2-6


 副社長からの連絡が途絶えて数ヶ月。私はあれから、そもそもあの日々は夢だったのではないか、私はただ幻から目が覚めただけなのではと思うくらいの平凡な日常を送っている。
 それでも電話の連絡先にはちゃんと『ルーファウス神羅』の名前が登録されているし、手元には彼のサインやメッセージが書かれた資料もある。
 心配だけが募っていく、そんな毎日だった。

 私は科学部門に用事があったので彼等の研究室に向かう。科学部門の研究室はこの本社ビルに二つあって、一つは統括である宝条博士が取り仕切っている部屋で、そこは上層階にあり私達は入れない。
 私がやってきたのは中層階にある、兵器開発部門や治安維持部門と連携したプロジェクトを行ったり市販薬を作ったりしているチームの研究室だった。

「すみません、マテリア持ってきました」
「あぁ……ちょっと待って。今手が離せなくて」

 偏見かもしれないけれど科学部門の人達は総じて愛想が悪いと思う。しかも皆顔色が悪くて、言うなればもやしのような人達ばかりだ。
 もしかしたら開発部門の私達も、他の部署の人達から見たら皆同じに見えるのかもしれないけれど。

 科学部門の研究員は、この時間の訪問を約束していたはずなのに他の作業に入っているらしい。統括に似てなんともマイペースな人達だ……と言っても私は宝条博士と会ったことはないので噂で聞いただけなのだけど、どうやら社長にすら物申すような人らしいと聞いたことがある。

 約束していた研究員の手が空くまで暇になってしまったので、彼の仕事が終わるまでその様子を眺めることにした。
 見ると、彼の目の前のポッドの中には見覚えのある黒い獣が入れられている。

「あの子、確か副社長の……」

 副社長には『ディー』と呼んでいた軍用犬が居たはずだ。前に一度だけジュノンで挨拶をしたことがあるけれど、あの時よりだいぶ身体つきも大きくなり凛々しくなった気がする。

「ダークネイションを知ってるのか?」

 研究員はモニタから視線を外さずに問いかけてきた。彼の目の前には軍用犬の戦闘パラメーターが表示されている。

「たまには調整してやらないとね。こいつ程の最高傑作はなかなか出来ないのに、社長の息子がなかなか寄越さなかったんだ」

 いくら自分達が造ったからと言って、生き物をモノ扱いするのはどうかと思う。
 私が兵器に対して抱いている感情の方がまだ友好的だ……それがどうかと言われれば何とも言えないのだけども。

 しかし、ここにダークネイションがいるということは副社長の出張には付いていっていないと言うことなのか、それともこの子だけ帰ってきたのかどちらなのだろう。
 研究対象以外興味ゼロな研究員に聞いても無駄だとは分かっているけれど。

 ようやく調整が終わったらしいダークネイションがポッドから出された。太い鎖を何重にも巻かれ、彼は窮屈そうに身震いした。

漆黒の獣は研究員に鎖を引かれて数歩歩くと、私の前で足を止めた。

「なんだ?」

 研究員が首を傾げる。それもその筈、ダークネイションは私を見上げて、後頭部から伸びる尻尾のような触手を横に振っているのだから。

「覚えててくれたの?」

 私はダークネイションの前に屈むと、彼の顎に手を伸ばす。不思議と、噛まれないという自信はあった。

「おい、危ないぞ」

 研究員が慌てて私を止めようとしたけれど、ダークネイションはその予想を裏切って私の指先に自ら顎を乗せてくる。

「よしよし、本当にお利口だね。久し振り」

 ジュノンで会った時はどちらかというと小馬鹿にされたような、ご主人に迷惑かけるなというような視線を送られた記憶があるけれど、今日は久々の邂逅に喜んでくれているのか分からないがご機嫌なようだ。

「し……信じられん。人造の軍用犬だぞ」

 軍用犬は主人にのみ懐き、命を懸けて守るようプログラムされるものだ。だからこの研究員の驚きは理解できる。
 しかし、主人に忠実ということはつまり主人が許可した相手には心を許すという事な訳で。この研究員はそんなこと知る由もないから驚いているのも当然だ。

「ちゃんとご主人の言いつけを守ってるんだね」

 あの時確か副社長はダークネイションに私を覚えさせた筈だ。賢いこの軍用犬は、教えられた通りに私を忘れないでいてくれた。その事がとても嬉しい。

「なるほど、これは興味深いな……」

 研究員は顎に手を当ててなにか考え込み始めた。何か思いついたとしても、変な改造するなら許さない。

 ダークネイションはしばらく目を細めて私に撫でられていたが、やがて私の持っているマテリアに目を向ける。

「これはね、かみなりのマテリアだよ」

 私がマテリアを見せてあげると彼は鼻を寄せて犬らしく匂いを嗅いだ。

「あぁ。こいつはサンダーを使えるから分かったんだろう」

 思考から戻ってきた研究員が言う。さすがは科学部門自慢の傑作だけあるらしい。マテリアなしで魔法を使えるなんて。
 
「すごいね。それでご主人様を守るんだね」

 褒めてあげるとダークネイションは分かったのか得意気に鼻を鳴らした。その仕草はまるで、誰かがフッと笑う様子を彷彿とさせる。

「ご主人様は元気?」

 私がそう問いかけると、ダークネイションは赤い眼でじっと私を見つめる。
 何か言いたげな様子だけれど、勿論私に犬の言葉を理解できる能力は無い。

「副社長の事か? こいつはタークスが連れてきたから分からんなぁ」

 聞いてもいないのに研究員が口を挟んでくる。長期出張中の副社長が自ら連れてくるとは私も思っていない。やはりこういう事はタークスに任されているらしい。

「そうだ、お利口さんに一つ良いことを教えてあげるね」

 私はマテリアをしまいながらある事を思い付く。何度か自分では試してみたから、多分この子にも出来るはず。

「私が新しく作ったショットガンがもしあの方の手元に渡る日が来たら、キミの得意なサンダーを放ってごらん。間違ってもご主人に当てたら駄目だけどね」

 きっと頭の良い子だから分かってくれる筈だと、彼を信じることにしてみる。ダークネイションは心得たと言わんばかりに目の前にあった私の頬をぺろりと舐めた。

「ぎゃ、くすぐったい!」

 私は突然のことに変な声を上げてしまった。研究員がぎょっとした顔で私を見た他は、涼しい顔のダークネイションだけ。

「ふふ……ちょっと元気でたよ。ありがとう」

 見た目は恐い人造の軍用犬だけれど、まるで普通の犬のような仕草に私は声を上げて笑う。

「ご主人様によろしくね。私は元気です、待ってますって……伝えてくれるかな」

 ダークネイションは相変わらずすました顔で、まるで彼のように再びフンと鼻を鳴らした。



 科学部門が散々しつこいらしいので調整に出していたダークネイションがようやく帰ってきた。

「ディー、こっちだ。疲れただろう」

 統括を始めとしてあの部門とはあまり関わりたくないのが本音だ。オヤジと結託して何をやっているか分からない。
 アバランチにも同じような奴がいたが、あの手の人間は使い方次第ではあるものの理解に苦しむ事を考えている奴ばかりだ。

 俺は足元に寄り添ってくる愛犬を撫でる。初めて俺の元に寄越された時と比べると二回りほど成長しただろうか。
 実は先程からダークネイションが何か探しているようなそわそわとした素振りを見せていることが気になっていた。

「どうしたんだ?」

 撫でるのをやめると、ダークネイションは俺の周りを嗅ぎ回ったあとソファの横のサイドチェストの前に座った。
 どうやら探し物をしているらしい。まるで普通の犬のように匂いを辿って。

 俺は仕方なくダークネイションの為にサイドチェストの引き出しを開けてやる。
 この中には数少ない俺の大切な物、ナマエが作ったショットガンが入っているのだが。

 ダークネイションは引き出しの中に鼻先を突っ込んで愛銃の匂いを確かめると、もう満足だと言わんばかりに数歩下がった。

「これがどうかしたのか?」

 愛犬の言わんとすることが分からず俺は小首を傾げるしかない。
 そう言えば、さっきまでダークネイションはどこに行っていた?

(科学部門の一般研究室か……。あり得るな)

 ナマエは相変わらずマテリアの研究や開発をしているらしい。特に研究となれば科学部門と関わることも多い仕事だ。

「まさか……会ったのか?」

 俺が小声で聞くと、ダークネイションは返事の代わりに俺の真似をしたのか小さく吠えてみせる。

 なんという偶然だ。
 これも彼女の言うところの幸運とやらのお陰なのか?

「……元気そうだったか?」

 俺は屈み込んでダークネイションの頭に手を乗せる。愛犬は尻尾代わりの触手を振って俺の言葉に応えている。

 マテリアの担当になってからは武器コンペにも参加していないらしく、そうなると公に出てくる立場では無いナマエの動向を調べるのもなかなか難しい。
 少しでも彼女の情報を得ることができたのは俺宛にプレゼントを贈ってくれたあの日以来だった。

「そうか……。良かった」

 彼女の顔を思い浮かべながら、俺はダークネイションの首元をわしわしと撫でてやる。
 するとダークネイションは突然俺の頬をべろりと舐めた。

 いくら愛犬と言っても人造の軍用犬であるダークネイションが取った当然初めての行動に、俺はしばらく唖然としてしまった。
 しかしやがて、初めて体験したダークネイションの本当に犬らしい行ないに腹の底から笑いがこみ上げてくる。

「クククッ……、ナマエの影響か?」

 ダークネイションは得意気に鼻を鳴らす。本当に賢い奴だ。

「ありがとうな、ディー」

 思いがけない幸運が、ささくれていた俺の心をほぐしてくれたような気がした。

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