義勇は戸惑いを覚え、辺りを見回した。 気がつけば自分は部屋の中に立っていて、この場にいるのは自分を除くと畳に敷かれた布団の家で座っている少年だけだ。 いつから俺はここにいたのだ、ここはどこだ、そしてあの少年は一体──。 彼はふわふわと定まらない思考を必死に巡らせ現状を把握しようとする。 しかし、不思議なことにこの場所には見覚えがあった。 部屋には、こちらに背を向ける少年が時折涙をしゃくる音だけが響いている。 義勇がしばらくその少年の背中を見つめていると、やがて遠慮がちに襖が開けられて一人の少女が顔を出した。 その顔には十分すぎるほど見覚えがあったが、彼が知っているものより大分幼い。 年の頃は十二、三といったところだろうか。 義勇は、自分に気が付かず横を通り過ぎていく少女に伸ばしかけた手を止めた。 彼女は少年の隣に腰を下ろすと、頼りなく丸まった背中声をかける。 それでも微動だにしない少年だったが少女は気を悪くする様子もなく、手に持った軟膏を指先に絞り出すと彼の頬にそっと塗ってやった。 「はやく良くなりますように」 義勇の脳裏に、鮮やかな記憶が蘇る。 自分の腕の中に向けられた慈しむような眼差しも労るような声音も、今目の前にいる少女と同じものだった。 (ナマエ……) 彼は声にならない声で、頭に浮かんだ名を呟く。 そしてあの時彼女が回復を祈ったのが自分自身にではなく、長年の相棒に向けてだったことも思い出した。 (そうだ。寛三郎、寛三郎はどこだ?) 辺りを見回すもいつも共にあった鴉の姿はない。 義勇はようやく、少しずつではあるがこの状況に理解が追いついていたなかった頭が明瞭になっていくのを感じた。 (俺は鬼の術中にいるのか?いや……違う、鬼はもう……) 義勇はようやく、これが夢であることに気がついた。 夢と言っても、この情景は過去に彼の身に起こったことである。 何故ならめそめそと泣いているのはかつての自分自身で、今彼の背中を撫でてやっているのはナマエだったからだ。 だが不思議な夢だった。 義勇はこの時のことをほとんど覚えていないし、村田やナマエが側についていてくれたことも後から明確になったことだ。 しかし彼が今見ているのは紛れもなく、あの藤襲山での選別の後生き残ってしまった自分の姿だった。 気がつけば、少女は静かに涙を流している。 赤錆色の羽織の背をさすりながら、頬を伝う涙を拭いもせず彼女はぽつりと呟いた。 「ごめんね……」 その言葉に、少年の肩が僅かに揺れる。 しかし、彼が言葉を返すことはなかった。 「私を助けなかったら、彼はもっと他の鬼と戦えたかもしれない」 ナマエが言っているのは錆兎のことに違いない。義勇には確信があった。 もしかしたらこの時の自分もそれだけは分かっていたのかもしれないが、やはり思い返そうとしてみても靄がかかったように記憶は甦らなかった。 完全に、この時の彼は心を閉ざしてしまっていたのだ。 (違うんだナマエ。俺がもっと強かったら……) そう言って彼女の側に駆け寄りたいが何故か足が動かなかった。 義勇にできるのは、ただこの場を見守ることだけらしい。 「私じゃ役に立たないかもしれないけど、君が立てるようになるまで側にいるね」 村田くんと交換する時もあるけど、と言って幼さの残るナマエは少しだけはにかんだ。 顔を向けることなく膝の上で握りしめた拳を見つめ続ける少年に、義勇はやるせない気持ちで一杯になる。 (俺は、本当に自分のことばかりだった) 少しでも視野を広げていればすぐ側に寄り添ってくれた仲間がいたのに、そんな大事なことにも気付かなかった。 「お前だって辛かったはずなのに……すまない」 必死にかつての自分を励ましてくれるナマエに向け義勇が呟いた声も、彼女の耳に届くことはない。 今彼女の目に写っているのは、小さく肩を震わせる気弱な少年ただ一人だけだった。 ふと、義勇は隣に気配を感じて顔を向ける。 その瞬間、彼は信じられないと目を大きく見開いた。 「錆兎……っ!」 顔に狐面をつけていてもその特徴的な宍色の髪と白い羽織、そして身に纏った亀甲柄の着物を見間違うはずはない。 驚く義勇を他所に、彼は少年少女の姿を見守りながら狐面を外した。 この時義勇は、錆兎の背丈が並んだ自分とほとんど変わらないことに気がつく。 そして面の下から現れたかんばせも、彼の記憶しているものより大人びているように見えた。 ゆっくりと義勇に視線を向ける錆兎。 時が止まってしまったかのように固まってしまった彼へ向けて、錆兎はそれまで固く結んでいた口元を緩めた。 「心の赴くままに生きていいんだ、義勇」 義勇はハッと息を呑む。 何故錆兎がそんなことを言うのか、どうして彼がこうして隣に立っているのかも分からなかった。 これは夢なのだから、自分自身の深層心理が求める幻想なのかもしれないと思いつつ、義勇はなんとか錆兎に一言礼を言いたくて口を開く。 お前のおかげで俺はここまで来ることができた。 最後まで水柱として戦い抜くことができたのだと。 しかし口の中は乾き切っていて、喉が張り付いてしまったかのように声を発することができなかった。 手を伸ばしたくとも、何故か体を動かすことすら叶わない。 しかし錆兎は義勇に向け、眉を下げて微笑むばかりだった。 「さ、びとっ……!」 辛うじて、肺の底から絞り出したような声が音になる。 呼ばれた錆兎は義勇の両肩に手を置き、凛々しい表情で『親友』を見据えた。 「繋いでいくんだ、未来へ」 義勇はもう一度彼の名を呼ぼうとしたものの、唐突に意識が遠のくのを感じて思わず目を瞑る。 最後に見たのは、少年だった頃と寸分変わらない親友の笑顔だった。 暁に鳴く 参拾伍 夜の帳が下り、窓からは月明かりが差し込んでいる。 義勇がゆっくり目を開くと、まず真っ先に見覚えのある、しかし自宅のものではない天井が見えた。 身体を起こそうとするも違和感を感じ、そういえば自分は利き腕を失ってしまったのだと思い出す。 だが違和感は肩から下が無い事というよりも、その辺りにかかる重みから来るものだった。 重い頭を僅かに上げると、ベッドに横たえられている自分の肩の辺りにうつ伏せになっている誰かの頭が見える。 顔は見えなかったが、確かめなくともそれが誰なのか義勇にもはっきりと分かった。 左手をゆっくりと上げれば、そこから伸びる透明な管が揺れる。 どうやら点滴を打たれているらしいと気づき、義勇は自分が大怪我を負っていたことも思い出した。 そっと伸ばした手で、菫青石の髪留めに触れる。 あの死闘の中で自分が拾ったはずだったそれが、無事彼女の元に返っていたことに義勇は安堵した。 そして髪留めから髪の毛へと指先を滑らせ、その下へと進んでいく。 暗闇に目が慣れ切ってはいないものの、彼女の頬に触れればその肩が僅かに揺れるのが見えた。 「……ナマエ」 眠っていることは分かっている。 その肩が規則正しく上下していたことも、僅かな息遣いが聞こえてくることからも確かだ。 しかし義勇は、その名を呼ばずにはいられなかった。 「お前が、無事で良かった……」 彼が思い返せば、炭治郎の生還を見届けてからの記憶が無い。 そこから今までどれほどの時間が経っているかは分からなかったが、決して短い間では無かったのだろうと義勇はぼんやりと考えた。 「俺も、生きていたんだな」 ここが蝶屋敷の病室であることは分かる。 だからこそ自分が治療を受けていることも分かるし、それは言い換えれば彼が死にかけていたということだった。 義勇は一度目を閉じて、自身の鼓動に意識を向ける。 確かに力強い脈動を感じて、彼はひどく安堵した。 「自分が生きてることに、これほど安心させられるとはな」 長い間鬼と戦っていつかは死ぬとばかり考えていた義勇だった。 しかしそんな彼が生きたいと願ったのは、まさしく目の前の彼女がいるからだった。 ややあってからもぞもぞと動き、彼が頬に触れたままのナマエが顔を上げる。 寝起きであることと暗闇のせいで何が起こったか理解しきれていないナマエは、それでも自分に触れているものが何か理解すると慌てて上半身を起こした。 「義勇さんっ!?目覚めて……っ!」 急いで立ち上がるとベッドの横に置かれた机の上にある石油ランプに火を灯し、ナマエは改めて義勇に振り返る。 義勇が夢の中で見た少女と比べると随分と大人びた風貌の彼女は、これでもかというほどに目を丸くし、今にも泣き出しそうな顔をしていた。 「良かった……」 義勇の顔を確認すると、その瞳はみるみるうちに潤っていく。 すぐに大粒の涙が頬へと流れ落ち、ナマエはせっかく会えたはずの義勇の顔が歪んでいくのにどうすることもできずにいた。 「すまなかった。心配をかけた」 「本当ですよ、もう……っ!」 もうひと月以上聞くことのできなかった声。これが夢ではなく現実なのだと感じたくて、ナマエは義勇の胸に縋りついた。 「ずっと待ってたんですよ、義勇さん……」 義勇は泣きじゃくるナマエの背中に左腕を回し、彼女の髪に口付ける。 「悪かった。だが、俺はこうして生きている」 お前も無事で良かったと告げれば、ナマエは義勇の入院着を握り締めて静かに嗚咽を漏らした。 少しの間そのままでいたものの、やがて落ち着きを取り戻したナマエ。 彼女は考えた末、義勇が目覚めたことは朝になってからアオイたちに伝えることとした。 時刻は深夜で、連日隊士たちの看病や機能回復訓練が続く中、看護士たちには少しでも休息をとってほしかったからだ。 「夢の中で、お前に会った気がする」 どんな夢を見ていたのか、義勇はほとんど覚えていなかった。 しかし朧げな記憶の中で、まだ少女の域を出なかった頃のナマエと会ったことははっきりと覚えていた。 するとナマエは驚いたように、泣き止んでからずっと両手で包み込んでいる義勇の左手を握りしめた。 「本当ですか?私も、あなたにお会いしました」 ナマエの方も夢の全てを覚えてはいない。しかし彼と同じように、今よりも幼い面持ちの義勇を抱きしめたことは覚えていた。 「側にいてくれたんだな」 こうして付き添ってくれていたから、二人とも似たような夢を見たのかもしれないと義勇は呟く。 それを聞いたナマエも、確かにそうかもしれないと微笑んだ。 「ナマエの声が聞こえたと思ったのも、気のせいじゃなかったんだな」 あの心地良さは自分の想像力の産物ではないだろうと義勇にも分かっていた。 ナマエは義勇の掛け布団の上に広げた羽織を手に取り、気が付いていなかったらしい彼の前に広げる。 「禰󠄀豆子さんが繕ってくれたみたいで。ここにいたから、話してたんです」 義勇はボロボロになっていたはずの大切な羽織が綺麗に元通りになっていることに驚き、ナマエから受け取ると込み上げてくる感動に突き動かされるままそれを抱きしめた。 布地の境目に頬を寄せる義勇に、ナマエも心の底から嬉しくなって禰󠄀豆子に感謝する。 「禰󠄀豆子さんと話していたんですけど、彼女が帰った後に寝てしまったみたいです、私」 「疲れていたんだな。待っていてくれてありがとう」 素直に感謝を述べた義勇に、ナマエは彼の小さな変化を感じていた。 「あなたのどんなところが好きか、話してしまいました」 はにかむナマエの言葉には面食らい、心地悪くは無いがむず痒い気持ちになる。 「それは恥ずかしいな」 「手紙に書かれるよりましじゃないですか?」 そう言い返されてしまえば義勇に言えることは何もない。 口籠る彼にナマエがくすりと笑い声を溢すと、照れ隠しなのか義勇は片腕でナマエを抱き寄せた。 「義勇さん?」 「……両腕で抱き締めてやることが出来なくなってしまった」 ぼそりと呟かれたその言葉に、彼の腕の中でナマエは眉根を下げる。 しかし僅かに身体を離すと義勇を見上げ、ナマエは彼の右肩にそっと触れた。 「あのとき、しっかり抱きしめてもらいましたから」 想いを伝え合った後、ナマエが彼に初めて告げた我儘。 それは義勇にとって、我儘でも何でもない可愛いお願いだったのだが。 「片腕だって、私はこうしてあなたの中に収まってしまいますしね」 そう言って再び悪戯っぽく笑うナマエ。 義勇はその額に軽く口付けてから一度目を合わせ、それからゆっくりと目を閉じたナマエの口元へと唇を落としていった。 [back] |