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「ポイント増えましたねー。また副社長がいらした時にでも使ってくださいね」
「またお前が増やせばいい」

 副社長がそんな事を言い出すものだから、それはまた連れてきてくれると言う事なのだろうかと考えて私は勝手に顔を赤くした。でも普通にただくれるということなのかもしれない。こんな遊園地のポイントなんて、彼にとっては玩具のお金みたいなものだろう。

 チョコボスクェアを出た私達が次の行先を考えながら歩いていると、イベントスクェアへ続く通路の前で係員のお兄さんに呼び止められる。

「これから新作の劇のリハーサルを行うのですが、良かったら観ていかれませんか?」
「お芝居ですか?」
「はい! リハーサルと言っても本番の衣装や小道具を使って通しで行いますので、一般のお客様より一足先に完成したものが御覧いただけますよ」

 お兄さん曰くゴールドソーサーの演劇は世界的に人気らしく、新作となればチケットを取るのにも相当苦労するらしい。

「チケットくらいいつでも取れるが、せっかく来たのだし貸切で観られるのも悪くない。どうするナマエ」

 神羅カンパニーの副社長なら、確かに一声掛ければいつでも最前列で観劇できそうだ。でも同じ神羅の人間でも私のような平社員ではそうもいかない。

「観たいです! あの、副社長のお時間が大丈夫ならですけど」
「それなら問題無い。席に案内してくれ」
「かしこまりました!」

 イベントスクェアに入ると、私達は前寄りの列の真ん中に案内される。

 並んで席に着いたところで、先ほどのお兄さんがマイクを持って幕が降りたままの舞台に出てきた。

「えー、本日はお忙しいところ、我が劇団の新作の為にご来場いただき、誠にありがとうございます」

 お兄さんの前口上もリハーサルの一環なのだろう。これから始まるお芝居の作者や簡単なあらすじの紹介が始まった。

「笑い有り涙有り、愛と戦いの冒険活劇……」

 私はお兄さんの言葉を復唱してみる。
 笑いに涙に愛……果たして副社長は普段こういうお芝居を観る事があるのだろうか。

「今、俺に似合わないと思わなかったか?」
「いえっ別にそんな」
「目が泳いでいるぞ」

 副社長がじっと見つめてくるから恥ずかしくなって目が泳いだだけなのに。断じて、副社長と冒険活劇が合わないなんて思っていない。断じて。

「フン。見識を広める為にはたまにこういうものに触れるのも悪くないだろう」

 何故か得意げに鼻を鳴らした副社長は、優雅に腕組みして舞台に目を向ける。
 私も彼に習って前を向き直した。せっかく私達のためだけに上演してくれるのだから、真面目に観ないと申し訳ない。
 やがて客席の照明が落ちて、音楽が流れ始めた。

 劇の内容はお兄さんの言った通り、笑い有り涙有り恋愛有りの冒険活劇だった。

 他にお客さんがいない上に副社長はゲラゲラ声を出して笑う人ではないので、初めの内私はコメディシーンになる度に、これは笑って大丈夫なのかと若干気にしながら観ていた。
 けれどその内そんな事も気にならないくらいお話に引き込まれていった。

 話は進み、クライマックスが近付いてくる。
 主人公とヒロインはようやく想いが通じ合い、愛を確かめ合った二人は舞台の真ん中で抱き合っていた。
 私はと言うと二人にすっかり感情移入してしまって、主人公の為に献身的に努力してきたヒロインがやっと報われた事で感極まっている。

「ううっ……良かった……」

 握り締めたハンカチを口元に当てながら、他にお客さんがいなくて本当に良かったと考える。
 副社長は私が少しくらい涙声を漏らしたところで気にするような人ではないだろう。迷惑にならないよう声のボリュームには出来るだけ気をつけているつもりだけれど。

 ふと気が付くと、流石に気になったのか副社長が私の方を見ているような視線を感じる。やっぱりうるさかったのだろうかと、私はハンカチを強く口に当てた。
 すると副社長はずっと組んでいた腕を解いて私の背中の方に片手を伸ばすと、後ろから私の頭を撫で始める。

 驚いて隣を見ると、副社長は知らん顔で前を向いてしまった。

「暗くてよくは見えないから、安心して劇に集中しろ」

 そう言われて我に帰った私は、話の続きを見るために前を向く。もしかして、泣いている私をなだめてくれているのだろうか。
 突然の出来事に驚いたせいか、それとも優しく撫でてくれる掌のせいか。涙はすっかり止まってしまった。

 そのままラストシーンを迎えるまで副社長はずっと私の髪を撫でていた。
 そして感動のラストシーン。主人公とヒロインは見つめ合い、少しずつ二人の距離は近付いていく。

 私が息をするのも忘れてその光景に見入っていると、ようやく副社長は私の髪を撫でるのを止める。そしてその手を私の頭から肩に下ろしたかと思えば軽く引き寄せられて、私の頭は副社長の肩に触れた。

 それと同じくして主人公とヒロインの唇が触れる。お芝居だから本当には触れていないのかも知れないけれど、少なくとも私にはちゃんとそう見えた。

 舞台の上と隣の席、どちらに集中していいのか分からなくなった私は目が回りそうになる。

「終わってしまうぞ。きちんと前を向け」

 落ち着いた低い声で耳元に小さくそう囁かれたら、誰だって条件反射で従ってしまうだろう。しかし一体誰のせいだと思っているのだろうか。
 そんな文句が思い浮かんだ瞬間に副社長から品の良い香りがふわりと香ってきて、頭がくらくらした。

 私はなんとか言われた通りに前を向いてラストシーンを目に焼きつける。二人が幸せになって本当に良かった。

 だんだん音楽もフェードアウトしていき、冒険活劇は遂に終幕となった。
 空いている片手で膝を叩く副社長に合わせて私も拍手をすると、次第に幕が降りてくる。完全に幕が降り切るまで、私達は惜しみない拍手を送り続けていた。

 客席が明るくなり、幕の前にまた初めと同じように係員のお兄さんが出てくる。それに続いて演者の人達も出てきて横一列に並び、全員で綺麗に揃ってお辞儀をした。
 私達はもう一度、彼等が舞台袖に掃けていくまで拍手を続けた。

 その間もずっと私の肩は副社長の手に引き寄せられていて、頭は副社長の肩に軽く乗っている。あまりに恥ずかしくて劇の途中で一度体勢を戻せるか試みたけれど、肩に回された腕に力が込められてしまい未遂に終わったのでそのままだった。

「そこまで期待はしていなかったが、良い芝居だったな」

 ようやく膝を叩く拍手を止めた副社長が言う。

「お前があそこまで感情移入したのも理解できる」
「うるさくして申し訳ありません……」

 嗚咽を漏らすほど泣いていた事に触れられてしまえば、余計に恥ずかしくなった。

「感動して流す涙は悪いものではないだろう」

 そう言って副社長は私の顔を覗き込んだ。肩を抱き寄せられているので必然的に顔も近くなる。

「まだ目が赤いな」
「あんまり見ないで下さい……」

 私が俯くと副社長はようやく私の肩を解放してくれた。少しだけ、涼しくなった肩が名残惜しい。

「俺にはあまり共感性というものが無いように思えるが……」

 副社長はまるで独り言のように呟く。

「それでも、柄にもなく心が動かされた気がするのは……ナマエの影響だろうな」

 それは、副社長もこのお芝居に感動していたという解釈で良いのだろうか。私があれだけ号泣していたから釣られたということ?

「少しだけ、あの二人に絆されてしまったようだ」

 そう言った副社長は普段と比べると少し困惑しているような表情を浮かべていた。
 もしかして、それでつい私の肩を抱いたとでも言いたいのだろうか。さすがにそれは少し、チャラいのではないでしょうか? 副社長。

「副社長も、雰囲気に流されちゃうことがあるんですね」
「……そういうつもりは無いが」
「ふふっ」
「何がおかしい」

 その時私は、初めて副社長が照れたところを見た。ただ私が勝手にそう思っただけかもしれないけど、こんな場面自体がなんと貴重なものなのだろう。
 それに、少しだけ照れた……ように見える副社長の伏せた睫毛の長さや何か言い返そうとしているけれど言い淀んでいる口元。私はそれに気付いてドキリとさせられる。

「そうやって惚けている暇があるなら次に行くぞ」
「惚けてなんて……あっ待ってください!」

 副社長は少しだけいつもより赤みのある頬を隠すように勢いよく立ち上がると、出口に向かってスタスタと歩き出す。
 私はそんなに惚けた顔をしていただろうか。絶対に違うとは言い切れないけれど。


「時間的に、回れるのはあと一つくらいか」

 副社長は腕時計を確認してそう言う。楽しい時間はあっと言う間だ。

「ナマエに特に希望がなければラウンドスクェアに寄ろうと思うんだが」
「副社長のお勧めのところが良いです」
「では行くぞ」

 副社長に着いてラウンドスクェアに向かうと、そこにはレールに吊り下がったゴンドラの乗り場があった。

「これは急降下したり急旋回したりしない。速度も一定だ」

 私がコースターで目を回していたのも最早懐かしい思い出になりつつある。
 副社長は私の前を歩き、乗り場でチケットを購入してくれた。

 大人が二人乗れば満員といった広さのゴンドラには四方に大きな窓がついていて、どうやらこれは景色を楽しむ乗り物らしいことが分かる。
 副社長に手招きされたので小走りで向かうと、係員がゴンドラのドアを開けて待っていてくれた。

 片手を副社長に支えてもらってゴンドラのドアを潜ると、私は進行方向に対して前向きの席に座らせてもらう。
 副社長は私の正面に座り、長い脚を組んで窓際に肘をついた。

 ドアが閉められるとゆっくりゴンドラが動き始める。レールは上にあるので下の視界を遮るものは無く、まるで空を飛んでいるような感覚になった。

 動き出してすぐ、窓の外にチョコボスクェアが見えた。ちょうどレースをやっているところらしくカラフルなチョコボ達が下を走っていく。

「副社長、チョコボが走ってます!」
「本当に好きなんだな」

 副社長はそんな風に言いつつもちゃんと私が指し示す方に目をやってくれる。
 そこで私は、これまでもなんだかんだ言いつつ、副社長が頭ごなしに私を否定することは今まで一度も無かった事に気がついた。

(優しい人なんだな)

 思えば、私は出会いから始まり副社長には沢山迷惑をかけている。
 副社長は私にも助けられていると言うけれど、私はせいぜい頼まれたものを作ったぐらいだ。しかもお礼までしていただいて、今日は誕生日が近いからとこんな素敵な場所に連れてきてもらっている。

(懐の深い人なんだって、他意は無いんだって分かってる。でもこんな風に優しくされて好きにならないわけなんて無いのに)

 向かいで頬杖をついて窓の外を眺めている横顔を盗み見る。今日はいつも通り下ろしている前髪がサラサラと揺れて金色に輝く。
 長い睫毛にシャープな顎のライン。何度見ても、まるで彫刻の様に整った顔だと思う。
 その横顔があまりに綺麗で、私は景色を見るのも忘れて見惚れてしまった。

「そろそろよしてくれ。穴が開く」

 うっかり見詰めてしまっていた事はしっかりバレていて、苦笑いの副社長がこちらを見る。

「あっ、すみません……」
「外を見た方が面白いのではないか?」

 促されるままに窓の外に視線を移す。下には最初に乗ったコースターの乗り場が見えた。

「今日は本当に楽しい一日でした」

 本当に心からそう思えたから、窓の外を見ながら素直な気持ちでそう告げてみる。
 副社長もああ、と頷いてくれたようだった。

「あの時……カードが付いていたと思うんですけど」

 そう言えばきっと何の事かは分かると思う。あの時はまさか副社長ほど上の人に納品されるとは夢にも思っていなくて。今思えばどの口でそんな事をと、なんとも恥ずかしい。
 でもこれまでに一度も触れられなかったから、副社長がどう思ったかずっと気になっていた。あんなもの、そもそも読んでいなかったかもしれないけど。

「面白いことが書いてあるなと思った」
「偉そうな事を書いてすみませんでした」
「いや、あんな事を願われるなんて母親が死んでからは無かったからな」

 副社長は昔にお母さんを亡くしているらしいことは聞いた事があった。そしてプレジデント社長の女性関係にまつわる噂も、何度か。

 そんな生い立ちを想像してみると、目の前の青年はもしかしたら、当たり前に誰かに甘えたり頼ったりする事が出来ないまま大人になってしまったのかも知れないと気が付いた。
 強く賢く、時には冷徹とまで言われる副社長だけれど、その根底には誰にも弱さを見せることができなかった過去が有るのではないか……私はふと、そんな事に思い至る。勿論これは、私の想像の範疇でしかないけれど。
 それなのに副社長は、私みたいな末端社員にさえこんなに優しいなんて。

「あの、副社長」
「なんだ?」
「その……頼りないのは重々承知しているんですけど」

 私は目の前で軽く首を傾げて私の言葉を待っている、綺麗で、強くて、優しいこの人が……好き。

 冷たい海みたいな色の瞳がじっと私を見詰めている。常に冷静なようでいて、時々暖かく見えたり揺らいで見えたりもするその色さえも、泣きたくなるくらい愛おしい。

「もし副社長が誰にも言えない辛い気持ちとか、悲しい気持ちとか、そういう抱えきれない想いに負けそうになることがあったら、その時は私になんでも話して欲しい……です」

 そう言い放ったのは自分なのに、こんな偉そうな事を言ってどんな反応が返ってくるのか少し怖くて、言葉尻に近付くにつれて歯切れが悪くなってしまったけれど。
 それでもこれは、私の本心。
 大好きな人だから一人で抱えないで欲しい。副社長だって、一人の人間なんだから。

「……俺には、とっくに幸運がもたらされているさ」

 少しの間があってから、副社長は頬杖を付くのを止めて私を見た。

「ナマエ、お前が……」

 ドン、ドドン!

 その時、空に何発もの花火が打ち上がった。ゴンドラの中も赤や黄色の光に照らされる。

 何か言いかけていた副社長の言葉は花火の轟音に掻き消されてしまって、聴き取ることができなかった。
 
 しばらく空一面が花火の光に彩られていた。
 その間も私は外の景色を見ることは出来ず、何か言いかけたまま止まってしまった副社長をただぼんやりと見詰めていた。

「……手を」

 花火の音が落ち着くと、副社長は咳払いを一つしてからそう言う。
 言いかけていた言葉の続きを教えてくれる雰囲気では無さそうだったので、私は素直に従って両手を前に出した。

 すると、掌に乗せられたのは白い小箱。その表面に金色の文字で彫られているのは、誰もが知っている高級ジュエリーブランドの名前。

「え、あの……これは……」
「誕生日プレゼントだが?」

 プレゼントだが? ではない。この中にはどう考えても私のお給料ではそうそう簡単に買えない代物が入っている筈だ。

「良いから早く開けろ。着いてしまうぞ」

 はっとして窓の外を見ると、まだ遠くではあるもののゴンドラ乗り場が見えている。
 私は促されるまま小箱を開けさせていただく。すると中には、小振りなピアスが収められていた。

「綺麗……」
「この前のワンピースに似合うだろう」

 そのピアスはゴールドの土台にアイスブルーの石があしらわれている。それは私のような庶民が見ても一目で分かる程度に洗練された細工が施されており、キラキラと輝いていた。
 確かに、ネイビーのレースワンピに合わせればよく映えるだろう。

「でもこんな高そうなものいただけないです」
「お前は物の価値を値段でしか見られないのか?」

 副社長は少し不満そうにそう言う。

「俺がナマエに似合うと思ったからプレゼントした。お前が気にするべきなのはその事実だけで十分だ」

 そこまで言われてしまうとこのピアスを返す訳にもいかなくなってしまう。
 私が手元のピアスを眺めながらありがとうございますと呟くと、副社長はそれで良いと満足そうに笑った。

 降車場までまだ少しあるようだったので、副社長に促されて早速今しているありふれたピアスと付替えさせてもらう。

「俺の見立ては正しかったな」
「あ、ありがとうございます」

 遠回しではあるけれど褒められた気がして照れ臭い。わざわざ副社長が用意してくれた物だから、当然と言えば当然なのだろうけど。

「私からも、ちゃんとお返しさせてくださいね」

 副社長は少しだけ驚いたように目を開く。そんなにおかしなことは言っていないと思うのだけど……。確かに、立場を考えろと言われればそれまでか。

「あの……ご迷惑でなければですが。どんなものが欲しいとか、ありますか?」

 天下の神羅カンパニー副社長に聞くことじゃないのは分かっているけれども。
 
 副社長はふ、と笑う。

「そうだな。お前から貰うなら実用的な物が良いかもしれないな」
「それって……武器ってことですか?」

 確かに、合理的な彼らしいとは思う。兵器開発者として信用されているなら、嬉しいことこの上ない。
 副社長はその答えは言わずに、長い足を組み直した。

「ナマエ」

 改めて名前を呼ばれて私の心臓が跳ねた。前を向くと、いつの間にか副社長の表情は少しだけ曇っているように見える。

「一つ、頼まれてほしい」
「私にできる事なら、喜んで」
「……何も聞かずに、俺の背中を押してくれないか」

 そう告げる副社長の瞳は僅かに揺れていて、彼にしては珍しくまるで何かを恐れているような、迷っているような印象を受けた。

 私はそんな彼を見ているのが辛くて、思わず副社長の手に向かって両手を伸ばす。
 私の両手でちょうど副社長の片手が包み込めるくらいの差がなんだか悔しい。本当は両手を全部包み込んであげたいのに。

 私に手を握られた瞬間、副社長の指が僅かに動いた。しかし私は気にせずにぎゅっと包み込む。
 見詰めると、彼の青い瞳に私が映っていた。

「いつも、貴方の幸運を願っています」

 そう伝えれば、副社長の瞳から迷いが消えた気がした。

「……この上なく心強い言葉だな」

 そう言って副社長は穏やかな表情を浮かべる。願わくば、ずっとそんな風に笑っていて欲しい。

 私はそのままゴンドラが止まるまで副社長の手を握り続ける。少し冷たかった副社長の手は、私が離した時にはすっかり温かくなっていた。


 帰りのヘリを降りた後、副社長はどこかから電話が掛かってきたらしくヘリポートの隅に歩いていく。
 その間先に帰るのも無礼なので、私は手持ち無沙汰で待っていた。

 気付くと横には行き帰り共に操縦してくれていたタークスのツォンさんが立っている。

「あの、今日はありがとうございました」

 平社員の癖にろくに自己紹介もしないままヘリに乗せてもらって申し訳ないと思っていたので、この機会にとりあえずお礼の言葉を述べてみる。
 ツォンさんは特に表情を変えず、仕事だからと答えた。

「シスネと仲が良いそうだな」

 まだ電話をしている副社長の後ろ姿を眺めていると、今度はツォンさんから話しかけてきた。

「はい。とても良くしてもらってます」
「そうか……」

 ツォンさんはまた、それきりしばらく黙っていた。
 私の知っているタークスの二人とは違って、副社長に対してかなり礼儀正しい人だなと思う。でも、あの二人と比べてより一層何を考えているのか全く分からない、人を寄せ付けない雰囲気がある。
 そんなツォンさんは、副社長に気をかけていただいている平社員の私の事を一体どう思っているのだろうか。

「あの、ツォンさん」
「なんだ?」
「いえ……やっぱり何でもないです。すみません、へへ」

 よく考えなくても、副社長と私の組み合わせってどう思いますかなんて聞くのはあまりに失礼すぎて、私はへらりと笑って誤魔化した。
 しかしツォンさんはまだ射るような視線で私を見詰めていた。

「副社長はああ見えて、難しい立場におられる」

 その言葉は正しく、調子に乗りそうだった私に釘を刺すためのもの。
 そんな事は私だって分かっている。
 今日のような夢の時間は、偶然に偶然が重なって生まれた、本当に特別な出来事だったという事だって。

「……分かってます」

 私は逃げ出しそうになりながらもぐっと両足に力を込めて真っ直ぐに立つ。

「私は副社長の頼まれ事をこなして、今回そのお礼を十二分にしていただいた……ただそれだけです」

 自分の口から出た言葉なのに、その声はどこか他人の物のようにさえ聞こえてきて。

「ちゃんと弁えてますから、安心してください」

 それでも良いから。
 副社長が困ったときに少しでも助けになれば、それで。
 雲の上の人を好きになるって、そういう事。

「でも……想うのだけは、許してください」

 そう小さく呟いた私の声はしっかり届いていたはずなのに、ツォンさんは何も言わずただ私の事をじっと見詰めていた。


「すまないナマエ。急用が入ってしまって一緒に送っていけなくなった」

 ようやく通話を終えた副社長が戻ってくる。本当はこの後家まで車で送ってもらえる事になっていて、副社長も一緒に乗っていくはずだったのだ。

「ツォン、頼んだぞ。俺はこのまま下に行く」
「かしこまりました。くれぐれもお気を付けて」

 ツォンさんは副社長に一礼すると、私を先導するために歩き出す。

「ナマエ」

 黒スーツの背中を追いかけようとした瞬間呼び止められ、私は副社長の方を見た。副社長は険しい表情を浮かべている。

「……良いか、しばらくジュノンにもここの上層部にも近付くな」

 どちらも普通に過ごしていれば今の私には縁がない場所だ。ジュノンにももうしばらく行っていない。
 それなのに敢えて副社長がそう言った意図が分からず、でもあまりに真剣に言われたものだから私はただ頷くことしかできなかった。

 それでも副社長は満足したようで、ようやくまた柔らかい笑みを浮かべる。
 私はこの表情が本当に好きだな、なんてぼんやり考えていると、不意に副社長の手が伸びてきた。

「……今日はありがとう、ナマエ」

 そう言って副社長は私の頭から頬までを一撫ですると、もう行けと言って自分も踵を返した。

 私はツォンさんの背中を追いながらも、最後に一瞬だけ副社長が見せたほんの少しだけ切ない色を含んだ目が頭から離れなくて、無意識に耳たぶに触れる。
 指先に当たった小さな石は冷たくて、少しだけ私の気持ちを落ち着かせてくれた。

(ありがとうって、私の台詞なのに)

 何故か、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。

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