「三統彦、一番上の段から薄荷を……」

そこまで言いかけて、ミョウジナマエは口を噤む。
何故ならいつも調薬の手伝いをしてくれる鎹鴉は今、とある柱に貸し出している最中だからだ。

「上手くやれてるといいんだけど。それに寛三郎の具合は良くなったのかな」

木漏れ日が差し込む窓の外に目をやる。
今ナマエに鬼殺の命令が下ったならば、決まった主人のいない鎹鴉を連れて行くつもりだった。

しかし薬の調合の手伝いは他の鴉にはなかなか頼みにくい。
付き合いが長く何がどこにあるのか大体の場所を把握している三統彦は別として、一から説明するくらいなら自分で動いたほうが早いからだ。

「三統彦なら大丈夫だよね。むしろ優秀な三統彦が水柱様に気に入られても引き抜かれる心配が無くて良かった」

柱ほどの立場にある人が具合の悪い鎹鴉を手ずから連れて訪ねてくるなど、ナマエにとって初めての経験だった。
それだけ鎹鴉を大事にしてくれる隊士が、鬼殺隊全体を通しても果たしてどれだけいるだろうか。
ましてや寛三郎は鎹鴉の中でも高齢で、最近では耳も遠くなりつつあると他の鴉から聞いていた。

訪ねてきた義勇の姿を思い出せばナマエの顔には自然と笑みが浮かぶ。
彼があんな風に柔らかな表情をするなんて思わなかったと、ナマエは遠い記憶に思いを馳せるのだった。

その時、窓から差し込む陽光が僅かに陰る。ナマエが外に目を遣るとバサバサという羽音と共に黒い羽根が散った。
窓辺に降り立った黒い影に「さっきまでお前の事を考えていたのよ」と言う暇も無く、細い足に括り付けられた紙を見つけたナマエは彼に駆け寄ったのだった。


暁に鳴く 弐


調子が狂うとはまさにこの事だ。
ここ最近で着々と癖になりつつある溜め息をひとつ溢し、義勇は鬼の血に塗れた日輪刀を一振りしてから鞘に収めた。
ややあって肩に止まった鎹鴉がカァとひと鳴きし、ここより西南西にもう一匹残っていると告げる。
確かにそれは、義勇が感じている気配の方角と一致していた。


義勇が任務を終え帰宅した頃にはすっかり陽も昇り、近所の民家からは朝餉の香りが漂っている。
疲れた身体にふくよかな出汁の香りが染みた。
台所に何かすぐ食べられる物はあっただろうかと義勇は疲れた頭で回顧する。
しかし漬物くらいしか思い浮かばず、昼餉を多めに用意しなかった昨日の自分を呪うのだった。

「誰だ」

義勇は自邸の玄関の戸に手をかけ、眉間に皺を寄せる。
ひとり暮らしをしている自分の家の中から人の気配がするのだから当然だ。
しかし盗人にしてはあまりにも堂々とした気配な上に、戸は施錠されている。
当然鬼の気配でもない。

この戸を開けるか裏口に回るかと思案していると、足元から自分を見上げてくる鴉の視線に気がついた。

「ナマエガ来テイル」
「ナマエ……?」

聞き覚えの無い名に義勇は一層眉間の皺を深めた。
すると今度は三統彦が盛大な溜め息をつく。
鴉に溜め息をつかれるのは、義勇としては心外なことであったが。

「オマエサンガ頼ンダノダロウ?早ク、ナマエガ待ッテイルゾ」

そこでようやく義勇は、そう言えばあの女隊士の名前を聞いていなかったと気がついた。
義勇からも問わなかったが向こうも名乗らなかったのだ。
更に家を空けることになった際にも急いで文を出したから、義勇は宛名を書くことすら失念していた。

とはいえ元より細かい部分に無頓着な面がある上に他人の事をそこまで気に掛けない性分なので、名前を知った今もそうか彼女はミョウジナマエというのかと思ったくらいである。

確かに三統彦をナマエの元に遣わせた時に、寛三郎の看病をしてもらえるよう家の合鍵を託した。
しかしまさか朝になっても彼女がここに居るとは思わなかった義勇である。
てっきり昨日の夕方に来て、鬼が出る時間になる前に帰ったものとばかり思っていたのだ。
送った文にも、寛三郎の具合はだいぶ良くなったので投薬を済ませたらすぐ帰ってもらって良いと書いたはずだった。

ならば何か問題が発生した可能性もある。
連絡手段であるナマエの鎹鴉は義勇の元にいるので、何かあっても今の彼女が自分に連絡を寄越せる方法は無い。

そこまで考えて義勇は慌てて戸を開いた。

「寛三郎っ!」
「お疲れ様でございます水柱様……って寛三郎ですか?縁側で日向ぼっこしてますよ?」

そこには手拭いを頭に巻いたミョウジナマエが立っている。
義勇は見開いたままの目を左右に動かし、玄関から続く廊下の様子を伺った。
しかし特に変わった様子は無さそうだったので勢いを失った義勇はその場に立ち尽くし、瞬きを繰り返すしかできないでいる。

「ミョウジナマエ……」

三統彦に聞いたばかりの名前を呟く。
心配して焦ったというのに当の寛三郎は縁側で日向ぼっこしていると聞いて、義勇はすっかり出鼻を挫かれてしまった。
なので、それ以外に何も思い浮かばなかったのだ。

「はい、いかが致しましたか?」

ナマエは柔らかい笑顔を浮かべながら首を傾げる。
彼女はしばらく義勇の言葉を待っていたが、義勇も義勇で何を話したものか考え込んでしまっていた。
ややあって、先に口を開いたのはナマエの方だった。

「そういえば先日は名乗りもせず失礼しました。
文を拝見して、名前を伝え忘れていたことを思い出しました」
「いや、別に気にしていない」
「でも私の名前ご存知だったんですね」
「さっき三統彦に聞いた」

ナマエはなるほどと頷いて、義勇の肩に止まっていた鎹鴉に微笑みかける。
しかしハッと驚いたように一歩横に退くと、へこへことお辞儀を繰り返した。

「あっ! 申し訳ございません、玄関で引き止めてしまいました!」

確かにここは義勇の家で、しかも玄関に入ったばかりの場所だ。
家主が帰宅早々立ち尽くしたままというのはいただけない。
しかも水柱である義勇の方が位が高いのだからナマエが焦るのも当然である。

義勇は変わらず涼しい顔で敷居を跨ぐと奥へと歩みを進めた。
初めて会った時から始終落ち着き払っているものと思っていたミョウジナマエが慌てふためいたのは意外だったが、深く気に留めるような義勇ではない。

しかし彼は数歩歩いて立ち止まり、鼻をすんすんと動かした。

「良い匂いがする」

すると申し訳なさから後ろで縮こまっていたナマエが、ぱあっと効果音がつきそうな勢いで顔を上げる。

「そうなんです! 朝餉を作ってきたので良かったら召し上がってください」
「朝餉を? ミョウジが?」
「昨日の夜寛三郎の看病に来た時、何か食べさせてやろうと失礼ながら台所を使わせていただいて……その、申し上げにくいのですがあまりに何も無くて」

そこまで言うとナマエは気まずそうに視線を逸らした。
義勇は頭の中でだけ、確かに自分でも漬物くらいしか思い出せなかったなと考える。
ナマエは黙ったままの義勇を伺いながら話を続けた。

「それで、もしかしたら水柱も真っ直ぐお帰りになるんじゃないかと思って作ってきたんです。流石に一度帰りましたから安心してください!」
「何故俺が真っ直ぐ帰ってくると分かったんだ」
「それはもう、寛三郎が待ってますからね!」

途端に自信満々に胸を張るナマエである。
寛三郎の側だけではなく義勇も相棒に対して心配性であることは分かっていたので、鬼を討伐した後の義勇が食事も取らず帰路につくことは容易に想像できた。

しかし義勇の方は全くもって無意識だった為、ナマエの言葉に衝撃を受け目を見開いている。
確かに何となくすぐ帰らないといけないとは感じていたが、その気持ちを引き起こす明確な理由までは態々考えなかったからだ。

「寛三郎もずっと心配してましたよ?
まだ咳が出るのに水柱様の元へ飛んで行こうとするものだから、止めるのが大変でした」

薬が効いて眠るまで待ったんですよ、とナマエは小さく笑った。
義勇はその場面を想像し、片手で顔を覆う。嬉しさと恥ずかしさの両方が混ざり合った気持ちだった。

「世話をかけたな」
「いえいえ! 寛三郎は高齢だから少し心配だったので……でももう任務に同行できると思いますよ」

ナマエはそう言うと、縁側に続く廊下へと足を進める義勇に並ぶ。
台所の前に差し掛かると、ナマエは立ち止まって義勇に呼びかけた。

「折角作ってきたので、良かったら召し上がっていただけますか?」
「ああ、頼む……」
「では少し火をお借りしますね」

そう言って彼女はいそいそと台所へ向かっていった。義勇はそのまま廊下を進む。
暖かい陽の光が差し込む縁側の真ん中にちょこんと座った寛三郎は、うつらうつらと船を漕いでいた。
任務に当たっていた数時間前とはあまりに差のある平和な光景に気が抜けた義勇は、寛三郎の隣に腰を下ろし長い息を吐く。

怪我をするほどの戦闘はなかったものの流石に身体は疲れており、一度座ってしまえば尻に根が張ったように動きたくなくなってしまう。
義勇は腰から日輪刀の鞘を外して近くに置くと、眠りこける鴉の顔を覗き込んだ。

「義勇……鬼ハソッチジャナイゾゥ……」

突然寛三郎が呟いたので目の前にいた義勇の肩がびくりと跳ねる。
三統彦はナマエに着いていったので誰にも目撃されなかったことは不幸中の幸いだろう。

義勇は瞬きを繰り返してから寛三郎に呼びかけるが反応は無かった。
どうやら今のは寝言らしい。

「……任務に行っている夢か?」

一体寛三郎はどれだけ俺を心配しているのかと義勇は呆れて、それから自然と笑みをこぼしている自分に気がつく。
隊士になってから八年の付き合いになるが、いつまで経っても自分をまるで孫のように扱う年老いた鴉は義勇に取って欠け替えのない大切な存在になっていた。

「早く任務についてきてくれ。三統彦は優秀すぎて調子が狂うんだ」

伝令の内容をそっくりそのまま受け取らなくてはいけないことは、義勇に取って違和感ばかりだった。
例えば鬼が出没している方角一つ取っても、鎹鴉に西南西と言われれば実際には東北東であることが日常茶飯事だ。
つい逆張りをして自分の勘に従う癖が染み付いてしまった義勇は、三統彦に何度か自分を信じろと苦言を呈されたのであった。

義勇は寛三郎をそっと抱き上げ自分の膝に乗せる。
毛羽だった黒い羽根は日光を纏って暖かい。
義勇は相棒の背中をよしよしと撫でた。
伝わってくる温度も相待って、陽だまりを抱いているような気持ちになる。

「お待たせしました……まだ眠ってたんですね、寛三郎」

そこへ盆を持ったナマエが戻ってくる。
小さい盆の上には握り飯と漬物、それから湯気を立ち上らせる碗が乗せられていた。
家の前に差し掛かった時に嗅いだような、しかし一般的に使う鰹出汁とは少し違う香りが漂ってくる。

ぐう、と義勇の腹が音を立てた。
身体越しに伝わったのだろう、寛三郎が眠りながらもぶるりと羽根を震わせる。

「ふ、ふふっ……どうぞ、召し上がって下さい」

思わず笑ってしまったナマエは、なんとか笑い声を噛み殺しながら義勇の横に盆を置いた。
バツが悪くなった義勇は小さな声でいただきますと呟くと味噌汁の椀と箸に手を伸ばす。味噌汁の具は干し海老と小葱だった。

「具を味噌に混ぜて、貝殻に詰めて持ってきたんです。湯を沸かして溶けば簡単に味噌汁が出来るんですよ」
「……なるほど」

美味いと言うより先にナマエから声をかけられたので、義勇は感想を述べる機会を逃してしまった。
静かに碗を啜ってから、次に握り飯を掴む。
一口齧ると大きな塩鮭の切り身が顔を覗かせた。
好きな具の一つなので、義勇は思わず頬を緩ませる。

「もう一つは梅と胡麻ですよ。疲れている時は酸っぱいものとしょっぱいものに限ります」
「ああ、とても美味い」

今度は素直に感想を述べることが出来た。
義勇は寛三郎を膝に乗せたままもぐもぐと握り飯を頬張る。
ナマエは義勇が食べ終わるまで、その光景を温かい気持ちで見守っていた。


「ご馳走様でした」
空になった食器を前に丁寧に手を合わせた義勇は、傍で三統彦と話していたナマエを見上げる。

「待たせてすまない」
「良いんですよ! 平らげてくださって嬉しいです」

食べながら会話するのはどうにも苦手だったので、途中でナマエがあれこれ話しかけてこないのは義勇にとって有り難かった。

ナマエが縁側から盆を拾い上げた時、義勇はその光景に不思議と懐かしさを感じて目を細める。
初めて会った時にも、同じような気持ちを感じたものだ。

「ミョウジ。前にも会ったことがあるか?」

問われたナマエは数秒間止まった後、盆を抱えてへらりと笑ってみせる。

「もしかして私、口説かれてます?」

義勇は無言のまま顔を顰めた。
するとナマエは大袈裟に手を振って吐いたばかりの前言を否定する。

「嘘ですよ、うそうそ!
ご存知ないかもしれませんけど、これでも水柱様とは同期入隊です」
「同期……?すまなかった」

またしてもバツが悪くなった義勇はナマエから庭の方に視線を逸らした。

同期の隊士は何人もいたが全てを覚えているわけではない。
特にあの頃の義勇は、人との関わり合いを極限まで絶っていたのだから。
何より同期入隊ということは、あの藤襲山の試練を一緒に受けたというわけだから義勇にとって思い出したくない話題だった。
無意識の内に表情が固くなってしまう。

しかしナマエは気を悪くした素振りもなく、むしろ黙り込んでしまった義勇を心配そうに見下ろしていた。

「水柱様…」

柱になるような強い隊士がその他一般程度の力しかない隊士のことなどいちいち覚えていなくても仕方ない。
ナマエがそう声をかけようとした時、義勇の腕の中で寛三郎が大きく身じろぎした。

「義勇……帰ッテオッタノカ」

寛三郎は羽根を広げ、小さなあくびをするとともにつぶらな瞳で義勇を見上げる。
声の掠れは、もうすっかり治っていた。

「起こしたか」
「ヨウ寝タワイ。ナマエガオ主ヲ待ツト言ッテオッタガ……オオ、ソコニオッタノカ」
「おはよう寛三郎。気持ちよさそうに眠ってたね」

ナマエは寛三郎に向けて曖昧に微笑みかける。
寛三郎は寝惚けた頭で義勇とナマエの間に流れる微妙な空気を感じて、はてどうしたのだと首を傾げた。

「ナマエ、ソロソロ帰ラナイト皆ガ待ッテイル」

それまで黙ってナマエの足元に立っていた三統彦が口を開いた。
時刻は正午に近づいており、ナマエは鎹鴉達の訓練に戻らなければならなかった。

「そうだね、三統彦。
水柱様、もう寛三郎は平気そうですから三統彦はこのまま連れて帰りますね」
「ああ、助かった。恩に着る」
「義勇ハ爺サンデナイト調子ガ狂ウヨウダゾ」

三統彦はナマエの肩に止まると、寛三郎に向けてそう告げる。
寛三郎は相変わらず理解できないようで首を傾げているものの、義勇の方は言い返すことも出来ずに後頭部を掻いていた。

「ナマエニモ三統彦ニモ世話ヲカケタノゥ……」
「良いのよ寛三郎。言ったでしょ、同期のよしみだって」
「ソウジャッタナ。義勇モナマエモモウ五年目ニナルカ……」
「オイ爺サン、モウ八年ダゾ!」
「ハテ? 今ハ明治何年ジャッタカナ?」
「……大正だ、寛三郎」

三統彦に続き義勇がすかさず寛三郎の呆けた発言を訂正したので、堪らなくなったナマエが遂に小さく噴き出した。

「ぷっ、ふふっ……すみません可笑しくなっちゃって」

込み上げる笑いを抑えきれずに肩を震わせるナマエ。
三統彦は溜め息をつき、寛三郎は「大正……イツカラジャッタカノ?」と未だに呟いていた。

義勇は先程頭を過った懐かしくも苦しい思い出をそっと胸にしまう。
それと共に、ふと何処かから狐の面がじっと自分を見つめているような気配を感じていた。

未だ罪悪感に苛まれる義勇は気付かない。白い狐は己の救った命が笑い合う姿を、微笑ましく眺めているのだということに。

 
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