね」
「ねぇ、明日は何時に待ち合わせ? 」
「もうすっかり春だねぇ」
 風に雑じって遠くからきらきらと笑い声が聴こえる。舞い落ちる花びらが僕の肩に降り積もる。僕は一人で、雪の中に降り籠められていく。
 桜の木の下には、記憶が埋まっているの。
 彼女の声を思い出す。彼岸に咲く花。彼岸で呼んでいる花。みんなが捨てていってしまったものを、抱きかかえながら咲く花。
 僕はまだ行かない。僕はここで生きている。でも、いつかあちらがわに渡るとき、そのときは僕の記憶も返してくれるだろうか。僕が捨ててきたもの、忘れてしまったものを見つけ出して、還してくれるだろうか。
 桜に背を向けて、来た道を帰る。あの角を曲がれば、すぐにうちが見える。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -