7-2


「なぁ相棒、どっかで犬の鳴き声してねぇか?」

 社長室をあれだけくまなく、鉄骨の下など何回見たか分からないくらい確認しても社長の姿は見つけられなかった。
 それで仕方なく他を当たろうと69階へ戻る階段に差し掛かった時、怪訝な顔をしたレノが言う。

「犬?」

 そう言われておれも耳を澄ましてみる。
 すると確かに、外に響くサイレンよりは近くで犬がしきりに吠えていた。しかしその声も徐々に弱くなっていく。

「外じゃねぇよな?」
「ああ、ビルの中だ」
「犬……一匹だけ心当たりがあるぞ、と」
「おれもだ」

 そう言ってからのおれ達は早かった。
 階段をほとんど飛び降りるように駆け下りて、社長室に負けず劣らずめちゃくちゃになった69階のエグゼクティブフロアーーだった場所に降り立つ。
 一面の窓ガラスが割れて、外からは上空の強い風が吹き込んでいた。

「なんでこんなに機械が置いてあるんだぁ?」

 普段は何もない筈のこの辺りは、乱雑した鉄骨やガラス片に塗れてデスクや椅子、モニターやパソコンだった物が散らかっている。
 来るときは必死で上を目指すあまり周りを見ている余裕すらなかったので気付かなかった。
 
 進んでいくと、剥がれ落ちた天井やガラス、壁の破片が重なった山が出来ていた。

「……ァオーン」

 その山が僅かに動くとともに、掠れた犬の鳴き声が聞こえてくる。

「あそこだ!」

 おれもレノも倒れた機器や建材の山を飛び越えてその鳴き声の元へ走った。
 そしていくつも重なった建材の破片を必死でどかしていくと、ようやく何か温かい、柔らかいものに触れた。

「お前……」
「やっぱりダークネイションじゃねーか!」

 そこに伏せて荒い呼吸を繰り返すのは、社長の護衛を務める軍用犬だった。
 まさかこの下に、と思ってさらに必死で壁のパネルだったと思われるものを避けていくと、社長のものとは違う、明らかに女のものと思われる腕が見えた。

 女の手首には、金色の華奢な鎖とそこに連なる薄青の石が光っている。
 このブレスレットには見覚えがあった。

「ナマエだ!」

 どうやら同じことを考えていたらしいレノが慌ててダークネイションを抱える。

「重てぇ! ルード、頼む!」
「任せろ」

 力仕事が得意というわけでもない相棒には、この筋肉の塊みたいな軍用犬は無理だろう。おれでさえ一人で持ち上げられるか分からない。

 おれ達は下にいる女を潰してしまわないよう慎重にダークネイションを持ち上げる。
 どうやらこの犬は落ちてきた天井の建材をまともに背中で受け止めたらしく、大分傷ついているようだ。

「おい、ナマエ! しっかりしろ!」

 ようやくその身体が現れたナマエーー兵器開発部門の社員で、社長の恋人でもあるーーは、苦しげな表情で硬く目を瞑っている。
 隣でレノが息を飲んだ。

 おれはナマエの隣に屈み込んで、煤だらけの首筋に指を当てる。

「生きている」

 そう言って見上げると、レノが安堵の溜息を漏らすのが見えた。

 死体なんて見慣れているおれ達タークスだって、親しい人間のなんて誰だって見たくないだろう。
 そうとは言っても、見たところダークネイションの身体で覆いきれなかった手足を負傷しているし、建材に埋もれていたから酸欠状態で気を失っている可能性が高いので油断はできない。

「とりあえず病院だな、と。でもよぉダークネイションは……動物病院で良いのか?」

 ビルがめちゃくちゃになった状態の今、科学部門のフロアには足を踏み入れたくない。何が襲いかかってくるか分かったものではないからだ。

「分からん。とりあえず運び出さないと」
「だな。よっ……社長、今回だけは勘弁してくれよな、と」

 怪我人を肩に担ぐ訳にもいかないと、レノはナマエを慎重に抱き上げる。
 勿論下心があってこうしている訳ではないし、骨折している可能性もあるのだから四の五の言っていられない。

「こっち、お前一人で運べそうか?」

 レノはそう言いながら、横たわるダークネイションを見る
 この非常事態にエレベーターは動いていない。ということは、この巨体を一人で背負って、おれは69階分の階段を下らないといけないということになるのか?

 おれが腹を括ってダークネイションの元に屈み込んだその時、誰かがよろよろと立ち上がる気配がした。

「ゲホッ……ったく、一体何だったんだ……」

 立ち昇る土埃の向こうに姿を現したのは見覚えのある顔だった。
 今では数少ない、それなりに古株のソルジャー。名前は確か……カンセルだったか。

「お前ら、タークスか……?」

 倒れたデスクに手をつきながらこちらに歩み寄ってきたカンセルは、レノを見て目を丸くした。

「ナマエさん! あんたたち、ナマエさんを助けにきたのか?」
「社長を探しにきたんだが、代わりにナマエを見つけたとこだぞ、と」
「社長、上にいなかったのか? おかしいな……」
「ああ……で、お前は?」

 リーダー格のソルジャーならこのくらい話しても問題ないだろうと判断したらしいレノが答える。

「俺はナマエさんと一緒にここでシスター・レイの発射作戦に入ってたのさ。だけどウェポンの攻撃が来て……まともに受けちまったらしいな、情けないけど気を失ってた」

 ウェポンの攻撃をまともに受けて気絶で済む方がおかしいが、さすがはソルジャーと言ったところか。
 カンセルは次におれを見て、おれが何をしようとしているかを察したらしい。

「それ、社長の護衛犬じゃねえの? もしかして怪我してるのか?」
「……ああ」
「アンタ一人で運ぶのか?」

 おれはしばし無言になる。
 するとカンセルは腕を回して肩を鳴らすと、おれの横にしゃがみ込んだ。

「手伝うよ。今俺に出来ることはこのくらいだからな」
「たのむ」

 早いところ下に戻って、社長を探しにいかないと。

 おそらく社長はナマエを守るために、わざわざこの頼れる護衛を自分から離れさせたのだろう。
 そんな社長の気持ちを考えれば、ナマエもダークネイションも、どちらも必ず無事に彼の元に返さないといけないと思った。


「ルード! レノ!」

 一階の非常階段出口に着くと、エントランスの方から声をかけられる。
 忘れかけていたその声は懐かしい響きだ。変わったところといえば前はおれ達同様首から下は全身真っ黒だったのに、随分ラフな格好になっているという点くらいだろう。

「よ! 迎えサンキューな、と」
「ツォンから聞いてびっくりしたわ。ミッドガルに来てて良かった」

 そう言ったかつての同僚ーーシスネは、レノの腕の中のナマエを見た。

「任せてもいいか?」
「ええ、外に病院のスタッフを待たせてるわ。科学部門の社員も見つけておいたから」
「仕事が早くて助かるぞ、と」

 カンセルと二人がかりで汗だくになりながらここまで運んでいたダークネイションも、どうやら診てもらうことになっているらしい。
 
 シスネに案内されて、おれ達はエントランスまでナマエたちを運ぶ。
 今朝までは社員や取引先の人間で賑わっていたそこは瓦礫塗れで、これがあの神羅カンパニーの顔とも言える場所なのかとおれは目を疑った。

「あんた、生きてたんだな……信じられねぇんだけど」

 俺の後ろで一緒にダークネイションを抱えたカンセルは、シスネを見て目を見開いている。
 ソルジャーとタークスなら知り合いといってもおかしくない。どうやらカンセルもシスネにとってその一人のようだ。

「ええ。だから恩返しをしに来たのよ」

 そう言ってウィンクしてみせるシスネに、どこか柔らかい雰囲気になったなと思わさせられる。

 どういう訳か詳しいことは知らないが、昔の仲間たちが集まるのは悪くない。
 ツォンさん曰く、"昔馴染みの二人"のおかげらしいが、シスネが言っていることも事実なのだろう。
 タークスがいまも存続しているのは、社長のお陰なのだから。

 エントランスで待っていた病院スタッフとシスネにナマエとダークネイションを任せ、おれとレノは社長の捜索に戻ることにする。
 カンセルは零番街の救助活動に参加するらしい。おれからしても驚くタフさだ。


「なぁ、ナマエさんって社長と……」

 別れ際、カンセルはストレッチャーで運ばれていくナマエを横目にぼそりと呟く。

「なんだぁ? 言っとくけど間に入る隙はねぇぞ、と」

 レノが威嚇する猫みたいに背中を丸めた。
 カンセルは慌てて両手を目の前で振る。

「いやいやいやそうじゃないって。俺、社長の事見直したわ。いざって時になかなか自分の護衛を手放すって出来ないだろ?」
「ま、そんだけ惚れてんだろ」
「……社長、無事だと良いな」

 レノの言葉を噛みしめるように、カンセルはじっとナマエが運ばれていったエントランスの先を見つめた。

「爆撃が来るまでは確かに社長室に居たはずなんだよ。爆風が凄い中でも、最後までナマエさんの名前呼んでたのが聞こえたから」

 おれもレノも多分、揃ってその瞬間を想像しているに違いない。
 本当に社長は、それだけナマエに惚れてるんだな。

「相棒、行くぞ」
「おうよ相棒。じゃあなカンセル、生きてりゃまた会おうぜ、と」

 おれはレノと顔を見合わせて頷き合う。
 レノはカンセルに片手を振って歩き出した。

「ああ、必ず!」
「社長のことは言うなよ? あとで怒られっぞ。主に女の方に」

 最後にレノがそう言うと、カンセルは一瞬キョトンとしたあと肩を震わせて笑い出した。
 これは、レノが後々怒られるやつだな。



 長い夢を見た。

 社長室から脱出する為の空調ダクトの中で回想したような、人生の走馬灯ともいえる光景だった。

 母を亡くし、父から叱咤され、弱さや甘えなど早々に捨て去ったまだ幼い俺。
 そんな俺はまるで水に溺れた様にもがき、苦しみ、遠くから差し込む僅かな光を目指して手足を動かし続けた。

 誰も助けてくれない。助けなど借りてはいけない。
 父からそう教わり、そうある事を求められた。

ーーぼくはひとりだ。ひとりでも、大丈夫だ。

 一向に近づかない光に手を伸ばすと、毎日見ているはずの俺の手は記憶しているものと比べて……随分と小さかった。

 ああ、俺は夢の中で子供の頃の姿になっているのかと気付く。

 今日の今日まで何年も思い出すことが無かった数々の記憶。
 ウェポンの攻撃で破壊された社長室から辛うじて脱出しシェルターまで落ちていく最中。そして辿り着いたシェルターで鎮痛剤を摂取しレノ達の助けを待つ間。
 何故か昔のことばかり頭をよぎって、俺は自分が"ただの男の子"だったことを思い知らされたばかりだった。

 そんな俺の視線の先に、黒い影たちが現れる。大丈夫だ、これは俺の敵ではない。

ーーツォン、レノ、ルード、イリーナ!

 遅いぞ、と彼らを呼ぶために声を上げるも、水中で声など出るはずもない。
 ゴボ、と空気だけが漏れて、不快感から俺は眉を顰めた。

 なんだこの夢は。
 それともまさか、俺は死んでしまったとでも言うのか?
 本社がめちゃくちゃに破壊されて、誰も彼もが危険な目に遭っている中で一人安全なシェルターで薬も摂取できたし休むことができたのに、助け出された後に今更?

……否。そんなわけはない。

 俺を見つけ出したのはタークスだ。
 となれば、俺は確実に助かったはず。
 奴等は必ず任務を遂行する。何故ならタークスだからだ。

 そう思った瞬間、俺に背を向けていた四人がこちらに振り向いた。
 そして彼らはその場に止まり、俺が追いつくのを待つ。
 俺は不思議なほど身体が軽くなって、ひと掻きするだけで大きく前に進んだ。
 いつの間にか、俺の身体は今と寸分違わぬ成人したものになっていた。

 彼らの元に辿り着くと左にはツォンとイリーナ、右にはレノとルードといった順に並んで俺を囲む。

 なるほど。確かに俺は、ひとりではなかったな。

 先程幼い俺が嘆いた言葉を大人の俺が否定する。
 いや……幼い俺は知らなかっただけだ。
 あの頃は確かに、ひとりだったから。

 不意にタークス達が広がって俺から距離を取る。
 何事かと彼等の顔を順に見れば、皆晴れやかな表情で俺を見ていた。

(なんだ?)

 最後にツォンのところで視線を止める。
 十五年来の腐れ縁であるツォンは、俺と目が合うと軽く頷いてから前方に顔を向けた。

 その視線の先にあったもの。
 俺に背を向けて両手でゆるく水を掻きながら漂う後ろ姿は、他の誰のものでもない、たった一人の女。

 そうだ。
 俺にはお前がいる。
 お前がいなくてはならない。

 その名を呼ぼうと口を開くと、何の味もしない水が止めどなく流れ込んでくる。
 せめてもと片手を伸ばしても彼女が気付く様子はない。しかし何かを探して、しきりに顔を動かしているようだった。

ーー待て!

 まさかひとりで行くというのか?
 そんな事は許さない。俺を置いていくな。
 お前にはまだ、伝えなければならないことが山程あるのだから。

 ……違うな。
 伝える伝わるなどどうでも良い。そんなことは些末な事だ。

 俺はただお前と共に在りたい。
 
 俺と共に在ってほしい。

 お前のいない人生など、考えるだけでもひとりきりよりずっと辛かった。一度知ってしまった幸福を、忘れろと言われて出来るわけない。
 俺はもう、お前を知らない頃の自分には戻れないのだから。
 
「ナマエ!」

 自分がこんなに懇願するように悲痛な声を出すことが出来たのだと、俺はこの時初めて知った。
 そしてそんな自分自身の叫び声によって、俺は病院のベッドで目を覚ましたのだった。

 身体中が軋んで、頭が痛い。
 
 オヤジが秘密裏にこさえていた社長室の非常脱出口からシェルターという名の負け犬ーーオヤジ曰く"Loser"のための部屋ーーに落ちて、レノ達に発見されたところまでは覚えている。

 そうだ。確か答えを知らず開けるのに手間取ってしまった、あのシェルターの扉のパスコードは俺の誕生日だったのだ。

 何故だ?

 オヤジが決めたであろうパスコードは、俺にとって意味のある数字であってはならなかったのに。
 少なくとも、俺の中では。

 
 薄暗い病室の中で僅かな気配の方に顔を向ければ、俺が横たわるベッドの傍らに佇むツォンが、これまで見たことないほど酷く心配そうな表情を浮かべている。
 そう言えば俺は先程大声を出して、それによって目覚めたのだった。

「……そんな顔も出来たのだな」

 苦し紛れにそう呟いた俺の言葉に、ツォンは一言こう告げる。

「……同じフロアにおります。車椅子に乗れるようになれば、お連れしますので」
「無事……なんだな?」

 ツォンが頷くまでの僅か数秒、俺はこんなに生きた心地がしなかったことは無い。

「社長よりは軽症ですが、鎮痛剤の影響でずっと眠っています。常人ですから」
「……そうか」

 ナマエも俺もなんとかライフストリームの住人にはならずに済んだようだ。
 彼女のことはおそらくダークネイションが守ってくれたのだろう。

「ディーは?」
「科学部門の社員が怪我の処置をしています」

 俺はそこでようやく、一度安堵の溜息をついた。

 だがまだ事態が全て解決したわけではない。
 セフィロスもメテオもまだ消えていない。相変わらずこの星は脅威に晒されたままだった。

「ツォン、今すぐ車椅子を」
「さすがに無理です! 肋骨だけでなく踵も折れているんですよ」
「それがなんだ」
「絶対安静と言われています!」

 頑なに首を縦に振ろうとしないツォンに俺は鋭い視線を投げかける。こんなことでは動じない奴だということも知ってはいるが、俺かて簡単には動じない。

「ツォン、社長命令だ」

 我ながら卑怯だと思う。この身を心から案じてくれている部下は、隠しもせずに顔を歪ませた。
 
「一度だけで良い。頼む」

 生憎俺もツォンの睨みに怯むような性分は持ち合わせていない。
 やがて呆れたと言わんばかりに肩を竦めたツォンは、一度だけですよとぼやきながら病室を後にした。


「廊下におりますので」

 そう言ってツォンは部屋から出ていく。
 車椅子の世話になった俺は、目の前で点滴を打たれながら眠るナマエを眺めた。

 こうしてナマエの寝顔を見守るのにも随分と慣れたものだ。
 だがすぐ目の前にいる無防備なナマエに触れることすら出来ないのは、初めての経験だった。
 

 打てる限界までの鎮痛剤を打たれ、それでもツォンの手を借り車椅子に移るだけで身体中を激痛が襲った。
 奥歯を食いしばってなんとか呻き声は上げずに耐えたが、額や背中にはじっとりと汗が浮かんだ。
 ツォンはそれ見たことかと諌めるような視線で俺を見たが、それには口の端を上げて答えてやった。
 そして長い溜息を一つして俺の背後に回ったツォンがゆっくりと車椅子を押し、静まり返った廊下を抜け、ようやく俺はナマエの病室まで辿り着くことが出来た次第だ。


 ナマエの入院着から覗く腕や足の甲に巻かれたギプスや包帯が痛々しい。
 自分はもっと巻かれているが、身体に感じる苦痛よりも今心に感じているものの方が正直辛かった。

 車椅子から立ち上がるどころか腰を浮かせることすら叶わず、なんとか手を持ち上げて伸ばしても後少しのところで届かない。

 まるであの夢と同じだ。
 
 これはまるで俺に与えられた罰だと思って、乾いた笑いが浮かんだ。
 
 
 本人が望んだこととは言え、危険だと分かっていて結局ナマエを止めなかった。
 そもそも彼女は俺のためにその身を危険に晒すことさえ厭わなかった。それに甘んじたのは他でもないこの俺だ。

 俺に関わらなければ。
 俺が焦がれなければ……。
 ナマエが傷つくことは無かったのだろうか。

 
 その時ナマエが僅かに身じろぎする。
 反動で胸の上でゆるく握られていた手が開かれたとき、俺はその中にあった物に目を奪われた。

 それは大粒のダイヤモンドが輝く指輪。俺がナマエに預けた、今は亡き母親の形見だった。
 両親の婚約指輪はゴールドの華奢なチェーンを通され、ナマエの首にかけられていた。

 この指輪は、実は私室で保管しておくことに抵抗があってずっと会社のデスクの奥に仕舞い込んでいたものだ。
 我ながら親に対して感情を拗らせていたとは自覚している。
 それは父親だけでなく、あいつを愛し、その結果あの男の子供ーー俺を成した母親に対しても。
 
 父親とは違い、母親からは愛されていた自覚もある。
 だからこそ、この形見を渡すべき相手が現れるまでどう扱って良いのか俺には分からなかったのだ。

「お前が現れなければ、あの部屋と共に粉々になっていたかもしれないな」

 俺が持て余していたのは、あの指輪だけではなくそこに込められた数々の想いそのものだった。
 だがナマエはいつもこうして、俺が躊躇い迷う気持ちを軽々と掬い上げる。

 あんなに扱いに困っていた筈だったのに、失ったかもしれない可能性を思うと苦しくなった。
 俺もただのーー親への想いを捨てられない、ひとりの人間だったというわけだ。

 それを気づかせたのはナマエで、そこから俺を救い出したのもまたナマエ。
 俺に遺された数少ない母の形見ーー母と父の想いの形は、ナマエによって守られたのだから。

「……ありがとう」

 気付けば、膝の上で握り締めた拳の上に温い感覚があった。
 何かと思えば、そこに一粒落とされていたのはとうの昔に失われたと思っていたもの。

 涙だった。

 目尻から頬を伝って落ちたのはたった一筋。
 だが幼い頃に枯れ果てたと思っていたそれは、確かにまだ俺の手の甲に残っている。

「ありがとう、ナマエ」

 そっと呟いた言葉はナマエの耳には届いていない筈だ。
 だが僅かにその表情が和らいだ気がしたのは、ただ俺がそう思いたかったからなのか分からない。

 何故お前を抱きしめることができないのだろう。
 こんな俺を、目を覚ましたお前はどう思うのだろうか。

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