利き手が無い、というのは想像を遥かに超えて不便なものであった。 鬼殺隊に身を置いていれば周りに四肢のどれかを失い退役する者も少なくない。 義勇の同僚で音柱であった宇髄もまた、片手と片目を失い引退を余儀なくされていた。 だから決してその苦労を知らない義勇ではなかったものの、いざ自分の身に起こると戸惑いと失敗の連続で困惑する毎日だった。 腕一本、しかも利き手では無い方では着替えや食事すらままならず、少しずつ慣れるための訓練はしているものの看護士たちや見舞いに来てくれる仲間たちの補助を受けなければ何も出来ない。 そんな彼の元には数日前に無事退院したナマエが通ってきており、甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いていた。 義勇は家に帰ることが出来るようになるまで、あともう少しといった状態にまで回復している。 元より歴戦を潜ってきた柱であるからして、彼は他の隊士達より身体能力も回復能力も高いのだ。 暁に鳴く 参拾陸 今日も昼過ぎに訪れたナマエに付き添ってもらい、義勇は左手で箸を持つ練習をして過ごしていた。 なかなかに困難ではあるものの、蝶屋敷の少女達が丹精込めて作ってくれた食事を残さず食べるためにも彼は懸命に練習を続けた。 そうして日が暮れる頃にはすっかり疲れて、ナマエに身体を拭いてもらった後ベッドに横たわれば眠気が押し寄せてくる。 鬼と戦っていた頃には考えられないほど、彼の生活は規則的なものとなっていた。 「眠れそうですか?」 窓の外は既に暗く、まだ処遇が決まっておらず鴉の集会場で待っている若い鎹鴉たちなどは眠り始める時間だろう。 ナマエは義勇の胸まで布団をかけ、枕元に広がる黒髪をさらさらと指で漉いた。 「ああ、情けないことに」 そう言いつつも義勇の表情は柔らかだ。 今では夜に鬼が出ることも無くなり、以前よりずっと気軽に出歩くことができるようになった。 人間自体は何も変わらないので女の一人歩きには未だに危険が伴うものの、ナマエには三統彦という心強い相棒がいる。 なので彼女はいつもこうして、義勇が眠りにつくまで傍にいるようにしていた。 彼が無事に夢の中へと落ちていくのを見届ければ、あとはアオイ達の世話になることもほとんどないからだ。 まだ蝶屋敷には沢山の隊士たちが入院しているし、日中は治療に訪れる者も多い。 しのぶが居なくなってしまったので彼女の継子であるカナヲが治療を行っているが、不慣れな彼女には手紙を通じて愈史郎が助言を行っていた。 そんな状況なので人手は常に足らず、相変わらず慌ただしく動き回るアオイ達の手を少しでも空けるためにも、ナマエはこうして義勇の様子を見に来ていた。 勿論一番の理由は、彼が心配だったからなのだが。 「おやすみなさい、義勇さん」 「……ありがとう、ナマエ」 されるがまま髪を撫でられ、義勇は心地良さに目を閉じる。 心を許している相手だからこそだが、こうして少しは人の優しさに身を委ねられるようになったのも彼に起こった大きな変化だった。 普段の彼は、このまましばらくしているうちに眠ってしまう。 ここ最近ずっと体調は良かったし、蝶屋敷の中を歩き回って落ちてしまった体力を取り戻す訓練も行えている。だからナマエも当初ほど心配はしていなかったのだが、異変は唐突に訪れた。 「っ……!」 まさに眠りに落ちようという瞬間、義勇は悲痛に顔を歪め身体を強張らせる。 驚いたナマエは立ち上がり、彼の掛け布団を捲った。 「大丈夫ですか?どこか痛みますか!?」 「腕……腕が、……ッ」 「腕!?見せてください!」 ナマエは義勇の左腕に手を伸ばし、入院着の袖を捲り上げる。 点滴の管が外されてからもう何週間も経っているそこは、外見上どこも異常は無さそうに見えた。 とはいえ神経に異変があるのかもしれないとナマエがアオイたちを呼びに行こうとしたとき、呻き声を上げる義勇の左手が『あるはずのない物』を探し求めてシーツの中を彷徨い始めた。 「義勇さん!一体どうしました!?」 ナマエの呼びかけには答えず、彼は左腕で自らの身体を抱き締めながら背中を丸める。 痛みに耐え歯を食いしばる彼の額には汗が浮かんでいた。 ナマエはその時ようやく違和感の正体に気がつく。 義勇が痛むと訴えているのは、無くしたはずの右腕だということに。 「もしかして、これが幻肢痛……」 鴉と違い人体に対する医学の知識はほとんど無かったが、あらゆる鎹鴉たちからの情報が入ってくるナマエには覚えのある現象だった。 戦いの最中で手足を失った隊士が無いはずの部分に激しい痛みを訴えるという症状を、彼女は鴉たちから何度か聞いたことがあったのだ。 「義勇さんっ、右腕が痛むんですね!?」 まるで万力で押し潰されるかのような激痛に耐える義勇は、辛うじて首を上下に振ってみせる。 しかし腕が無い以上湿布を貼ることも温めることも出来ない。 塗り薬とて塗る場所が無い。 ナマエは動揺する心を落ち着けるため一度深く息を吸い込むと吐き出し、隊服のポケットに手を入れた。 そこに入っているのは、いつか使う日が来るかもしれないとずっと取っておいた物だ。 「すみません、失礼します!」 ナマエは右肩を押さえながら呼吸を荒くする義勇の背中に腕を差し込み、身体を僅かに持ち上げる。 痛みによってじっとしていられない彼を支えるのは容易ではなかったが、なんとか体重をかけて彼の頭を上げさせると半開きの口の中へ錠剤を入れた。 「万能の痛み止めです。すぐに溶けるから水は要らないと言ってたんですが……」 ナマエはそう言いながら再び義勇を横たえ、彼が指を食い込ませるほど強く握りしめる右肩に手を添える。 そして少しでも痛みを和らげようと、強く按摩してやった。 「ナマエ!義勇ハ大丈夫カノゥ……」 突然の出来事になす術もなく部屋の隅でおろおろとしていた寛三郎だったが、ベッドの柵へと飛び乗ってくると心配そうにナマエを見上げる。 義勇の肩を摩ってやりながら、ナマエは寛三郎に向けて力強く頷いた。 「大丈夫だよ寛三郎、義勇さんは強いもの。三統彦を呼んできてくれるかな、多分外の木の上で待ってるから」 「承知シタ」 寛三郎は二つ返事で部屋を出て、普段と比べ物にならない速さで飛んでいく。 ナマエは三統彦に頼んでアオイかカナヲを連れてきてもらうつもりだった。 寛三郎はその二人が分からないかもしれないが、三統彦のことなら間違えないし長年の相棒は多少の伝達違いがあっても汲んでくれると信じていたからだ。 三統彦を待ちながらも痛みに呻く義勇に声をかけ、按摩を続けるナマエ。 するとすぐに羽ばたく音が聞こえてきて、三統彦が病室に飛び込んできた。 「ナマエ!義勇ニ何カアッタッテ!?」 「そうなの、だからアオイさんかカナヲさんをここへ……」 「だい、じょうぶだ、ナマエ」 忙しなく動かしているナマエの手を、義勇の左手が包み込む。 彼は未だに痛みで顔を歪ませながらも、先ほどまでよりは呼吸も脈拍も落ち着いてきていた。 「薬が、効いてきてる」 「でも!」 「それより、これを続けてくれないか……」 義勇はナマエの手の甲を人差し指でトントンと突き、険しい表情のまま目を瞑る。 「楽になる気がするんだ。ああ……、だいぶ痛みが引いてきた」 ナマエが彼の顔を見れば、その眉根に深く刻まれた皺がようやく解けていく。 間も無く義勇の身体から強張りが取れて、肩の力が抜けていくのが分かった。 「完全に治るまで続けますね」 「すまない……」 薄らと目を開けた義勇を安心させるよう、ナマエは緩く首を横に振る。 それから彼の額に汗で張り付いた黒髪を避けてやると、そこに手を当て熱がさほど高くないことを確かめた。 「気にしないでください。こういう時のためにもここへ来てますから」 そう言って励ましてくれるナマエに、義勇は弱々しいものの微笑みを返す。 見守っていた三統彦と寛三郎は顔を見合わせ、安堵の溜め息をついた。 「ありがとう。もう大丈夫だ」 ナマエの手に自分の物を重ね、義勇は彼女の動きを止める。 勿論激痛のせいではあるが、幻肢痛という初めての経験に狼狽した彼もようやく落ち着きを取り戻していた。 「良かった……でも無理はなさらないで」 義勇の身体に布団を掛け直し、ナマエは重ねられた手をそっと握りしめる。 それから反対の手で、いつもするように彼の黒髪へと手を伸ばした。 「あの薬は何だ?驚くほど早く痛みが無くなった」 義勇の問いにナマエは一度手を止めたが、すぐに乱れた毛束を漉き始めた。 「あれは珠世さんが作った薬だそうです」 「珠世?もしや鬼の?」 「そうです。無惨と戦っている時に、愈史郎くんから貰ったんですよ」 時間は経っているものの、その後愈史郎に会った際に聞けば使用期限は無いらしい。 愈史郎曰く、『珠世様の作った薬は永遠に劣化などしない!』ということだった。 ナマエは初めこそ半信半疑だったが、それでも愈史郎が珠世の誇りに関わる部分で嘘をつくことはないと分かっていたので素直に信じることにした。 「愈史郎……珠世が鬼にしたという少年だな。あの時は助けられた」 「はい。医学に詳しいので、今でも時々蝶屋敷に足を運んでくれていますよ」 「……そうか」 義勇は無惨との最後の戦いのことを思い返す。長い夜の間にナマエと共闘したこともあったが、それはあくまで偶然の出来事だ。 もしかしあのままどちらかが命を落としていれば、知らない間に二度と会えないということになっていただろう。 義勇はそれを覚悟はしていたはずなのに、いざ有り得たかもしれない結末を想像してしまうと臓腑の底が重苦しくなった。 ナマエの手を堅く握り、彼はぼそりと呟く。 「あの時、一緒にいてやれずすまなかった」 ナマエの身に起こった事は義勇も既に聞き及んでいたが、彼女が上弦の鬼と対峙しなかったことは不幸中の幸いだった。 しかし格下の隊士たちや愈史郎を守りながら鎹鴉たちへの指示もしていたと知り、義勇はナマエの心労を思って申し訳ない気持ちで一杯になる。 だがナマエは義勇の手を両手で包み込むと、眉根を下げて笑いかけた。 自分の方が大変な思いをしたはずの義勇が気遣ってくれることに呆れつつ、気を掛けてくれることは素直に嬉しかった。 「良いんです。あの時義勇さんが炭治郎君の側に居なかったらどうなっていたことやら……」 上弦の参との戦いや、その後の無惨との邂逅。 地上に出てからも義勇の助けがなければ炭治郎は最後まで戦い抜けなかったかもしれなかった。 「俺が鬼殺の道に引き摺り込んだようなものだからな」 「では義勇さんのお陰でみんなが助かったのかもしれませんね」 竈門炭治郎と禰󠄀豆子、そのどちらかでも欠けていれば無惨を倒すことが出来なかっただろうというのは鬼殺隊の誰もが感じている事だ。 「私はこの通り平気ですし、それに実際義勇さんに助けていただきました。大切な髪留めも拾っていただきましたし」 それは今日もナマエの髪を彩っていた。 義勇は彼女が顔を見せる度、自分が送った髪留めをつけてきていることにひそかな満足感を覚えている。 そして彼はそんな些細な事柄にすら、自身の変化を感じて内心驚いていた。 しかしそれも互いの命あってのこと。 もしもあの戦いの中で彼女を失ってしまえば、そんな密やかな幸福感も二度と得られなかったはずだ。 義勇はナマエの手を引いて、彼女の背に左腕を回す。 椅子から腰を浮かせて義勇の前に屈んだナマエは、されるがまま彼に抱き締められた。 「義勇さん?」 突然の抱擁に、ナマエが彼の名を呼ぶ。 しかし義勇は答えずに、代わりにナマエの肩口に顔を埋めた。 このぬくもりを失いたくない。彼女がいない人生など考えられない。 そう切に思いつつ、今は疼きが収まっている「無いはずのもの」が彼の頭をよぎる。 それだけではなく実はもう一つ、彼の身から消えたものがあった。 それは、今ナマエの髪が触れていて外からは見えない部分。 最後の戦いで、義勇に無惨へ立ち向かう力を与えてくれたものだ。 (俺は良い。だがナマエは……) 平和になった世で、これから自分は彼女を失うことなく生きて、そして死んでいくことができるだろう。 しかし彼に残された時間は僅かなので、自己満足のためナマエに辛い思いを強いてしまうことが本当に彼女の為になるのかと義勇は自問自答し続けていた。 痣は彼の頬から消えて無くなったが、寿命の前借りをしたという事実までは消え去ってくれないだろう。 だからこそ義勇は、今度こそお前を一番にしてやりたいというたった一言が、簡単には言えなかった。 一番にしてやりたいのに、またしても大事な時に側にいてやれないのではないか。 ナマエにとってはこの先長い人生になるだろうが、その中で自分が死んだ後彼女が困難に遭っても一人で耐えなければならなくなってしまわないのか。 そう考えてしまうと、自分の「心の赴くままに生きる」ことは結果的にナマエに辛い思いをさせてしまうのではないかという結論に行きあたってしまう。 そんな思考の迷宮から抜け出せない義勇は、それなのに彼女を手放すことも決断できず日々時の流れに身を委ねてしまっていた。 (すまない、ナマエ。俺が未熟なばかりに……) 残りの人生を彼女のために捧げる覚悟はある。だが抗えない定めを前にしてしまうと、その覚悟すら揺らいでしまうのだった。 決してナマエを愛していないわけではない。むしろその逆だからこそ、彼は簡単に答えを出せずにいる。 黙り込んでしまった義勇を気遣い、ナマエは彼の後頭部に手を這わすとゆっくりと上下させる。 彼女は義勇が何か悩んでいることには気がついていて、しかし彼が話してくれるまでは無理に聞き出さないよう決めていた。 義勇が口下手な事はよく知っていたが、今の彼が前とは違うことも分かっている。 だからこそナマエは根気強く待つことにしていた。 恐らく、彼の中でもまだ答えが定まっていないからこそ話せないのだろうと分かっていたからだ。 本当は、これからはずっと側にいさせてほしいと言いたかった。 しかしナマエはそれを簡単に口にすることが出来ず、義勇に退院の兆しすら見えてきたのにまだ先の話を切り出せずにいる。 彼が望むのであれば屋敷に帰った後も手助けを惜しまないつもりだが、義勇が何を悩んでいるかによってはそれも叶わないだろうと考えていた。 悩みを話してもらえないということは辛い事だ。 それでもナマエは彼を見守り、どんな結論が出されようとも彼の為に生きるという覚悟を決めていた。 何故ならそれは、心の底から彼を愛しているからに他ならない。 「そろそろ、お休みになってください」 最近の義勇が眠りにつくよりも随分遅い時間となっていることに気づき、ナマエは無言のままの彼をベッドに横たえた。 「また明日も来ますからね」 「……ああ」 義勇は心地良い声と髪を漉かれる感覚に身を委ね、重い目蓋をゆっくりと下ろす。 悩みは深まる一方だが、鎮痛剤の副作用なのかすぐに意識は暗闇へと溶けていった。 規則正しい寝息が聞こえるようになり、ナマエはほっと胸を撫で下ろす。 だがまだ薬が効いているだけなのか今夜のところは幻肢痛が治ったのか分からず、義勇のあどけない寝顔を見守りながらこれからのことを思案していた。 すると、寛三郎と共に部屋の片隅で待機していた三統彦が膝に乗ってくる。 寛三郎は、いつの間にか眠ってしまっていた。 「オマエモ帰ッテ寝ロ」 「でも、もしかしたらまた……」 「ソシタラ俺ガアオイ達ニ知ラセル。ナマエニモナ」 自分の飛ぶ速さを知っているだろうと胸を張り、三統彦は疲労の浮かぶナマエの顔を見上げる。 「義勇ガ退院スルマデニ共倒レスルゾ?ンナ顔ジャコイツモ心配スルダロウヨ」 「うん……そうだね。ごめん、三統彦」 義勇の髪から手を引いたナマエに、ふんぞり返った三統彦が頭を突き出す。 今度はそこを撫でてやり、ナマエは頼りない自分に苦笑を漏らした。 「アリガトウダロ?任セロ、任務ノ報セガ無クナッテ暇シテンダ」 主人に撫でられ気を良くした三統彦は、得意げに鼻を鳴らすと翼を広げる。 黒い羽根は窓から差し込む月明かりに照らされ、艶やかに輝いた。 「ありがとう。義勇さんのこと、よろしくね」 「義勇モ身体ガ良クナリャ、モウ少シ前向キニナルサ」 「三統彦、気付いてたの?」 「俺ハナァ、オマエラヨリ大分前カラ色々気付イテ見テキテンダヨ!」 そう言うと三統彦はナマエの膝から義勇のベッドの柵へと飛び移り、主人に帰るよう促す。 愛する主人を見守り支えることは鎹鴉の矜持だと、彼は眠る義勇とナマエを見比べてから再びフンと鼻を鳴らした。 [back] |