3-4


 式典の日の朝、窓を開けると空には突き抜けるような晴天が広がっていた。まるでこの星も新社長の門出を祝っているのではないかと思うくらい清々しい空気を、私は肺いっぱいに吸い込んだ。

 私達の部署では準備を滞り無く終わらせ、オフィスのベランダからパレードを観覧することにしている。やがて式典開始の祝砲が上げられ、華やかなマーチが流れはじめた。
 ベランダに出ると眼下には沿道に沿ってパレードの到着を待つ人々が見える。こんなに沢山の人が彼の晴れ姿を楽しみにしているのだと思うと、私も何故か緊張してきた。

 やがて向こうから行進する隊列が近付いてくる。しばらくそれが続くと遂に専用車両に乗った社長が姿を表した。
 一緒に見ていた同僚達も私と同じように息を呑んで社長を見守っている。皆連日の激務で疲れ果てていたけれど、誰もが新社長に釘付けになっていた。

 社長は沿道に手を振り、余裕の笑みで彼らの声援に応えている。時々髪をかきあげるその仕草に若い女性達からは黄色い声があがった。

(やっぱり別世界の人だった……)

 昨夜は数年越しの再開を果たした事で私はなかなか寝付けなかったくらい高揚していた。あまりに気持ちが昂ぶりすぎて、社長の前で恥ずかしくも泣いてしまったくらいには。
 それでも社長は相変わらず優しくて。

(世界が違っても、何年会えなくても……ずっと好きなのは変わらないけど)

 とても忙しいらしく、少し疲れた様子だった社長。それでも気に掛けてくれたことが嬉しくて、私のこの想いはどんどん大きくなっている。

(昨日言ってた話ってなんだろう)

 社長が言っていた、落ち着いたら話したい事があるという言葉。昨日はそのヒントすらくれなくて予想すらできなかったけれど。

(これからはもう私に頼る必要は無くなった、とかだったらイヤだな……)

 社長という立場になれば、専属のメカニックだって選び放題な筈だ。先代社長のようにあのスカーレット統括を使うことすら出来るだろうから。

 もしこの想いを告げたとして、はっきり言葉にしてふられてしまったら立ち直れないかもしれない。だからこそ心の奥にしまっておくつもりだけど。
 でもそれ以上に、彼の役に立てないと言われる方がもっと辛い気がした。

 ちょうど社長を乗せた専用の高級車がオフィス棟の前に差し掛かる。
 私は思わず欄干を握り締めて精一杯身を乗り出した。

 社長は相変わらず周りに向けて緩やかに手を振っている。しかし私達のすぐ目下を通り過ぎた直後、後方に目を向けていた社長が不意に視線を上げた。

「あ……」

 社長の青い瞳と目が合う。
 その次の瞬間、社長が僅かに口の端を上げたように見えた。

 まるで時が止まったみたいに、私は息をすることさえ忘れてしまう。

「今、こっち見たね!」
「近くで見るとめちゃめちゃイケメンだなぁ」

 周りの同僚達の声で私が我に返ると、もう社長の後ろ姿は少しずつ遠ざかっていくところだった。


 パレードが終わって小休止……とはいかず、今度は先程ついたばかりの運搬船で届いた荷物を検品するため、私は港までやってきていた。
 式典が開催されるものの、神羅の軍事拠点であるこのジュノンには休みなく武器やその資材が送られてくるのだ。

 港湾作業員達が次々と運んでくる積荷のラベルを確認しながら、私はそれぞれの搬入先を指示したりたまに中身を開けて確認したりを繰り返している。
 先程までのパレードなんてもう夢だったのではないかというくらいの変わらない日常だ。

 しかしそこへハイデッカー統括がやってきた。

「オイ、兵器開発の人間はいないのか!?」

 名乗り出たくはなかったのだけれど、作業員達の気まずそうな視線が私に集まる。
 ハイデッカー統括は私に向かってずかずかと大股で歩いてきた。

「この船は出港準備が整い次第コスタに向けて発つ。だがしかし、連れて行く兵達の武器や警備ロボのセッティングが間に合っとらん!」
「は、はぁ……」

 突然何の文句を言われるか身構えていたら、どうやらハイデッカー統括は困っているらしい。そんな準備が必要だなんて、おそらく兵器開発部門の誰も聞いていないに違いない。

「とりあえず全部積ませるから向こうにつくまでに準備しろ!」
「……へ?」
「お前も乗るんだ!」
「え、私がですか?」
「ガハハハ、社長の役に立てるんだから光栄なことだぞ!」

 有無を言わせず私を運搬船に押し込むハイデッカー統括。どうしてこうも神羅の統括役員達は自分勝手な人ばかりなのか……社長も大変だ。
 しかしそんな社長の役に立てると言われれば仕方ない。後のことは、可哀想なものを見る目で見送ってくれる港湾作業員達に任せよう。


 運搬船の武器庫には、セフィロスやアバランチに対応する為と思われる武器や兵器が乱雑に置かれていた。

「もっと大事にして欲しいんですけど!」

 誰もいない武器庫で、私は一人なのを良いことに怒ってみる。いくら急な事だったとは言え、一生懸命開発した物をこんなに雑に扱われているところなんて見なくなかった。

「社長は大切に扱ってくれてたのに……」

 ぐちぐちと文句を並べながら、仕方が無いのでまずは検品作業に入ることにする。ちょうど運搬船が出航したらしく、警笛と共に足元が揺らいだ。
 
 まずは兵士用の武器を確認して、用途毎に並べていく。しかし、早く警備ロボットのセッティングに入りたいのに数が多くてなかなか終わらない。こんなに兵士は乗っていないはずなのに、ハイデッカー統括は考え無しに積み込んだのだと分かる。

「あの、すみませーん……」

 私は武器庫から顔を出し、近くにいた警備兵に声をかける。
 その人は何故か周りを伺ってから、仕方なしという様子でやってくる。

「……なんでしょう?」

 声が高い。珍しいけれど女性の兵士なのだろうか。

「ちょっと手伝ってもらえますか? 武器を並べて欲しいんですけど」
「わ、分かりました」

 警備兵は特に意を唱える様子もなく、私の指示に従ってリストを見ながら黙々と重火器を並べていく。

「並べるの、終わりました」

 きっちりと綺麗に並べてくれたので、数も種類も一目で分かるようになった。これで兵士の人達にもすぐ配ることができる。
 それを彼女がやってくれたお陰で、私はその間に警備ロボットのセッティングを終えることができた。

「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして、で、あります……?」

 彼女はいち早く持ち場に戻りたいのか、そわそわと視線を彷徨わせている。まだ軍に入りたてなのか、喋り方もたどたどしい。新人さんだとしたら突然仕事を手伝わせてしまって悪いことをした。

 私がお礼を言うために一歩近付くと、彼女からふわりと清廉な香りがした。

(……花の匂いだ)

 ほとんど気付かないくらいほんの少しだけ、いつか社長から貰ったものと似た甘く爽やかな香りが漂ってくる。

「えっと、まだ何か?」

 身構える女性兵士に、自分の世界に入り込んでいた私は慌てて首を横に振る。
 
「いえ、もう大丈夫です。お花の香り、良い匂いだなと思って」

 そう伝えると、マスクの下で彼女が笑顔を浮かべたような気がした。

「実は昔ミッドガルにいた頃、好きな人から前に花束をもらった事があって……その香りと似てたから」
「お花、ミッドガルでは珍しいのに」
「花売りの人からたくさん買い取ったみたいで」
「そっか……」

 彼女はしばらく考え込んだあと、くすりと笑った。

「あなたに喜んでもらえて、あげた人もお花も、きっと喜んだね」

 そう言うと、彼女は微かな花の香りを残して武器庫から出て行った。

(会いたいな……)

 私はその香りがなんだかとても懐かしくて、無性に彼に会いたくなってしまった。


 ハイデッカー統括に完了報告をする為、私は操舵室に向かう。部屋の中からはガハガハというハイデッカー統括特有の笑い声が漏れ聞こえていた。

「失礼します。ハイデッカー統括、武器と兵器の準備が終わりました……」

 部屋に入ってすぐそこにいたハイデッカー統括に話しかけようとすると、彼の向こうに立っていたのはつい先ほど会いたいと願った社長その人だった。

「社長……?」
「ようやく終わったか。では指示を出してくるとしよう。社長、失礼します」

 私の驚きを他所に、ハイデッカー統括は社長に一礼して部屋から出て行った。
 後に残されたのは、私と社長の二人だけ。

「何故ナマエがここにいる?」

 社長は不思議そうに小首を傾げる。それは私の方も同じだった。

「ハイデッカー統括に、積み込んだ武器と兵器の準備が終わってないからやるようにと乗せられました」
「……ハァ」

 社長は盛大なため息をつく。

「警備ロボットまで準備不足とは、ハイデッカーは無能にも程がある。しかし早かったな。さすがだ、ナマエ。代わりに礼を言う」
「いえ……それに、こうしてお会いできましたし」

 社長に褒められると照れ臭くて、でも心から嬉しい。私が素直な気持ちでそう言うと、社長はそうだなと言って笑った。

「式典お疲れ様でした。すごく輝いてましたね」
「お前があんまり気の抜けた顔でいるからベランダから落ちるのではと心配したぞ」
「えっ……じゃあやっぱりあの時こっちを見てたんですね」
「ああ。あやうく噴き出すところだった」
「疲れてたという事にしてください……というか、それじゃあ心配してないじゃないですか!」

 そう言い合って、二人してまた笑う。
 こんな些細なやり取りで本当に幸せな気持ちになれる。
 別世界の人なのは理解しているけど、それでもやっぱり。
 
 兵達に指示を出したらしいハイデッカー統括が戻ってくる。統括は私を見て、まだいたのかと思ったのだろう。怪訝な表情でじろじろと見つめてくる。
 社長はハイデッカー統括に冷ややかな視線を送りながら私の横に立った。

「彼女は私の武器を任せている優秀な社員だ」
「……そ、そうでしたか」

 ハイデッカー統括は口元を引き攣らせながら愛想笑いする。
 社長が静かに怒りを放っていることにはさすがに気付いたらしい。

 しかし次の瞬間、けたたましいサイレンと共に侵入者発見のアナウンスが流れた。

『侵入者の目撃情報あり! 作業員は周囲を確認、兵士は至急警戒態勢へ!』

「侵入者だと?」

 ハイデッカー統括がスピーカーに向けて声を荒げる。

「まさかセフィロスか? それともクラウド達か?」
「……すぐ確認させます」

 社長に問われ、ハイデッカー統括は慌てて操舵室から再び出て行った。

「私もこの辺りを確認してきます!」

 そう言って私もハイデッカー統括に続こうとすると社長に腕を掴まれる。そして彼は素早く操縦室入り口の鍵を掛けた。

「ここにいろ。外は危険だ」
「でも……」
「なに、いざとなれば自分の身くらいなんとかなるし、勿論ナマエの事も守ってやる」

 そう言いながら社長はジャケットの下に着けていたホルスターから銃を取り出す。
 しかしそれは、彼が愛用していたものより一回りサイズが小さいようだった。

「あれ? それ、古い方ですよね……?」

 確かに見覚えはある。そう、私が作ったショットガンを二丁に分けた内の短い方だ。しかしこれは最初に付けていた方で、新しい物はタークス経由で渡したはず。

 社長は手にした銃を見下ろしてから、気まずそうに眉を下げた。それは、泣く子も黙る神羅カンパニーの社長がして良い顔ではないけれど。

「実は、本体は本社の屋上から落としてしまったんだ……だがちゃんと回収してある。しかし、すまないことをした」
「落としたって……もしかしてアバランチと戦った時にですか?」
「ああ、そうだ」
「社長がご無事で本当に良かったです……」

 本社の屋上というと地上70階の高さだ。私はその場面を想像して肝を冷やした。
 いくら頑丈に造ったつもりでもあの高さから落ちた銃が原型を留めていないだろうことは分かる。それでも拾っておいてくれたなんて、本当に大切にしてくれていたらしい。

「再利用できる部品があれば使いますし、言ってくれればまた作りますよ?」

 モノは壊れても直すことができるし、同じ物をまた作ることもできる。社長さえ無事ならそんな事は容易いと言うのに、彼は気を使ってくれていたのだろうか。

 すると社長は呟いた。

「頼むつもりだったさ。だが実際にお前の顔を見たらなかなか言い出せなくなってしまって……悲しむのではないかと」

 そう言った社長がとても悲しそうな顔をする。そんな風に気にしていてくれたのかと思うと、私はいても立ってもいられなくなって思わず社長に駆け寄った。

「大丈夫です社長、何回壊れたって無くしたって、私何度でも作りますから!」
 
 なんとか元気を出して欲しくて、昨夜社長がしてくれたように彼の手を握る。

「ナマエ……」

 私を見下ろす社長の顔には、よく見ると昨日以上に疲労の色が隠れることなく浮かんでいる。
 朝から式典の主役として様々なイベントをこなし、休む暇もなくこうして出張に赴いているのだから当然だ。
 
 私はもう一度、社長の手をぎゅっと握りしめた。
 
 するとちょうどその時警報が止んで、部屋には静寂が訪れる。

「きっともう大丈夫ですから、とにかく今は少しでも身体を休めてください」

 私は社長をソファに座るよう促して、部屋に備え付けられた簡易的なシンクに向かう。そこには休憩用なのだろう、給湯器やカップが置かれていた。

 社長は疲れが限界なのか急に黙り込んでしまって、素直に従ってくれた。

「コーヒー淹れますね」

 普段社長が飲んでいるであろう高級な粉ではなくて、そこにあったのは安物のドリップコーヒーだったけれど、何も無いよりはましだと思う事にする。

「お待たせしました」

 私はソファに腰掛けて珍しくただぼうっとしていた社長の前にあるローテーブルにカップを置いた。
 立ち昇る湯気をしばらく見つめてから、ようやく社長はカップに手を伸ばす。そしていつもの癖なのだろうか香りを確かめてから口をつけた。

「……こういうのも良いな」

 なんの変哲も無いブラックコーヒーを一口飲んで、社長が小さく呟いた。
 その意味が分からなくて、私は次の言葉を待つ。
 社長はもう一口飲んでから、表情を緩めて私に目を向けた。

「お前にこういうことをしてもらう機会は初めてだと思ってな。どうだナマエ、俺の秘書にでもなるか?」

 長い脚を組み、ソーサーを片手で膝に乗せてカップに口を付ける社長はまるで一枚の絵画のようで。危うく見惚れかけていた私は突然そんな事を言われて瞬きを繰り返すしかなかった。

 社長は一人面白そうに笑いを噛み殺している。当たり前だけど、本気ではないらしい。

「……冗談だ。今の仕事に誇りを持っているナマエが一番だからな。これでも期待しているんだ」

 その言葉は私にとって一番嬉しいものだった。
 社長に期待されている。必要とされている……それが今の私にとって一番の生き甲斐だから。

「はいっ、ご期待に添えるよう一生懸命頑張ります!」

 コーヒーを出すために使ったトレイを抱えたまま私は胸を張る。我ながら新入社員のような返答だなと思いつつ、社長が少し元気になってくれたようで安心した。

「実はディーが負傷してな。それにタークスにも休養が必要な奴が出て、残りのタークス達には別ルートでセフィロスを追わせている。その上あのショットガンも壊してしまって……手数が少なくなりすぎて困っていた」

 社長はソーサーをテーブルに置くとその上にカップを乗せた。

「えっ……ダークネイションが?」
「俺を守って戦ったからだ」
「……アバランチですね」
「クラウドという男だ。記録が無いのだが、自分では元ソルジャーと言っている。おそらく俺達とは別にセフィロスを追っている筈だ」

 元ソルジャー……その肩書はあのセフィロスと同じだ。
 神羅には、今や昔ほど優秀なソルジャーは一人もいないらしい。

 そんな状況の中社長は満足な護衛もつけられずにミッドガルを出たなんて危険過ぎるはずだ。それでも彼は、セフィロスやアバランチから逃げることはしない。

 ダークネイションは命はあるようだけれど、きっととても痛かっただろう。それでも社長を守ろうとしたダークネイションも、彼を下がらせて守った社長も、互いを本当に大事に思っているのが分かる。
 私はそんな彼等を傷付けたクラウドという身元不詳の男のことを心の底から憎んだ。
 
「では早く新しい武器を用意しないといけませんね」
「前の物を渡すから、なんとか修理して欲しいのだが……」
「同じ物で良いんですか?」
「むしろ同じ物が良い。あれは俺にとって特別な物なんだが」

 社長は座っていて私は立っているので珍しく彼に見上げられる形となっていて、まるで上目遣いに見られているような構図も相まってこのお願い事は断れそうにもない。
 そもそも社長の期待を裏切るようなことなんて私に出来るはずないのだから。そんなに気に入ってくれていたなら余計に。

「安心してください。きっと何とかしてみませます」

 私がそう言って笑ってみせると、社長は安堵した表情を浮かべた。
 見下ろす状況になっているせいな事もあるかも知れないけれど、私そんな社長が愛おしくて仕方がなくなった。

 するとその時、操舵室のドアノブが回される音がする。私も社長も、鍵をかけたままになっていたのを忘れていた。

「社長、もう安全が確認できたので開けて下さい!」

 それはハイデッカー統括の声だった。
 社長の目を見ると彼はやれやれといった表情で頷いたので、私はドアを開けに走る。
 ハイデッカー統括は入ってくるなり私を見て、先程よりももっと眉間に皺を寄せて、いつまでいるつもりだと言いたげな目を隠そうともしなかった。

「状況は」

 社長は腕組みしてハイデッカー統括に視線を寄越す。統括は姿勢を正していつも通りのやたらと大きな声で報告を始めた。

「機関室にて何者かが争った跡がありましたが船内をくまなく探した結果、侵入者は既に脱出した模様……」
「なんだと?」

 社長の声が普段より一段階低くなる。対するハイデッカー統括は勢いを無くし、だんだんと尻すぼみになっていく。

「……乗組員数名が殺されました。それ以外の死体は、何も」
「……私に報告できる事はそれだけか?」
「さ、再確認して来ます!」

 社長に睨まれたハイデッカー統括は、普段彼にネチネチといびられている治安維持部門の人達が見たら大笑いするであろう慌てた様子でドアに向かって回れ右した。一応この人の部下だったシスネにも教えてあげたいくらいの勢いで。

 統括は焦りながらも明らかに不満と言いたげな表情を浮かべてドアに向かって大股で歩いてくる。そしてドアの横にいたままの私の前で止まるとこちらに顔を向けた。

「オイ、俺にもコーヒーを淹れておけ!」

 それだけ言うと統括は鼻息荒く部屋から出ていった。私は別に、あなたの秘書でもなんでもないのですが……。

「えー……」

 統括の足音が完全に聞こえなくなってから、私は小さな声で不満を漏らした。

 社長が盛大な溜め息をつく。

「聞かなくて良い。どうせコスタに着くまで戻ってこれないだろう」

 それは正しく、社長がハイデッカー統括の能力を信頼していないという意味だろう。

「当たり散らされそうになったらすぐ俺に言うんだぞ」
「分かりました……」

 想像するだけで、そんな目には絶対に遭いたくなかった。

 社長は残っていたコーヒーをまた優雅な仕草で飲み終えると私に向かって、ちょいちょいという効果音が付きそうな仕草で指を曲げて近くに来るよう合図する。

「頼みがある。今日だけだから許してほしいのだが」

 私は呼ばれるままに社長の横まで歩いていった。
 社長はふむ、と手を顎に当てて頷いている。

「やはり良いな」
「えっと……何でしょうか?」

 何故か楽しげな社長に私が問いかけると、彼はソファに身体を預けるように深く腰掛け直した。

「もう一杯淹れてくれ。こんなに旨いコーヒーは飲んだことがないぞ」
「ふふ、そんなおだてていただかなくでもいつでも淹れて差し上げますよ」

 それでも褒められて気を良くした私がそう言って空になったカップを一旦下げると、社長は満足そうに笑った。
 
 もし私が社長の秘書だったらと想像してみたけれど、秘書課の方々のような華やかな世界にいる自分の姿は思い描くことすら出来なくて、やっぱり私には兵器や武器に囲まれて埃やオイルまみれになっている姿の方がしっくりくる。
 社長は何故か先代と違って秘書を置いていないのも想像できない理由の一つかもしれない。
 
 けれど、もし社長が本当に望むならどんな部署でどんな仕事でも私は頑張れる。
 ただひとつ言えるのは、どんな形でも彼のために尽くしたい。ただそれだけだから。

 そう思いながら二杯目のドリップコーヒーを淹れて、また社長の目の前に置きに行く。
 屈んでカップを置いた後社長を見ると、私は彼の首元に見覚えのある物を見つけた。

「ようやく気付いたのか?」

 私の視線の先が何かすぐに気が付いたらしい社長が口の端を上げる。
 彼はカップを手に取ると、目を瞑ってコーヒーの香りを大きく吸い込んだ。

 今日の彼はダークグレーのシャツに、黒いネクタイを合わせている。
 それは正に、私が送ったあのネクタイだ。

「良かった。すごくお似合いです」

 ミッドガル有数のデパートに入っているハイブランドの店で、店員さんに付き合ってもらって悩みに悩み抜いた末に決めたものだ。
 私にとっては触れるだけで緊張するような高級品も、社長にとってはちょうどしっくりくる。

 社長は細長い指先でネクタイの結び目に触れると満足そうに微笑む。その仕草と表情にまた私は見惚れてしまった。
 やっぱり、もし仕事で四六時中一緒にいるようになったら全然仕事にならないから無理だと思う。

『まもなくコスタ港に到着。作業員は接湾準備を開始。繰り返しますーー』

 船内放送が流れて、社長を見つめてしまっていた私はようやく我に帰る。
 外を見ると、向こう側にコスタ・デル・ソルのビーチが広がっていた。
 
「これが休暇なら心が躍るところだが」

 社長は空になったカップを置くと立ち上がって私の横にやってくる。

「サーフィンは色々片付いた時の楽しみにしておくか」

 そう言って私の目を見る社長は笑った。

「知らなかっただろう? 意外と上手いんだ」
「そう言えば前に来てましたもんね」

 あの時私は早々に社長の前から逃げてしまったので、その姿は見られなかったけど。
 社長は得意げに鼻を鳴らす。私はその癖が、やっぱり彼の愛犬と似ていると思った。

「今度は存分に見れば良い。お前もやりたければ教えてやるぞ」
「わ、分かりました」

 あまりに社長が自信満々に言うので少し押されてしまう。でも、もしそんな日が来たら良いのにと、心の奥でこっそり天に祈ってみた。


 船内放送が目的地への到着を告げる。
 下船の準備をし始めた社長が私に振り向いた。

「そう言えば……良い香りだろう?」

 それは紛れもなく私が今日つけている香りのことだろう。式典を見守るのに、今日はつけようと昨日の夜から決めていたのだ。

「あっ、分かりました? 結局港の潮風とか機械油の臭いに消されちゃうとも思ったんですけど……どうしても使いたくて」
「お前を潮臭いとか油臭いと思った事はないから安心しろ」

 そう言って社長は目を細めてから、私が一番好きなあの柔らかい笑みを浮かべた。

「人によって香りが変わると言うが、お前にはそれが絶対合うと思っていた。俺の読みは正しかったな」
「ありがとう、ございます……」

 社長がさらっとそんなことを言うから、私だけ恥ずかしくなってしまって言葉が尻すぼみになってしまう。ちゃんと私の事を考えて、香りを選んでくれただなんて。

「失礼します! 社長、下船の準備が整いました」

 その時操舵室前の廊下から兵士のものと思われる声が聞こえてきた。

「ハァ……今行く。歩きながらで良いから報告を聞かせてくれ」
「はっ!」

 社長はやれやれと肩を竦めると、行くかと言って私に背を向ける。

 最後に一つだけ、お礼と一緒に伝えたかった事があった私は悩んだけれどそれをやっぱりちゃんと伝える事にした。
 言わないときっと一生伝わらないから。もしかしたらいつまた、会えなくなってしまうかも分からないし。

「社長の香り、好きだったので……嬉しいです」

 外に兵士もいるし聞こえなかったらそれで良いからと、小さく呟いてみた。

 すると社長は足を止める。振り向きはしなかったから、もしかしたら何を言われたのか分かってなくて反射的に止まっただけなのかもしれない。

 言ってしまったらやっぱり恥ずかしくて、言わなければ良かったと思った私は、その方が良いななんて考えていたけれど。

「……知っていたのか」

 そう呟いてから片手で口元を覆うと、社長は首を小さく横に振った。
 そして深い溜息をついてから、振り向きもせず早足で部屋から出て行く。

「なに、今の……?」

 社長のその意外な反応に驚いてしまった私は彼の意図が分からず、他の兵士に呼ばれるまでその場から動けなくなってしまったのだった。

 今だって確かに私と似た――しかしその人自身が持つ匂いのお陰で少し違う、私の大好きないつもの彼の香りがこの部屋に残っている。

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