遂に退院を翌日に控え、義勇はナマエに一つ頼み事をする。
明日は退院するだけではなく、久々に鬼殺隊本部から招集がかかっていた。
奇しくも義勇と同じように大怪我を負って入院生活を余儀なくされていた不死川実弥も、めでたく明日退院することになっていたからだ。

ナマエにも義勇とは別に召集がかかっており、二人は明日共に産屋敷家に向かうこととなっていた。
戻ってきた後は退院の手続きをして、義勇は遂に我が家へ帰ることとなる。

「本当に良いんですか?私が切ってしまって」

腰まで届いてしまうほど伸びた義勇の長い髪を掬い上げ、ナマエは指で梳きながら問いかける。
前までは面倒だから時々切るぐらいで束ねていたのだが、片腕になってしまった今彼にとって長い髪はただただ不便なものとなっていた。

「ああ、頼む」
「それじゃあ……失礼します」

ナマエが義勇から髪を切って欲しいと頼まれたのはつい先ほどのこと。
アオイたちと彼の退院日の段取りやこれから自邸に戻った後気をつけさせるべきことなどを話し合い、病室に戻ってきてすぐのことだった。

今では誰もが義勇のことならまずナマエに相談するようになっている。
元々彼は口下手な上に生活能力が高いとは言えなかった。
鬼殺に明け暮れる日々を送っていればそれでも問題はなかったが、これからはもっと穏やかな毎日が待っているのだから生活習慣も変えなれければならない。

対するナマエは鎹鴉たちを一人で世話してきた実績があるし、義勇の意図も組んでやることができる。
彼女に話しておけば上手く義勇に伝えてくれることは皆が分かっていたから、アオイたちもすっかりナマエを頼りにしていた。


暁に鳴く 参拾漆


「それにしても伸びましたね」

ナマエはそう言いながら椅子に座らせた義勇の髪に鋏を入れると、僅かに躊躇った後覚悟を決めてざくりと切り落とす。
床に敷いた紙の上に、落ちた毛束が広がった。
それを見下ろしたナマエは感慨深い気持ちで一杯になる。

髪の毛が伸びるということは、義勇が生きているということに他ならない。
命が無ければ人の身体の代謝は止まり、永遠に爪も髪も伸びることはないのだから。
命の尊さを知らしめてくれるその髪を切るのは後ろめたかったが、しかし彼が新しい生活に向かうための一歩だと思えば神聖な儀式を任されたという気持ちにさえなれた。

「どのくらい短くされますか?」
「どう思う?」
「私が、ですか?」

質問に質問を返され、ナマエは鋏を止める。
義勇は左手に持たされている手鏡越しに、ナマエに向けて苦笑を向けた。

「髪型に頓着したことがなくて、良い塩梅が分からない」
「少しは村田くんを見習っては?」

毎晩欠かさず椿油で髪の手入れをしているらしい同期の名を出し、ナマエは鏡越しの義勇に苦笑いを返す。

「短いのもお似合いだと思いますけど、元々の癖毛を活かして、この辺は少し量を残しておきましょうか」

ナマエは鋏を持っているのとは反対の手で彼の頭頂部に軽く触れた。
義勇はナマエに任せると言い、彼女が切りやすいよう真っ直ぐ前を向き直す。
他人の毛並みの世話など鴉の羽根を梳かしたことぐらいしかないナマエは、失敗できないという重圧を勝手に感じて唾を飲み込んだ。

「……もし変になってしまっても、私は義勇さんのこと好きですからね」
「変に?」
「いえ!なんでもないです!」

つい思っていたことを口にしてしまっていたナマエは、怪訝な顔をする義勇に向け首を振って見せると鋏を動かし始めた。

ざくざくという音とともに彼の頸が現れて、普通は男女逆だろうとは思いつつナマエの胸の奥が高鳴る。
そこに落ちた毛を取ってやるのにも、彼女は人知れず挙動不審になるのであった。


「どうでしょう?私としてはお似合いだと思うんですけど」

鏡で髪型を確認する義勇に向け、ナマエは彼の様子を窺いながら出来栄えを問う。
長かった後ろ髪は頸が見え隠れするほどに切り揃えられているが、頭の上半分は今までとほとんど変わらなかった。
量を漉いた程度で、長めの毛束は相変わらず外向きに散らされている。

「ありがとう。大分さっぱりした」

結んでいた部分が無くなり多少の心許なさを覚えながらも、義勇は頭が随分軽くなったことに満足していた。

「これなら髪のことで悩まずに済む」
「結ばなくて良いですもんね。洗うのも簡単だと思いますよ」
「感謝する。助かった」

鏡越しに目が合い、義勇は照れくさそうにはにかんだ。
ナマエも気に入ってもらえたことに安堵し、彼に微笑み返す。そ
れから、床に落ちた髪を片付け始めた。

「いよいよ明日ですもんね。お館様も驚かれるかもしれません」
「そうしたらお前の腕を自慢しよう」
「それはやめてください」

明日は無惨との戦いが終わってから初めて産屋敷家の面々と顔を合わせることになっている。
義勇は大真面目だったがナマエはそんな滅相もないことをと彼を諌め、そそくさと片付けを続けた。

「ずっと、世話になりっぱなしだったな」

ゴミを捨てているナマエに向けて義勇が呟く。
それを聞いたナマエは思わず手を止めた。

「もう少し自分で色々とできるように努力する」

そう続けた彼とナマエは、結局今日まで退院後の生活について話が出来ていなかった。
顔を合わせる時間は山ほどあったはずなのに、互いに言い出すことが出来なかったのだ。

義勇は自身の身体と将来のことを、ナマエは義勇が何かを抱えているのに話してもらえないことを。
それぞれが別の悩みを抱え、解決できないまま義勇の退院日を迎えることになっていた。

「大丈夫ですよ。なんとかなります、絶対」

ナマエは辛うじてそれだけ返すと、部屋に備え付けられた水道で手を洗う。
義勇は彼女の手元に視線を移し、その指の隙間から流れ落ちていく水をぼんやりと眺めていた。

あの水流のように、掴まなければ零れ落ちていってしまうということくらい十分に分かっている。
しかし、彼女が流れゆく先に別の幸せがあるとしたら──。
ナマエが蛇口を捻り水を止めた後も、不審に思った彼女に声をかけられるまで義勇はただ一点を見つめたままだった。


翌朝、産屋敷輝利哉によって最後の柱合会議が開催された。
集まったのは風柱・不死川実弥と水柱・冨岡義勇の二名だけ。
鬼殺隊を支えてきた柱は、最後の戦いを経て遂に二人だけになってしまったのだ。

現当主の産屋敷輝利哉は妹二人を伴って、鬼殺隊は今日を持って解散すること、これまでの助力に感謝することを告げ頭を下げた。
しかし実弥と義勇はこれを止め、産屋敷家の尽力こそが鬼殺隊を支えてきたのだと解いてみせた。

一通りの話を終え、この場がお開きになる頃合いだった。
輝利哉は柱二人の顔を見比べ、これから先はどうするのかと問いかける。
二人ともまだ詳しくは決めていなかったものの、実弥は弟の玄弥を弔ってから少しの間市井を見て回りたいと述べた。

「義勇はどうだい?」
「いえ、私は……」

義勇は口籠もり、何か言いかけるも先を紡げないでいる。
隣に座った実弥は苛立った様子だが、輝利哉は子供とは思えないほど穏やかな笑みを浮かべたままだ。

「義勇、これからは自分の気持ちに正直に生きて良いんだよ」

その言葉はまるで義勇が師や、夢の中で出会った親友からかけられたものと同じだった。

「もう、十分なほど色々なことを諦めてきただろうから」
「お館様……」
「義勇には、共に在りたい人がいるように思えるけれど」

彼の父を思わせる眼差しに真っ直ぐ見据えられて義勇は押し黙った。
だがその通りなのに、首を縦に振ることが出来ない。

「俺ァお前の惚れた腫れたにゃ興味ねェけどよォ」

そこへこの場を見ていて我慢できなくなったらしい実弥が、口を噤む義勇の代わりに言葉を発した。

「できるうちに大事にしろォ。お前だって、今まで散々失ってきたんだから分かるはずだァ」

たった一人になってしまった肉親すら、最終決戦の中で失ってしまった実弥。
彼が言うからこそこの言葉には苦しいほどの重みがあった。

「不死川……しかし、俺は……」

だが気持ちを上手く口にすることも出来ず、義勇は言いかけた言葉を飲み込んでしまう。
すると、苛立つ実弥を片手で制した輝利哉が義勇と膝を合わせるほどの距離に近づいてきて口を開いた。

「実は、彼女がこれまで鎹鴉たちを育ててくれた功を労いたいと思っていてね」
「……お館様?」
「もし義勇がナマエへの想いを貫かないなら、彼女も天涯孤独だし家族を欲しているかもしれないから見合いを勧めようと思っているんだよ」
「なっ……!」
「鬼殺隊の中から集ってもいいのだけど、他にも産屋敷家の人脈から彼女を幸せに出来そうな家を探すこともできるからね」

動揺する義勇を他所に輝利哉は立ち上がると、開け放された襖の向こうに広がる中庭へと足を向ける。

「ちょうど鴉たちとの募る話もひと段落した頃だろう」

縁側の淵で立ち止まった輝利哉は、一度振り返って座ったまま唖然とする義勇を見下ろした。

「今なら彼女と話をするのに、ちょうどいいと思わないかい?」

それだけ言うと中庭に降り立つ輝利哉。しばらく呆けていたものの我を取り戻した義勇は慌てて立ち上がる。
しかし一歩踏み出そうとするも、自分に止める権利があるのかどうかと悩み始めてすぐに動くことができなかった。

ふと、義勇は隣から怒りにも近い気配を感じる。

「これ以上お館様に気ィ使わせんなよなァ」

そんな言葉と共に、横に立った実弥が盛大な溜息をついた。

「あの女のことはよく知らねェがよォ」

ゆっくりと歩いていく輝利哉の背中を見つめ、実弥はぼそりと呟く。

「同じ呼吸の使い手として見れば、あいつの風は悪くねェ風だった」
「不死川……」
「早く行けェ、冨岡。こんな時にまでボケっとしてるつもりかァ?」
「……すまない。行ってくる」

実弥の言葉に背中を押され、早足で歩き出した義勇は輝利哉を追って中庭へと降り立つ。
既に輝利哉は、庭の片隅に群れる鴉たちとその中心に佇む黒い羽織と向き合っていた。

(ナマエは、俺の心に吹き込んだ一陣の風だった)

輝利哉たちの元へと急ぎながら、義勇は主に頭を下げる彼女の姿を見据える。
ずっと凪いでいた筈の静まり返った心に、初めて舞い風が波を起こしたのはいつのことだっただろうか。

『彼女を幸せに出来そうな家を探すこともできるからね』

義勇の脳裏にはそう告げた輝利哉の声が蘇る。

(ナマエを幸せに……)

辿り着いた先では、突然現れた彼を見てナマエが目を丸くしていた。

柱合会議が終われば共に帰るということは暗黙の了解ではあったものの、今彼女は輝利哉と話している最中である。
慌ただしく割って入ってきた義勇の行為は不躾にも程があるし、柱だった義勇が輝利哉を差し置いてこの場に出てくるとはナマエも思わなかったからだ。

「義勇、さん?」

驚くナマエとは対照的に、輝利哉は全てを察したのか微笑んだままだった。

(本当に、俺に出来るのか?)

その答えはまだ出ていないが、何としてでもこの場は止めなければならない。
義勇はナマエの前まで歩み寄り、自分以外が幸せにするなど耐えられないと思ってしまった愛おしい女を見下ろすのだった。

 
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