蝶屋敷に運び込まれた義勇は、それからしばらくの間目覚めなかった。
義勇だけではなく、炭治郎をはじめとする若い隊士たちも皆満身創痍の状態で、中には何度も峠を彷徨い続けた者もいる。

ようやく鬼のいない世にはなったが、鬼殺隊にはまだ安寧の日々が訪れたとは言い切れない状況だった。
かつては才がなく剣を振るうことができなかった者たちも、今では看護や機能回復訓練の手伝いをするための重要な戦力になっている。
そんな中で何日か経つと徐々に意識を取り戻した者も増え、蝶屋敷の看護士たちは慌ただしい日々を過ごしていた。

ナマエも骨折と重度の打撲や傷により、例に漏れず入院生活を余儀なくされている。
だがようやくベッドから出て歩き回れるほどに回復し、日がな訪れてくる鎹鴉たちを話し相手に過ごしつつ、昨日から機能回復の訓練を行い始めていた。

無惨との戦いが終わり炭治郎が意識を取り戻すまで見守って、気を失った義勇を支えたまではまだ良かった。
だがそのあとナマエ自身も疲労困憊と失血により意識を保てず、隠たちによって応急処置を受けた後共に蝶屋敷に運び込まれたのだ。

目覚めた時、枕元に蹲った三統彦が涙を流しているところをナマエは初めて見た。
長年の相棒は、彼女が眠っている間ずっと傍に寄り添い続けていたらしい。

それから何日かして、ナマエは隠に頼んで怪我をした鴉たちを連れてきてもらった。
アオイたちも、ナマエの病室に鴉たちが入り浸ることやそこで鴉の治療をすることを認めてくれている。
主人を失っただけではなく自らも深傷を負った鎹鴉も少なくはなかった。
鬼殺隊の皆が、命をかけて無惨を滅亡に追いやったのだ。


暁に鳴く 参拾参


今日見てやるべき鴉たちの治療を終え、ナマエは病室を後にする。
向かう先は、毎日訪れている少し離れたとある病室だった。

『冨岡様』と書かれた個室の戸に手をかけ、深呼吸してからナマエはゆっくりと開く。
毎日、もし突然この名札が外されるようなことが起こったらと思えば恐ろしくて仕方がなかった。

「失礼します……あ、禰󠄀豆子さん」
「ナマエさん!こんにちは」

相変わらず瞼を閉ざしたままベッドに横たわる義勇。
その傍に置かれた椅子に座っているのは竈門炭治郎の妹、禰󠄀豆子だった。
禰󠄀豆子はナマエの顔を見るなり満面の笑みを浮かべる。

義勇の掛け布団の上には、ナマエもよく見知った柄の羽織がかけられていた。
片身替わりの羽織はあの戦いであちこち破けてしまったはずだったが、そこに広げられているものには穴ひとつ無い。

「どうぞここに座ってください」

禰󠄀豆子はもう一つベッドの足元に置かれていた椅子を引いてきてそちらへ移る。
そして、自分が座っていた義勇の横にある椅子をナマエの方に押した。
ナマエは素直にそこへ腰掛けると、綺麗に繕われた羽織と静かに眠ったままの義勇を交互に眺める。

「羽織、禰󠄀豆子さんが直したの?」
「はい。鱗滝さんから残っている布地をお預かりしたんです」

禰󠄀豆子は針仕事が得意だったので、義勇の回復を願掛けするに当たって自分にできることは無いかと考えたのだ。

「勝手に残った生地を使ってしまってすみません」

赤錆色と亀甲柄の着物。
どちらももう僅かしか残っていないそれは、彼の大切な人たちが残したものだった。

しかしナマエは首を横に振り、禰󠄀豆子を安心させようと笑顔を向ける。
少女の腕に巻かれた包帯は見るからに痛々しく、彼女の兄がどれだけ鋭い牙を持っていたのかを痛感させられた。

「ううん。彼の大切なものだから、とても喜ぶと思うよ」

ナマエはその羽織にそっと手を伸ばし、僅かに皺になっていた部分を優しく撫でる。

「良かったですね、義勇さん」

未だ目覚めない義勇は、運び込まれた当初かなり危険な状態であった。
片腕を失った後も戦い続けた彼は、愈史郎の手当を受けていなければ傷口の化膿や失血によりあの場で命を落としていただろう。
処置を受けていたから辛うじて動けていたものの、やはり失った血液の量が多く内臓や骨も激しく傷ついていたのだ。

ナマエが動けない間も、禰󠄀豆子や鱗滝が義勇の側で彼の回復を祈り続けてきた。
禰󠄀豆子は繕っている途中の羽織りをいつも持ってきて、苦しみと戦う彼にかけては切に祈ったのだ。
義勇だけではなく炭治郎や善逸や伊之助に対しても、彼女は同じように回復を祈り続け今日に至っている。

看護士たちの献身的な治療や夜な夜な顔を出す愈史郎の協力もあり、ようやく義勇の容体が落ち着いたのは数日前のこと。
ナマエは離れた病室で、ひたすらに彼の無事を願うことしかできず不甲斐ない自分に何度も涙したものだ。

それでも、万全な状態になるまで無闇に起き上がるようなことはしなかった。
一日でも早く身体を治し、自分の成すべきことをするために。
それこそ、常に側にいなくとも同じ想いを抱きそれぞれが成すべきことをするという、今の義勇と自分の生き方だと考えていたからだ。

「きっと、もうすぐ目を覚ましてくれますよ」

深刻な顔で義勇を見つめるナマエに向け、禰󠄀豆子が呟く。

「だってこんなに素敵なひとが待っていてくれるんですから」

禰󠄀豆子の顔を見るナマエは目を丸くしていた。

「義勇さんは私の命の恩人なんです。ナマエさんは、私をお兄ちゃんのところへ導いてくれました」

驚くナマエにくすりと笑い、禰󠄀豆子は続ける。

「お二人のおかげで私は今こうして生きていられるんです。本当にありがとうございました」

そう言って頭を下げる禰󠄀豆子。
ナマエはとんでもないと彼女を諌め、炭治郎と禰󠄀豆子がいなければ鬼殺隊は無惨に打ち勝つことができなかったのだと話した。

「あの日、義勇さんが私の首を切らないでくれたことが全ての始まりなんです」

禰󠄀豆子は朧げな記憶を辿りながら、冷たかった雪の感触や兄を守ろうと必死に庇ったことを思い返す。

義勇からその時の話を断片的には聞いていたナマエは、羽織を撫でていた手を彼の額に移した。
触れた肌は未だに平熱とは言い難い熱さで、彼の身体が今必死に戦っていることを物語っている。
それでも彼に血が通っていることが感じられて、ナマエの気持ちは幾分か落ち着いた。

「こんなにかわいい子が待っててくれるんだから、早く起きて羽織のお礼をしてくださいね」

そう言って彼の額から瞼を一度撫でる。愈史郎からは、峠は越えたのであとは義勇がどれだけ生きたいと願うか次第だと言われていた。

「そういえば、ナマエさん」

ふと、思い出したように禰󠄀豆子が着物の懐に手を入れる。
手を出すよう促されたナマエの目の前に、禰󠄀豆子が差し出したのは菫色の宝石が光る髪留めだった。

「義勇さんの羽織から出てきたんです。私を先導してくれているナマエさんが付けていたのを見たから、すぐ分かりました」
「これ……無くしたと思ってた……」

ナマエは禰󠄀豆子から髪留めを受け取ると、菫青石を額に当て瞳を閉じる。
目を覚ましてすぐにこの髪留めが無いことに気がついたが、瓦礫処理をした隠に聞いても誰一人として目撃した者は見つからなかったからだ。

「諦めたくはなくて、もう少し歩き回れるようになったら探しに行こうと思ってたの」

「昨日直し終わった羽織を広げるまで気がつかなくて……遅くなってしまってごめんなさい」

頭を下げる禰󠄀豆子だったが、ナマエは慌てて彼女の肩に触れると顔を起こさせる。

「とんでもない!見つけてくれてありがとう、禰󠄀豆子さん」

ナマエは改めて髪留めを胸に抱きしめる。

「義勇さんが持っててくれたんだ……」

見れば髪留めは所々傷がついていたが、幸い壊れてはいないようだった。

──この髪留めだって無事に戻ってきてくれたのだから。

ナマエは心の中だけでそう呟く。続く祈りは、一つだけだ。

「素敵ですね、その髪留め」

隣で見守っていた禰󠄀豆子の視線は、ナマエの手の中に注がれていた。

「選んだ義勇さんが、どれだけナマエさんのことを大切に思ってたから分かります」
「そうなのかな……?」
「はい!それはもう!」

ニコニコと屈託のない笑顔を浮かべる禰󠄀豆子に、ナマエは心の奥の不安な気持ちが解されていくのを感じる。

「これね、お礼にいただいたの。あの頃はまだ、彼が私のことを好きになってくれるなんて思いもしなかったな」
「そうなんですか?きっとナマエさんのことを想って選んだんだと思いますよ。とても似合ってましたもん」
「ありがとう、禰󠄀豆子さん」
「義勇さんが目覚めたら、その辺りのこともちゃんと話してもらわないとですね!」

楽しそうに笑う禰󠄀豆子は、きっと義勇もその時から無意識とはいえナマエを好いていたのだろうと考える。
その真相は、聞けばきっと話してくれるだろうと信じていた。

「教えてくれるかな。口下手な人だから」

照れ隠しなのか、そう言ったナマエは困ったように眉を下げる。
禰󠄀豆子は絶対話してくれますよと返して、表情の変わらないままの義勇を見た。
ナマエもそれに釣られて彼の顔を見下ろし、あの長い手紙のことを思い出す。

「……ふふ。でもそうだね。手紙には、あんなにたくさん書き綴ってくれてたから」
「手紙?」

首を傾げる禰󠄀豆子に、ナマエは義勇が落とした手紙の話をしてみせた。
勿論、恥ずかしいのでその内容までは口にしなかったのだが。

禰󠄀豆子は義勇のことを朧げにしか覚えていないものの、兄から聞いた話を元に硬派な男だと言う認識を持っていた。
それは間違っていないものの、懸想する女性の好きなところを手紙にしたためるような印象は無かったので彼女は大層驚いている。

「なんて情熱的な方!でもお兄ちゃんのことも最後まで止めようと身体を張ってくれたし私のことも見逃してくれたし、本当はとっても熱い人なんでしょうね、義勇さんは」

彼が真水のように冷たい人間であったなら、禰󠄀豆子も彼女の兄も今まで生きてはいないだろう。

「そうだね……一見冷たいようなのにとても熱くて、つれないようでいて本当はとても優しい」

ナマエは再び彼の顔に手を伸ばすと、お世辞にも血色が良いとは言い難い頬をそっと包み込んだ。

「私が、彼を好きになった理由の一つだよ」

禰󠄀豆子はしばらくナマエの様子を見守ってから、小さく頷く。

「早く、意識が戻ると良いですね」
「……うん、ありがとう禰󠄀豆子さん」

それから禰󠄀豆子は、兄や兄の仲間たちの様子が気になるからと部屋を後にした。
繕った羽織はそのまま義勇の掛け布団の上に広げてある。

ナマエはその二つの柄を眺めながら、義勇を守った二人に向けて祈った。
どうか彼を助けてください、と。
それから義勇の頬を撫で、一人静かな部屋の中で彼女は禰󠄀豆子との話を思い返す。

義勇を好きになった理由。
彼が自分を好いてくれる理由。
もし彼が目覚めた後も同じ気持ちでいてくれるなら、その先のこと──。

「義勇さん、私は……」

今ナマエの指が滑る彼の頬には、あの波飛沫のような痣は見えなくなっている。
無惨を倒しもう呼吸を使う必要が無くなったからなのか、それとも集中的に力を使いすぎたからなのかは誰にも分からなかった。

痣があったはずの場所を指先でなぞってから、ナマエは一度深く息を吸い込む。

──もしあなたが何を思おうとも、私の気持ちはずっと変わりません。

一度は諦めかけていた恋心。
しかしようやく通じ合ったそれを簡単に変えられるわけはない。

ナマエは、ぴくりとも反応しない義勇の顔にかかった長い髪を払ってやる。
そうしてそこに顔を近づけ、青白い頬にそっと口付けた。

 
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