迂闊だった。
彼女はいつも毅然と職務をこなすものだから、甘えてしまっていたのかもしれない。
ナマエならやってくれる……難しい任務でも逃げずに完遂してくれる、と。
その身体が崩れ落ちる瞬間はまるでスローモーションのように見えて、俺は慌てて駆け寄りなんとかナマエが魔晄炉の硬い地面に頭を打つことだけは避けることができた。
だが俺の腕の中でだらりと力の抜けた彼女の蒼い顔を見た時、込み上げてきたのは俺自身への怒りと自責の念だった。
彼女が呼吸をしているか確認できるまでほんの一瞬だったが、冷たい汗が俺の額に滲んだのが分かった。
つい先日、彼女を失うことへの恐れを実感したばかりだというのに。
……この俺が、何かを恐れるだなんて思いもよらなかったはずなのに。
ナマエの側では巨大な石が青く輝やいている。それはまさに、我々が求めたヒュージマテリアだ。
モンスターの襲来する中、なんとかそれを魔晄だまりの奥底から取り出すことに成功したナマエだったが、作業完了を告げると同時にその場に倒れてしまったのだ。
「衛生兵はいるか!」
「はっ!」
俺が声を上げるとちょうど衛生兵はこちらに向かってきていたらしく、目の前に駆け寄ってきたところだった。
兵士は慣れた手つきでナマエに回復魔法をかける。すると僅かではあるが、彼女の蒼白だった顔色に血の気が戻った気がした。
「熱はありませんね。疲労によるものでしょうが、少し……魔晄に当てられた可能性もあります」
ナマエの熱や脈を測ってから、衛生兵は緑に輝く魔晄だまりに目をやる。
「気化する魔晄が及ぼす影響は大したものではありませんが、疲労が溜まって免疫力が落ちていると何かしらの作用があるかもしれません」
「魔晄中毒なのか!?」
「い、いえ! そこまでの症状ではなさそうです。一時的に脳に負担がかかった可能性はありますが……」
あまりの俺の剣幕に、衛生兵は少したじろいだ。
もしもナマエを魔晄中毒になどしてしまったならば、俺は絶望に打ちひしがれてしまったかもしれない。
自分の辞書に絶望などという言葉が載っていたとは、この時まで思いもしなかったが。
「とにかく、ナマエさんには休息が必要でしょう。痛みがあるようにも見えないので、とにかく休ませて様子を見るしか……」
「……だろうな。分かった、もう下がっていい」
「はっ!」
「では担架を取りに行かせます!」
短く敬礼する衛生兵と入れ替わりに、警備兵の隊長が言う。
しかし俺は手を伸ばしてそれを静止した。
「良い。私がおぶっていく」
「え……社長が、ですか?」
隊長はあからさまに驚いた声を上げる。まあその心境は理解できるので、咎めはしない。
「お前達は周囲の警戒にあたれ。なに、女一人担いで下山できないほどひ弱な私ではないぞ」
「は、はい! 失礼しましたっ!」
隊長の手を借りてナマエを背中におぶると、俺は立ち上がる。
兵士達は慌てて隊列を組み直すと俺の周りに並んだ。
側から見たら面白い構図だろうと思う。
だがいくら命に別条は無さそうと言っても気を失ったナマエが心から心配だ。一刻も早く休ませてやらないといけない。
疲れていたのは知っていたはずなのに無理をさせてしまったのは、他でもないこの俺なのだから。
愛する女一人守りきれずに、何が世界のトップだ。
不甲斐ない己に反吐が出る。
下山してすぐ、ニブルヘイムの村で昔宿屋だった建物を空けさせた。
幸いこの村は神羅カンパニーの息がかかった場所だ。
家を管理する男は兵達の要求に初めの内訝しがっていたようだが、俺の顔を見た途端逃げるように他の民家に飛び込んで行った。
ナマエを背負ったまま二階に上がると、付き添っていた兵士に客間のドアを開けさせる。
「ごくろう。後は私だけで平気だ」
「はっ! かしこまりました!」
「お前達はヒュージマテリアをロケット村に運ぶ隊と、ここに残る隊に分かれるんだ。残る者は隣の家を借りるよう隊長に伝えろ。明日の朝まで待機だ」
「了解です!」
俺からの指令を隊長に伝えるべく、その若い警備兵は階段を駆け下りていった。
部屋に入ると、長らく使用されていないであろうベッドへ慎重にナマエを下ろす。
前にも熟睡してなかなか起きなかったことがあったが、今回はあの時以上に疲弊して具合も悪いだろうから、当然ナマエが起きる気配はなかった。
思っていたよりも部屋は掃除されていて、幸いなことにベッドから埃が舞い上がるようなことはない。
管理人の男が几帳面なのか、時々訪れる旅人から宿泊代でも取るためなのかは俺の知ったことではないが。
回復魔法のお陰か魔晄炉から出たお陰か、ナマエの顔色は最初よりだいぶ良くなっている。
おぶっている間も、ただひたすら死んだように眠っていると言う感じで、うなされたりしている様子はなかった。
仰向けに寝かせたナマエの顔をじっと眺めてみる。
見た目だけなら、もっと美人なーーそれこそ女優やモデルのような女だって俺ならば選ぶことができる。
育ちだけなら、もっと裕福な、大口取引先の令嬢達からの見合いの話だって腐るほどある。
だが、側に置くならナマエが良い。
いや……ナマエでないと駄目だ。
上っ面だけの……それこそ身体だけ、愛でるだけの関係など真っ平ごめんだ。
俺に流れる血の半分はそれを当然のように己の一部としていたようだが、俺は生憎オヤジとは違う。
たった一人、その全てを愛おしいと思える女だけで良い。
ありふれた平凡な普通の男と同じで、生涯に一人、金や権力でどうこうできるものではなく心だけで繋ぎ止めておける存在。
俺にとってそうあって欲しいと、願ってやまない女。
それが、ナマエ・ミョウジだった。
目の前で固く目を瞑るそのナマエは、事あるごとに俺の役に立ちたい、支えたいと言っていた。
もうとっくに、ただそこにいるだけで俺を支えてくれる存在になっているというのに。
「何故お前はそんなに一生懸命になってくれるのだ」
そっと手を伸ばして彼女の額に触れる。
少しだけ汗ばんだそこに指先を当てて、手を広げれば簡単に頬まで包み込むことができた。
「……ぅ、ん……」
ナマエが小さく身動ぎして、俺の普段は相当なことがない限り乱れることのないはずの鼓動が僅かに跳ねる。
「しゃ、ちょ……」
薄らと目を開けたナマエだが、寝ぼけているのか焦点は合っていない。
「ナマエ、起きたのか……?」
様子を伺う為に少し顔を近づけると、ぼんやりとしながらナマエも俺に顔を向けた。
先ほどから胸の奥が騒がしい。
ナマエはゆるりと左手を伸ばす。
その手首には、俺がプレゼントしたブレスレット。
アクセサリーの類はこの目で見て触れて選びたかったから、軟禁されている間にはあえて贈らなかった。
ナマエの手のひらが俺の頬に触れる。その目は、未だに彷徨っているようだった。
彼女はやはり寝ぼけているらしい。ナマエがそのまま何も言わないので、俺は彼女の額に触れていた手を引くとその俺よりも小さな手に重ねる。
するとナマエは少しだけ表情を緩めて、また目を瞑ってしまった。
「……眠り姫め」
コスタで半ば無理矢理元オヤジの別荘に泊まったあの日を思い出す。
子供の頃母から聞いた御伽噺では、長く深い眠りについた姫君は、どうやってその目を覚ましたのだったろうか。
吸い寄せられるように、ナマエの手に頬を包まれたまま俺は彼女の鼻先まで顔を寄せる。
規則正しい寝息が、垂れた俺の前髪を揺らした。
閉ざされたナマエの唇に己の唇が触れる直前、俺はふと我に返って顔を引く。
(俺は今、何を……)
据え膳食わぬは男の恥と言うが、これでは寝込みを襲う暴漢と大差ないではないか。
俺はルーファウス神羅。世界を牛耳る神羅カンパニーの社長。
いつだって余裕で、どんな時もスマートに……そうあるべきと教え込まれ、そう信じて育ってきた。
(愛しているからこそ、だ)
焦らないのが吉。
だが、素直になるのが良いとも言う。
俺は再びナマエの前に顔を寄せると、すっかり顔色の良くなったその頬に軽いキスを落とす。
もうこれ以上、ただ側で見ているだけではいられない。
だが生憎俺は、この感情の表し方をよく知らなかった。
頭の奥がざわざわと騒がしい。
誰かがしきりに話しかけてくるような、しかもそれは一人じゃなく何人も……でも何を言っているかは聞き取れない、そんな感覚だった。
その中で、どこか懐かしい、風に草花の揺れるような音とふわりと笑う優しい声色が、そろそろ起きたらー? と教えてくれた気がした。
だんだんと深い水の底から水面に向かうように、真っ暗だった視界に光が差し込んでくる。
ゆっくりと瞼を開けると、そこは薄暗い空間だった。差し込んできたと思った光は、ベッドサイドに置かれたテーブルランプのものだったようだ。
そこで初めて、私はどうやらベッドで仰向けになっていることに気がついた。
いつの間に眠ってしまっていたのかと、まだ覚めきっていない頭で回想してみる。
(私、ヒュージマテリアの回収をしていたんじゃ……?)
そうだ。確かにマテリアは回収した。
あの青く輝く巨大なヒュージマテリアを魔晄炉の奥底から取り出して、地面に置いたところまでは覚えている。
その前にモンスターに襲われそうになったことも、上から飛び降りてきた社長が守ってくれたことも、背中越しの温もりも……。
そこまで思い出して、私はふと左手だけが温かいことに気がつく。
そこに視線を向けると、私の手は自分のものより大きな掌に握り締められていた。
「社長……?」
その大きな掌を辿った先には、椅子に座って俯く社長の姿がある。
社長は私が寝かされているベッドの横に椅子を持ってきて、そこに座って私の手を握っていてくれたらしい。
彼は俯いているので前髪が被さっていて表情まではよく分からないけれど、規則正しい呼吸音をさせて眠っているようだった。
壁掛け時計に目をやると、時刻は深夜を指している。
魔晄炉に入ったのが夕刻だったはずなので、あれからもう何時間も経ってしまったらしい。
握られた手が熱くて、まるでそこが心臓になってしまったみたいに脈打っている。
この大きな手は、私が作った銃を握り締め、いつだって私をピンチから救ってくれた。
時には優しく髪を撫でて、私を慰めたり勇気付けたりしてくれた。
私は身体を起こすと空いている方の手をそっと伸ばす。
そしてプレゼントしたばかりの黒革のグローブ越しに、彼の節張った手の甲に自分の手を重ねた。
「いつも……ありがとうございます、社長」
きっとまた多大な迷惑をかけてしまったに違いないことは分かる。
自分でも無理をした自覚はあるし、連日の激務を考えればせめてゲルニカで少しくらい仮眠でも取ればよかったと今更思う。
「すみません、助けていただいてばかりで……」
握られた手に少し力が込められた。
私の小さな呟きが耳に届いたのだろうか、社長はゆっくりと顔を上げると薄く目を開ける。
「ナマエ……? 起きていたのか」
「起こしてしまってすみません、社長」
「いや、お前が目覚めたなら良い」
そう言って社長は椅子に浅く座り直す。
「具合はどうだ? 痛むところはないか?」
「はい、もう平気だと思います」
「そうか……それなら良いが」
「ヒュージマテリアは……?」
「あれはロケット村に輸送中だ。お前は職務を全うしてくれた」
社長はまだ心配そうな表情で私の顔を覗き込んだ後、繋がれたままの手に視線を落とした。
「側にいて下さって、ありがとうございました」
私が社長の視線を追ってそう呟くと、彼は握っていた手を一度開いてから指を絡めてくる。
驚いて顔を上げた私は、次の瞬間その手を強く引かれて社長の胸へ飛び込む形となった。
とん、と音がして社長にぶつかると、社長の片腕が回されて強く抱き締められる。
「あの……しゃ、ちょう」
「……感謝なんてするな」
この絞り出されるような声は一体誰のものなのかと思うくらい、社長の声はか細いものだった。
彼の胸板からは、速い鼓動が伝わってくる。なんでか最近、こうして抱き締めてもらうことが多いのは決して気のせいではないはず。
「もっと早く気付いてやれなかった、そんな俺にありがとうなどと言うな。お前がこんなになるまで無理強いしてしまったのはこの俺だ」
どうしてそんな辛そうな声を出すのだろう。
どうして……こんなに強く、それなのに優しく抱き締めてくれるのだろう。
「そんなこと言わないでください……私が社長の為にやりたかったんです。一緒に来てくれるって知って、嬉しくて……」
社長は悪くないのだから自分を責めないでほしいと、私は必死に言葉を重ねる。私がただ、自分を過信した結果なだけなのだから。
「私が迷惑をかけてしまっただけなのに、社長はこうしてずっと側にいてくれたじゃないですか」
「それは、お前が……」
社長はそこまで言って言い淀む。
その先は『頼りないから』なのか『失敗するかもしれないと思った』なのか、それとも……?
「どんな理由だって、ただあなたがこうして側にいてくれた事が嬉しいんです」
私が社長の腕の中でそう呟くと、彼が僅かに息を呑んだ音がした。
だってこれは本心だから。
嬉しかったから、どうか私のせいで自分を責めることなんてしないでほしいと分かってもらいたくて。
隠しておくつもりだったこの想いが伝わってしまったとしても、それでも社長が自分を責めたままなのよりはずっと良い。
私が勝手に彼のためにしたことなのに、そんな風に気負わないでほしいから。
社長の腕が緩んだので、私はゆっくり顔を上げて彼を見上げる。
思い詰めた表情の社長の青い瞳に、私の顔が映り込んだ。
自惚れも良いところだけれど、私の身を案じてそんな顔をさせてしまっているなら、ちゃんと伝えて分ってもらおう。
私はそう、心に決めた。
「社長がいて下されば、それだけで私は頑張れるんです。だって私はあなたが」
……好き、だから。
でも、勇気を振り絞って紡ごうしたその言葉は、突然降ってきた社長の唇に絡めとられてしまう。
キスをされているのだと理解したのと同じくして、私の身体は背中からベッドに沈んだ。
瞬きすら忘れた私の両手には社長の指が絡められ、彼は私に覆いかぶさって深いキスを繰り返す。
私はまるで磔にされたみたいに、その場から動けずにただ熱い唇を受け入れるしか出来なかった。
ずっと憧れていた人が、私にキスをしている。
鼓動が高鳴って、胸が痛い。
そんな風に考えている間も、何度も角度を変えながら、社長の舌先が私の口腔をなぞる。
私はだんだんと頭がくらくらしてきて、何も考えられなくなる。呼吸さえ上手くできなくなって、僅かな苦しさを覚えた私は酸素を求めて身を捩った。
「ん……、はぁっ……」
ようやく社長の唇が離れると私は大きく息を吸い込む。
私の視界には、艶かしく濡れる社長の唇が映っていた。
「……約束は、守れなかった」
そう言って社長は視線を逸らす。
私のすぐ目の前では、彼の垂らされた前髪が揺れた。
「約束……?」
呼吸を整えながら、私は社長とどんな約束をしていたか思い出そうとしてみる。
けれど、まだ頭はまだうまく働いてくれなかった。
私が呆けているのを見て、社長は困ったように笑う。
「全て片付いてから、腹を括って話すつもりだったんだがな」
そう言われて私はようやく、ジュノンで社長と再会したあの夜のことを思い出した。
『どの問題もすぐに解決してみせる。だからその後に……改めてお前に話をしたい事があるんだが』
そう言って柔らかく微笑んだ社長の表情が、鮮やかに脳裏に浮かんでくる。
「お前が悪いんだぞ、ナマエ」
その言葉とは裏腹に、社長の声色は優しかった。
彼は思い出のものと同じ柔らかい笑みを浮かべながら、身体を起こして私を抱き寄せる。
「いや、悪いのは俺だな……自分勝手だとは理解している」
「自分勝手……?」
社長の言葉の意味がよく分からなくて、私はただ彼の言葉を復唱した。
対する社長は、私の肩に手を置いて少し距離を開ける。
そして真剣な目で私を見つめた。
「もうこれ以上、曖昧な関係のままではいられないという事だ」
そう言ったかと思うと、今度はゆっくりと社長の顔が近付いてくる。
それでもあっという間に息がかかるくらいの距離まで近くなって、私は思わず目を瞑った。
やがて唇に温かいものを感じたけれど、今度はすぐに離れる。
目を開けると、社長は形の良い眉尻を下げて私を見つめていた。
少しして、社長は口の端を上げて笑うと、親指で私の唇をなぞる。
「フッ……こんな風に扱われても受け入れるのか?」
社長は私の下唇に親指を当てたまま、人差し指に私の顎を乗せて軽く上を向かせる。
「俺はこの情熱を上手く表現してやることも出来ずに、たった今衝動的にお前を組み敷いたような男だ」
行動と言葉は尊大なものなのに、社長の瞳が僅かに揺れていることが私には分かる。
ずっと見てきたから、少しの変化だって気付くことができるようになった。
本当に、これが自惚れでなければ、だけど。
でももし自惚れだっていい。
気まぐれで、戯れだったとしても、この気持ちを伝えるきっかけを作ってくれたのだから。
「私は……あなたの事が、好きです」
そう告げた私は緩やかに、顎を乗せられたままの彼の手に触れる。
社長の青い瞳がはっと大きく開かれる。
「受け入れるも何も……ずっと前から、社長の事だけを見てきました」
「ナマエ……」
「ずっとずっと、憧れてました。なんとか力になりたくて、支えてあげたくて」
なんとか分かってもらいたくて、じっと社長の目を見つめてみた。
社長の方も瞬きすらせず、ただひたすらに見つめ返してくる。
私は社長が触れていた手を握って、私の顔からゆっくりと離した。
今度は、私から。
言葉だけではきっと伝わらないから。この想いを乗せて。
私がゆっくりと社長に顔を近づける間も、彼はただじっと固まってしまったかのように私を見つめていた。
視界にはやがてそんな社長の青い瞳だけが映って、目を閉じると、彼の薄い唇の感触。
刹那、社長の喉が僅かに鳴った気がした。
軽く触れるだけで、私は唇を離す。
「……これが私の気持ち、です」
「随分と……大胆だな」
こんなことする日が来るなんて自分でも夢にも思っていなかったから、身体中の血が逆流しているのではと思うくらい全身が熱くて、ドキドキする。
私からのキスに虚を突かれた社長は、ようやくそれだけの言葉を発することができたという様子だった。
そんな社長がなんだかとても愛おしくて、私は痛いくらいの鼓動で胸が苦しいのも忘れしまう。
「それくらい、好きなんです」
すると、社長は一度目を瞑ってから深い溜め息をつく。
はしたない女だと思われて、幻滅されたのかもしれない。
私は息を呑んで、彼の言葉を待った。
「物や金を与えることはいくらでもできる」
ようやく社長は目を開いたかと思うと、普段の彼とは打って変わった、張りのない声でぽつぽつと語り始める。
「むしろそれ以外に愛情というものをどう示せばいいのか、俺はこれまで知りもしなかった」
真剣な眼差しは、真っ直ぐに私を見つめている。
「だが、それをいとも簡単にしてみせるのだから……お前には敵わないな、ナマエ」
そう言うと社長はふっと笑って少し頬を緩めた。
その表情に、張り詰めていた私の緊張もするすると解けていく。未だに胸の鼓動は大きいままだけれど。
「お前を守るためには、これまでの曖昧な関係から一歩踏み出さねばと思った。だが、肝心な伝え方が分からなかったんだ」
呆れただろう、と社長は困ったように苦笑する。
「この俺がだぞ? こんなことは、お前が関わる時にしか有り得ない。だが……俺があれだけ強引だったのにお前は受け入れてくれた」
社長の掌が、私の頬を優しく包む。
「今それに応えねば、男ではないな」
こんなに優しい声色は、きっと今までに聞いたことがないはずで。
「愛している、ナマエ」
熱っぽい視線は、私を捉えて離さない。
「正直になろう。俺はどうしようもなく……お前の心が欲しい」
頬から伝わってくる熱が、私の身体中に広がっていく。
私は小さく頷いてみせる。
もう、この想いを伝える為にこれ以上は言葉なんて必要ないから。
息が詰まるほど強く抱き締められて、社長の吐息が私の耳にかかる。
私はゆっくり手を伸ばすと、彼の引き締まった背中に手を回した。
私の一番好きな彼の香りと、そんな彼から貰った私の香りが、混じり合って甘く溶け合う。
「頼まれたって、離してやらないからな」
そう告げた社長の唇が、ゆっくりと私の唇に重ねられた。
深く、何度も。
でもそれは齧り付くような激しいものではなくて、長い間秘めていた想いを伝え合うような、優しいキス。
それでも私は社長から次々と繰り返されるそれを受け入れるのに必死で、縋るように社長の背中に回した手で彼のジャケットを握り締めた。
すると、社長はゆっくり唇を離す。
青い瞳を細めて、彼は困ったように笑った。
「自分で思っていたより、俺の理性は脆いらしい」
酸素の足りない私には、ぼんやりとした頭で彼の言葉をじっと聞くしかできない。
社長はもう一度、今度は私の額に軽いキスを落としてから私の身体を離して立ち上がる。
「もう休め。しばらく倒れていて、目覚めたばかりなのだからな」
私はベッドの上で座り込んだまま彼を見上げた。
「社長……?」
「そんな扇情的な目で見るな……俺はお前を、大切にしたい」
そう言った社長は一度腰をかがめると、さっきキスをしてくれた私の額に手を当ててから頭を撫でる。
「おやすみ、愛しいナマエ。良い夢を」
再び立ち上がった社長は、それだけ言うと部屋から出ていった。
まだ身体中が熱いし思考も上手く回らなくて、私は、ただぼうっと彼が閉めたあともドアを見つめるしかできなかった。