3-5


 コスタ・デル・ソルは相変わらずの日差しで、社長の言う通りこれが休暇での来訪ならどんなに心が躍った事だろう。
 私は港で、運搬船から次々と降ろされる武器や兵器について兵士達に使い方や割り振りの指示をしていた。

 一通りやるべき事を終えて船から離れると、社長はハイデッカー統括と何か話しているところだった。統括に向ける彼の視線は厳しいもので、ハイデッカー統括はペコペコと頭を下げている。

 やがて港の端にあるヘリポートに一台のスキッフと呼ばれるヘリコプターが着陸した。
 どうやらここから社長はあのスキッフに乗り換えて更に別の場所に向かうらしい。

 さて私はどうやってジュノンに帰ろうかと思考を巡らせる。運搬船がジュノンに戻るのは夜になるらしく、それまでコスタで待つしかないのだろうか。することもなく一人でリゾート地というのは精神的に辛い。
 無理矢理連れてきたのだからハイデッカー統括になんとかしてもらいたいところだが、そんな文句を言えば何をされるか分かったものではない。

「ナマエ」

 私が悩んでいるといつの間にか後ろに社長が立っていた。

「社長、そろそろ出発されますか?」

 とりあえず社長をお見送りしようと歩み寄ると、社長は運搬船と私を見比べて言う。

「すぐには戻れないのだろう? どうせなら俺と共に来ないか」
「社長と一緒に、ですか?」

 社長は頷くと、ヘリポートに停まっているスキッフを顎で示す。

「安心しろ。ハイデッカーは置いていくから」
「でも、私が一緒に行って大丈夫なんですか……?」

 彼がどこまで行くか分からないが、私が足手まといにならないか心配になる。

「危険な所に行く訳ではない。どうせ運搬船も夜まで動かないからただ待つより良いのではないか?」

 そう言われれば、コスタで一人時間を潰すより社長と一緒に居られる方が良いに決まっている。

「お前の上司には連絡してやるから、ナマエが気にすることは何も無い」

 社長は私の顔を見て肯定と捉えたのか、行くぞと言うとスキッフに向けて歩き出す。
 少し離れたところで待っていたハイデッカー統括は、怪訝な顔で私を見ていた。

「彼女は私に同行させる。君には期待しているぞ、ハイデッカーくん。あとは頼んだ」
「……はっ」

 腑に落ちないと言った表情のハイデッカー統括だったけれど、社長にそう念押しされて渋々引き下がる。

「気にするな。当たり散らす相手が減って不満なだけだろう」

 社長が恐ろしい事を耳打ちしてきたので、私はハイデッカー統括から視線を外した。

「そもそもお前とハイデッカーを残しては行けないからな。一緒に来てくれた方が俺も安心できる」
「心配して下さってありがとうございます……」

 水兵服のスタッフがスキッフのドアを開けてくれる。私は社長に手を取ってもらってその中に乗り込んだ。
 中は前に乗せてもらったヘリよりも狭くて、私達は後部座席に並んで座った。窮屈になってしまって申し訳なかったけれど、社長は不満な顔もせずに長い脚を組んでいた。

 スキッフの操縦はコスタに駐在している社員が行うらしい。珍しくタークスではないのかと思って見ていると、社長はあいつらも忙しくてなと呟いた。
 なるほど、確かに危険な場所に行く訳ではないらしい。

「これからどこに向かうんですか?」
「ゴールドソーサーで人に会う用事がある」
「ゴールドソーサー、ですか」

 ヘリで向かう先がゴールドソーサーとなると、どうしても思い出されるのはあの日の事。

「……本当に、これが休暇なら良かったんだがな」

 社長は窓の外を見下ろしながら、とても残念そうに言う。
 
「園長に会った後、ホテルで落ち合って話をする予定になっている相手がいる。どちらもナマエが同席するのは構わない」
「ディオ園長、服着てると良いんですけど」

 あのおじさまを思い出そうとするとビキニパンツしか浮かんでこなくて、しかめ面になった私は腕組みする。社長は少し表情を緩めて鼻で笑った。

「それは期待しない方がいい」


 スキッフから見下ろす景色はどんどん流れていく。今日は天気も良く、このままあっという間にゴールドソーサーに着きそうだ。

「懐かしいな」

 遠くに見えてきたゴールドソーサーの建物を目にした社長は、そう言って私を見る。
 その表情は、少し前よりは穏やかなものだった。ハイデッカー統括と別れたからか、狭いスキッフの中とはいえしばらく座って休めたからかは分からないけれど。

「そうですね。もうだいぶ前のことですもんね」
「ああ……」

 社長は窓の外を見ながらも意識は別の所にあるようだった。それは私も同じで、あの日の楽しかった思い出が次々と脳裏に浮かんでくる。

「あの頃と比べると色々変わりましたよね」
「そうだな。変わっていない事の方が少ない」

 彼は副社長から社長になり、私もそれほどの変化ではないものの右も左も分からない新人から今では色々なことを任される中堅社員になった。
 友達を喪い、苦い経験もした。

 それでも変わらないものと言えば、目の前の人に対する気持ち。

 あの日と同じように窓辺で頬杖をついている社長の横顔を盗み見る。
 花火に消された言葉の続きは、分からないまま。

(社長には、好きな人っているのかな)

 ふと今まで考えないようにしていた事が思い浮かぶ。
 社長にはきっとどこかのご令嬢とか誰もが羨む美人女優とかそういう私の知らない世界の人とも沢山出会いがあるのだろう。世界一の企業の若社長なのだから、周りが放っておく筈がない。

(きっとその内結婚したりしちゃうんだろうな……)

 うっかり想像しかけて、私は頭を横に振った。社長の人生なのだから、他人である私が勝手に妄想して悲しむなんて失礼ではないか。

「ナマエ?」

 いつの間にか社長はこっちを向いていて、私の様子を訝しんで見ているようだった。

「……なんでもないです、すみません」
「そうか? 今日は朝から休みなしで疲れただろう。連れ回してすまない」

 私がしゅんとなると、それを見た社長は心配そうな表情に変わる。今世界中の誰よりも大変な人に気を使わせてしまった事を私は後悔した。

「いえ、大丈夫です! ちょっと考え事をしてしまっただけですから」

 そう言って笑って見せれば、社長は何度か無言で瞬きした後いつも通り余裕の笑みを浮かべた。


 スキッフは少しずつ高度を落として、ゴールドソーサーのVIP用ヘリポートに着陸する。私はここからしかゴールドソーサーに入園した事がない、珍しい庶民だと思う。

 私は社長の後に着いて闘技場のあるバトルスクェアにやってきた。
 前回は寄らなかったけれど、ここでは腕に自信のある人達が特別なモンスターとのバトルを楽しめるという私には到底理解のできない場所らしい。
 兵器を戦わせていいなら、話は別だけど。

「今、自慢の兵器を参加させたいと思っていないか?」

 バトルに挑戦中の人達の様子が映し出されているモニターを眺めていると、社長が笑いを噛み殺しながら耳打ちしてくる。
 またこの人は、私の心の中を読み取ったらしい。

「どうして分かったんですか!?」
「お前は真面目だから」

 またそれですかと、私は社長を軽く睨んでみる。しかし当たり前のように社長には何の効果もなく、楽しそうに笑われてしまった。

 そこへビキニパンツおじさまーーもといディオ園長がやってくる。予想通りの格好だったので、私はさりげなく視線を外した。
 
「お待たせいたしました、ルーファウス様。この度は社長ご就任おめでとうございます。先代の事は非常に残念でした……」

 園長はそう言ってまた恭しくお辞儀をする。それから私に目を向け、どう思ったか分からないけれど何も言わずに微笑んだ。

「早速だがディオ、セフィロスという男を知らないか?」
「セフィロス……ですか。あのウータイ戦争の英雄の?」

 社長の問いに、園長は顎に手を当てて天を仰ぐ。
 どうやら社長はセフィロスに関する情報を得るためここまでやって来たらしい。確かにゴールドソーサーは場所柄この辺りで神羅の息がかかった場所としては一番人の出入りが多い。
 未だにミッドガルから離れれば神羅の情報網にかからない場所も多く、その為にもここは中継地点として重要な場所らしい。

「セフィロス……の事はよく知らないのですが」

 ようやくディオ園長はゆっくりと前を向く。

「黒いマントを着た少年が、『黒マテリア』というものを探してここを訪ねてきました」
「『黒マテリア』……?」
「黒いマテリアなんて聞いた事ないですね……」

 園長の言葉に、社長も私も首を傾げる。
 マテリアの研究をしていたこともある私は、この星には普通のマテリアとは違った特別な力を持ったマテリアが存在するらしいと聞いた事はある。強力な魔法や召喚獣を秘めたマテリアの事だ。
 しかしそれがどこにあってどんな種類があるのか、詳しい事は何も分かっていないらしい。

「先代が亡くなって何日か経った日の事でした。手には『1』のタトゥーが彫られておりましたな」
「1……? 何の数字だ」

 その数字には社長にも心当たりはないらしいけれど、セフィロスと何の関係もないとも思えずに私達はしばらく考え込む。

「行方をくらました宝条なら何か知っていそうだが」
「宝条博士、いなくなっちゃったんですか?」
「ああ。ハイデッカーに探させている」

 なるほどそれでハイデッカー統括はあんなにイライラしていたのか、と私は納得する。宝条博士といえばマイペース過ぎて、研究以外はろくな会話も出来ない程の変わり者らしい。

 しかし黒マントの少年と宝条博士の繋がりが私には見当もつかず、私はただ隣で険しい顔をしている社長の言葉を待った。

「少年、と言うからには子供だったのか?」

 社長がそう聞くとディオ園長はやたらと艶のある胸筋を動かして答えた。

「わたくしからしたらあなたも立派な少年ですぞ」
「……そうか。分かった」

 社長はこれ以上園長と話しても仕方ないと思ったのか、はたまたこれ以上疲れたくないと思ったのか、目を閉じて首を横に振るとディオ園長に背を向ける。

「またそのうち来る。ナマエ、行くぞ」
「かしこまりました。どうぞこの後もごゆっくりお楽しみください」

 社長は小さく溜息をつくと歩き出した。私は置いていかれないよう慌ててその横に並ぶ。

「相変わらず食えない男だ」
「本当ですね……」

 若いとはいえ30歳になる神羅カンパニーの社長を少年呼ばわりするのはディオ園長だけだろう。
 クビになってもおかしくない言動をしているのに、いつも目だけは笑っていないのが恐ろしいと思った。さすが、神羅の一大アミューズメント施設を任されているだけはある。


 バトルスクェアを出てから、社長は『ゴーストホテル』と書かれたゲートまで進むと一度立ち止まって私に顔を向けた。

「幽霊は得意か苦手か?」

 そう問われて、得意だと答える人は少ないのではないかと思う。

「化学や物理で解析できないものはどちらかと言うと苦手です」
「なるほど、ナマエらしい答えだ」
「どういう事ですか?」
「行けば分かる。すまないが他に密会できる場所が無かったんだ」

 そう言うと社長はまた歩き始めた。

「怖ければ俺の後ろに隠れていれば良い」

 その意味が分からずに考え込んだ私は、突然鳴り響いた雷鳴に小さな悲鳴をあげた。

「ぎゃっ!」
「……潰れたカエルのようだな」
「す、すみません」

 呆れたような声が聞こえてきたので恐る恐る顔を上げると、意外にも社長の顔は微笑んでいた。

「こういう演出が売りらしいが、はっきり言うと悪趣味この上ないな」

 社長の視線の先を追うと、闇夜に照らし出された廃墟のような建物が見える。それこそが正にこのゴールドソーサー唯一の宿泊施設、ゴーストホテルなのだ。

 再び雷鳴が鳴り響き、蝙蝠が飛んでいく音も聞こえる。これは全て演出らしいが、先代社長なのかあの園長なのか分からないけれど何故こんなものを作ったのか理解ができなかった。

「早く入りましょう、社長」
「ああ。このままではナマエがトードになってしまうからな」

 そう言いながら社長がくつくつと喉の奥で笑うので、私は恥ずかしくなって足早にフロントに向かう。
 それでも脚の長さが全然違うので、すぐに社長に追いつかれた。

「怒るな。悪かった」

 謝りながらも社長は相変わらず笑いを堪えきれていない。

「別に怒ってないですけど……」

 私が少しだけ唇を尖らせて睨んでみると、社長はまた肩を震わせた。

「お前といると飽きなくて良い。連れてきて正解だった」

 私がここまで連れてこられた理由は心配だからなのではなく面白いからに上書きされてしまったらしい。
 それでも社長が楽しそうならそれで良いかなと思ってしまったのだから、私も私だと思う。
 恋は盲目と言うのは、どうやら本当らしい。

「そう言えば、最近幽霊のような物を見たりしなかったか?」

 突然思い出したように立ち止まる社長。

「いえ、今までそういう類のものに出会ったことはないですね」
「そうか……」

 社長は少しだけ考え込んだ後、何でもないと言ってまた歩き出した。


 社長がフロントにあらかじめ予約していたらしい部屋番号を告げると、天井から逆さ吊りにされた受付の人ーー人なのかは不明だが、彼は無言で鍵を寄越した。
 これは、苦手な人は絶対に泊まれない場所だ。

 部屋に入ると密会相手はまだ来ていないらしかった。しかし部屋の中央に、このホテルのコンセプトと合わないような可愛らしい大きなぬいぐるみが置いてあった。

「これモーグリですかね? 猫が乗ってます」

 私はそのぬいぐるみに近付いてみる。すると社長が後ろでまた笑いを噛み殺している声が聞こえてきた。

「べ、別にぬいぐるみに興味をもったって良いじゃないですか」

 こんなもの気にならない方がおかしいので、私は抗議の声を上げる。
 しかし社長は違うと手を横に振って、にやりと笑った。

「あまりからかわないでやれ」

 彼がそう言った次の瞬間、私の目の前でぬいぐるみが動いたかと思うとうーんと伸びをしたではないか。

「えっ、えぇっ!?」

 私はあまりに驚いて後ろに飛び退いた。
 太ったモーグリのぬいぐるみとその上の黒白猫は、どちらも同じ動きをしていた。

「すみません、少し休憩を取っていましてね」
「ね、猫が喋った……」

 私はあわや腰を抜かすところで、側にあったベッドに尻餅をついた。
 王冠を被った猫のぬいぐるみは、少し高い男性の声で流暢に喋り始めたのだ。

「ああ、お嬢さんは初めまして。ボクの事はケット・シーと呼んでください」

 私は目を白黒させながら社長の顔を見上げる。社長は驚きもしていないあたり、どうやらこのぬいぐるみの事を知っているらしい。

「じきに慣れる」

 社長はそう言うと私の横に腰掛ける。大人二人が座っているので、ベッドのスプリングが深く沈んだ。

「で、上手く行きそうか?」

 社長がさも当たり前のようにケット・シーに話しかけるので、私は未だに状況がうまく飲み込めなくてその様子をただ眺めている。

「ええ。各地からセフィロスに似た黒いマントの目撃情報が寄せられていますので、彼等も同じルートを辿ってくるでしょう」
「私の方にもその情報は入ってきている。とにかく、確実に奴等と同行できるんだな?」
「はい、その為にわざわざここで待つんです」

 社長とケット・シーがあんまり普通に会話を続けるものだから、だんだん私の頭も冷静になってくる。しかし落ち着いて見てみると、大きなぬいぐるみと猫に向かって淡々と話す社長の姿は異様だ。

「気取られるなよ」
「お任せください。ほら、彼女にだって全く」
「……クク、そうだな」

 突然二人がなんだか楽しそうに私の方を見るので、私は意味が分からず眉間に皺を寄せるしか無かった。

 するとケット・シーは私の前までやってきて、本体と思われる猫の方が万歳の格好をした。

「ナマエさん。そんなこわーい顔せんと、何かお困りでしたらボクが占ってあげましょか」
「……はい?」

 さっきまでとは違い、突然ケット・シーの口調が変わった。私は思わず何度か瞬きして、猫の顔を凝視する。

「ナマエ、こいつの本業は占いマシーンなんだ」

 横から社長がそんなことを言うので、私はますます目の前の謎の物体を怪しんだ。さっきまで不穏な話をしていたように聞こえたのに、占いとはこれいかに。

 しかし私の怪訝な視線を気にせずケット・シーは親しげに話しかけてくる。

「仕事でお悩みでしょか? どんな運勢でも占いまっせ」

 猫の声に合わせて下のモーグリも両手を振って踊っている。
 私は仕事柄もあって動く仕組みが理論的に分からないものは苦手だ。

「あ、恋愛運なんてどうです?」
「れ、れんあい……?」

 私がその単語に反応した瞬間、隣で社長が咳払いをした。
 ケット・シーは勝手に私の手を取るとぶんぶんと振り回す。

「おっ、何か悩んではりますね? よっしゃ、任せてくださいな!」
「えっあの……ちょっと!」
「当たるも〜ケット・シー、当たらぬも〜ケット・シー」
「な、なにそれ……」

 突然始まってしまった私の恋愛占いは途中で止められないらしい。
 モーグリは私の手を離すとそのまま自分の両手を振って、どこから出てきたのか木の棒を取り出した。

「これは……『たまには大胆に攻めてみましょう! ラッキーカラーは黒』……ほほう」

 占いの結果を聞いて、私は顔からファイアが出るのではないかというくらい熱くなってしまう。
 すぐ隣に意中の人がいるのに大胆になれというお告げを聞かされて、平常心でいられる人がいるなら会ってみたい。

「……ふん」

 真っ赤になっていると思われる私の横で、その意中の相手が鼻を鳴らした。顔が見れないので分からないけれど、馬鹿馬鹿しいと笑っているのだろうか。

 するとケット・シーは少し移動して、今度は社長の前に立つ。

「ほな、次は社長です」
「……私はいい」
「遠慮しないで下さいって。仕事運は順調だと思いますから、同じく恋愛運で行かせてもらいますわ」
「なっ、おい」
「当たるも〜ケット・シー、当たらぬも〜ケット・シー」

 珍しく慌てた様子の社長とくねくね動くデブモーグリの組み合わせは本当に異様だ。
 私が呆気に取られている内に、ケット・シーはさっきとは別の棒をまた取り出した。

「ふむふむ……『チャンスはあるのでもっと素直になりましょう。焦らないのが吉』」
「……そうか」
「ね、占って良かったでしょ?」
「誰がそう言った」

 社長は飄々と言うケット・シーを睨んでいる。けれどどこか気恥ずかしそうで、いつもの凄みはそこには不在だった。
 恋愛運を占われてこの反応ということは、社長には想う相手がいるのだろうか。

「すみませんが、ちょっとこれから打ち合わせなので」
「おい、逃げるな」

 私の思考は二人のやりとりによって中断される。
 元の口調に戻ったかと思うと、ケット・シーは突然ぴたりと動かなくなった。

 少しの間、私も社長もベッドに腰掛けたまま互いに別の方向を見て固まっている。
 とても気まずい。私はケット・シーが恨めしかった。

「ハァ……やたらと疲れたな」

 社長は大きな溜息をつくと、おもむろに立ち上がる。私もそれに続いて立つと、私の目線は社長の胸元を捉えた。

「あ、社長」
「どうした?」
「ネクタイ、曲がってます」

 あちこち移動して立ったり座ったりしている内に結び目が緩くなってきたのだろう。私は自分が贈った高級なネクタイを指してそう伝える。
 すると社長はふむ、と少し考えてから大袈裟に両手を広げた。

「直してくれ」
「へっ?」

 予想もしなかった事を言われて、私は変な声をあげてしまった。

「すぐ近くに鏡が無い。だが頼めば結んでくれそうな人物が目の前にいる」

 社長はだいぶ普段の余裕を取り戻したらしい。人を揶揄うのが本当に好きなようだ。

「気付けナマエ。お前のラッキーカラーだぞ」

 言われてみれば確かに、ネクタイの色は黒なのだけど。

「そ、そういう問題じゃ……というか私、ネクタイなんて結んだ事ないです!」
「なら良い機会ではないのか? 俺が教えてやる」

 なんだか段々話が脱線して行っているような気もしなくない。しかし社長は易々と諦めてはくれないようで、やたらと乗り気なのは私の反応を見て楽しんでいるからに違いない。

「まずここを引き抜いて解くんだ」

 そう言って社長はネクタイの結び目の上を指し示す。そこまで言うなら自分で直せばいいのに、もはやここまで来たら意地なのかもしれない。

「失礼します……」

 私は腹を括って社長の首元に手を伸ばした。 シャツの襟元から覗く白い首が思いのほか太くて、手が近付いただけでドキッとする。

 しゅる、と音を立ててネクタイが外れると、なんだかとてもいけない事をしているような気持ちになってきて、私は緊張で指先が震えそうになる。

「首にかけるくらいは分かるな?」
「は、はい。さすがに」

 私が一旦ネクタイを真っ直ぐに伸ばしていると、社長は少し頭を下げて私がネクタイをかけられるようにしてくれる。

「もし私がスパイとかなら殺されてますよ?」

 社長の襟元にネクタイを巻きながら私が言うと、社長は可笑しそうに口の端を上げた。

「スパイはこんなに緊張しないと思うが」
「うっ……」
「さあ、ここからが肝心の巻き方だが」

 社長が次々にネクタイの巻き方を説明し出すので、私は聞き逃さないよう必死に意識を集中する。
 気をつけていないと、社長の声に合わせて上下する喉仏や時々分かりにくいところを説明するため示される長い指先が気になってしまって、すぐ話を聞き逃してしまいそうだ。

「……出来たか?」
「はい、あの……たぶん」

 言われた通りにやったので、ぱっと見た感じは綺麗に締められている。私だって伊達にいつも細かい作業をしてるわけじゃないから、結構自信作だったりして。
 ただし結び目の大きさや形には人それぞれ好みがあるだろうから、社長が鏡を見るまでなんとも言えないけれど。

「ふむ。俺より上手いじゃないか」

 社長は真っ暗な携帯端末の画面に自分の首元を映して確認している。

「それがあるなら最初からご自分で出来たのでは……?」

 見にくいなら私が持ってあげていても良かったわけだ。

 社長は端末をしまうと満足そうに鼻を鳴らす。その表情は今まで見た中で一番、悪い顔だった。

「お前はネクタイの結び方を習得して、俺は綺麗に結ばれて気持ちが良い。どちらにとっても得な結果だろう」

 社長があまりにも得意そうに言い放ったので、私もなんとなくそんな気になってしまう。こうして彼に言いくるめられてしまうことが、段々増えてきたようにも思えるのだけれど。

「あー……お二人とも。そろそろボク、お暇しようかと思うんですが」
「わっ! びっくりした……」
「ケット・シー……」

 すっかり忘れていた、忘れにくい筈の存在感を放つぬいぐるみから突然声が発せられて、驚いた私はその場から飛び退く。
 社長も珍しく目を丸くしてから、ケット・シーに非難の視線を送った。

「私を驚かすとは度胸がある」
「すみません。タイミングを逸してしまいまして」

 社長に凄まれてもケット・シーは相変わらず飄々とした態度を崩さない。一体このぬいぐるみは何者なのだろうか。

「ハァ……まあいい。ナマエ、帰るぞ」

 社長はケット・シーに向けて溜息を一つつくと足早に部屋を出ていく。
 私もその後に続くべく小走りで部屋を出た。

「あ、待ってください社長!」
「ほな、お気をつけて〜」

 後ろからは気の抜けた口調による見送りの言葉と、ぬいぐるみがわしわしと手を大きく振る音が聞こえてきた。

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