7-6


 ーールーファウス。

 聞き慣れた、それでいて随分と懐かしい声だった。
 温かく、優しい響き。

 こっちへおいで、と呼ばれた気がした。
 声がした方に振り返ると、先には底なしの暗闇が広がっている。

 ーーわたしの可愛いルーファウス。

 もう一度名前を呼ばれた。
 暗闇の中から、女の細く白い手が伸びてくる。
 俺はこの手をよく知っている。

 俺がこの世に生を受けてから、初めて俺を抱きしめた手。
 まだ小さかった俺の手を握りしめ、頭を撫で、頬を包み込んだ手。

 その手が今、俺を求めて虚空を彷徨っている。暗闇の中で迷っているのだろうか。

 ここにいる、と伝えたかった。
 しかし口に出す前に、彼女はもうこの世にはいないのだと思い出した。

 となれば、今度こそここはライフストリームの中なのか?
 どうして俺はこんなところにいる?

 それについては思い出そうとしても、まるで記憶に靄がかかったように何も思い浮かばなかった。
 今分かるのは、この声の主が俺の……母親のものだということだけだ。

 ーーおいで、ルーファウス。

 三度呼ばれる。
 俺は手を伸ばしかけて、ついとそれを止めた。
 目の前に差し出された手には、ここにあるはずのない指輪が嵌められていた。それは大粒のダイヤモンドが光る金色の指輪だ。

「そちらへは行けない」

 すると俺を求めて伸ばされていた手も動きを止める。

 ーーどうしてなの? 愛しいルーファウス……。

 それは確かに母の声色で、俺はぐっと奥歯を噛み締める。もう長い間忘れていた感情を呼び覚まされて、苛立ちすら覚えた。

「……お前はだれだ」

 自分でも驚くほど低く、冷たい声が出た。
 これが俺の母親ではないことくらい分かる。たとえ俺が既に死んでいて、ここがライフストリームの中だったとしても。

 母が死ぬまで身に付けていたあの指輪は、ナマエが大切に預かっていてくれているのだから。

「俺の母親を騙るのであれば、相応の覚悟をしているのだろうな」

 ーー怒らないで、ルーファウス。お願いよ。

「いい加減正体を現せ、化け物」

 すると俺の言葉を合図に、母を象っていたそれはぐにゃりと歪む。暗闇の中で蠢いているのは、何かおぞましいーー決して人ではない何かだった。
 例えば、あの北のクレーターで感じたものに近いような気がした。

 それは何かを語るでもなく、ただ静かに蠢きながら、背筋がゾッとするような気配を放っている。
 圧倒的な存在感の中に、どうしようもない絶望を孕んでいた。

「お前はまさか……」

 俺が問おうとした言葉は不気味な笑い声に掻き消された。
 まるで俺をーー人類を嘲笑うかの如きその笑いは、生理的な嫌悪感と恐怖を俺に植え付ける。

「くっ……」

 頭が痛い。頭だけではなく、心臓も、肺も、内臓という内臓や血管、全てが痛んだ。
 何かが俺の身体の中で疼いている。自分のものではない、何かの"意思"が。

 こうして俺の深層心理を掘り起こそうとしてくるのは心底気に食わない。
 奥歯が削れるくらいにギリギリと音を立てる。こうでもしないと意識を保っていられないほどの激痛に、きっと今俺は酷い形相をしているだろう。
 
「ナマエ……ッ」

 それでも薄れていく意識の中、俺は愛する女の名前を呼ぶ。
 こうしてお前にすがらないと自分すら保てない。無様な俺を、許してほしい。



 レノが運転するトラックは悪天候の中で前を行くキルミスター医師の車を見失い、それでもなんとかルーファウスが監禁されているという洞窟まで辿り着いた。
 私はずっと、ただひたすら手を組んで祈っていた。なぜなら、それしか出来なかったから。

 洞窟の周りは大雨のせいで水浸しになっている。到着した頃には雨は上がっていたけれど、周辺が冠水したせいで大きな穴が開いたこの洞窟の中は洪水が起こっているらしい。
 しかもこの洞窟の底にルーファウス達患者が収容されているという。

「レノ見てこの水! 早くしないとルーファウスが!」
「分かってる! クソ、足元悪ぃな……ナマエ、足取られるなよ、と」

 トラックから飛び降りるように降りた私たちは深いぬかるみに嵌りそうになり、慌てて荷台に飛び乗った。
 レノは洞窟の入り口に停めてあるキルミスターに貸した車を睨みつけて言う。そちらの車にはルードさんが同行していたので、もう中に入っているのだろう。

「オレが先に行く。お前はここで待ってろ」

 これには私も頷くしかなかった。これだけ足元が悪ければ、訓練されていない私が着いていくのは足手まといになるだけだろう。

「お願い。彼を助けて」

 私は一緒に荷台に残るダークネイションと並んで腰を落とす。
 レノは荷台から慎重に飛び降りると、一度こちらに振り返った。

「任せろ、ダチの頼みは聞くぜ。何よりあの人はオレらの恩人だしな、と」

 そう言って器用に泥溜まりを避けていくレノの背中を見送りながら、私は不安を紛らわすようにダークネイションを撫でた。


 しばらくの間、私はトラックの荷台でダークネイションと身体を寄せ合っていた。
 
「ディー、ルーファウスは無事だよね……」

 ダークネイションはクゥンと鳴いて、私の腕に鼻先を擦り寄せる。
 きっと彼も不安なんだろう。それでもこうして私を励ましてくれている。

「……私が信じなきゃ」

 誰に祈ったら良いかも分からないけれど、それでも祈らずにはいられなかった。
 目を閉じてダークネイションを抱きしめていると、突然辺りが騒がしくなった。

「ナマエ! ドア開けてくれ!」

 レノの大声に、私はハッと目を開く。洞窟の入り口から最初に出てきたのはレノとレノに肩を貸されてよろよろと歩いてくる、汚れた白いスーツを身に纏ったルーファウスだった。

「ルーファウスっ!」

 私はぬかるみで足元が汚れるのも厭わずに荷台から飛び降りて、トラックのドアを開ける。それからルーファウスの元になんとか駆けつけると、レノが支えているのと反対側の彼の肩を担ごうとした。

 するとルーファウスは僅かに顔を上げて、私が誰なのかを確認する。彼の青い目は大きく開かれて、そうかと思うと次の瞬間には伏せられてしまった。

「……レノ」
「言っとくけどオレもツォンさんも止めたんだからな、と」

 ルーファウスはレノに顔を向けて、苦々しく呟く。
 
 ーー何それ、これじゃまるで……。

「とりあえずこっちに乗ってくださいよ、と。荷台よりはちったぁ揺れないだろ」

 ルーファウスの腕を持ち上げることが出来ず棒立ちになった私には構わず、レノは軽トラックの助手席にルーファウスを押し込んだ。
 ルーファウスはぐったりと背もたれに寄りかかり、顔を背けている。

「ナマエは後ろな。落ちないように踏ん張れよ!」
「ちょっと、レノ!」
「ほらほら乗った乗った。他にも何人か乗せるぞ、と」

 戸惑う私を他所に、レノは後から出てきたルードさんとくたびれた白衣の男ーーキルミスター医師だろうーーに向けて叫ぶ。

「社長は乗せた! 荷台に何人かまだ乗れるぞ、と!」

 見るとルードさんも病人と思われる男の人を連れている。
 キルミスターは私を品定めするような目線で舐めるように見た後、可笑しそうに鼻で笑った。

「社長も隅に置けないな」
「グルルル……」
「おっと、ガードハウンドか? いや、微妙に違うな。改良種か」

 私の前に立ちはだかるように飛び出てきたダークネイションがキルミスターに向けて低い唸り声を上げる。
 しかし怪しい医者は驚きもせず、こんどはダークネイションを観察しているようだった。科学部門の元スタッフというのは本当らしい。

「せいぜい優しくしてやるんだな。社長、これからが大変だぞ」

 そう言ってにやにやと笑うキルミスター。こんな人がルーファウスを酷い目に遭わせていたと思うと腑が煮えるほどの怒りが込み上げてきた。
 私が睨んでいるとキルミスターは大袈裟に肩を竦める。

「そう睨むな。わたしは社長の主治医だぞ? これからは今まで以上に世話してやらんといけないんだから」
「……どういう意味よ」
「見れば分かる。お前さんにも包帯の替え方くらいは教えてやろう」

 キルミスターは相変わらずにやついたまま私達が乗ってきたトラックの助手席に目をやる。私も釣られてその視線の先を追うと、座席で眠ってしまったらしいルーファウスのこめかみが黒く濡れているのに気がついた。

 それを見た私はただ目を見開くしかできないでいる。
 だってそれは、街で蔓延しているあの奇病特有の症状と全く同じだったから。

「星痕症候群。わたしはアレをそう呼ぶことにした」

 キルミスターはそう言ってもう一度鼻で笑うと、洞窟から残りの患者を連れ出してきたレノとルードさんに向けて偉そうに指示を飛ばし始めた。

 ーールーファウスが、"星痕症候群"に……?

 私は鈍器で頭を殴られたような衝撃を感じてその場に座り込んでしまう。
 心配そうなダークネイションが顔を覗き込んでくるけれど、安心させてあげるような言葉は何一つ浮かんでこなかった。
 

 帰りの道中、トラックは随分揺れたように思う。
 レノがスピードを出していたからなのか、自分が震えていたからなのか、記憶が途切れ途切れなので分からない。
 ただずっと頭の中で黒いものがぐるぐると渦巻いて、私は何も考えられないでいた。

 ようやくトラックが止まったのは『クリフ・リゾート』と書かれた古い看板の前だった。夜の帳が降りて、辺りは静寂に包まれている。
 
「ナマエ! 一番奥のロッジだ……っと!」

 運転席から降りてきたレノが私に向かって何かを投げる。反射的に手を伸ばして受け取ると、それは家のものと思われる鍵だった。

「先行って、ベッド整えておいてくれー!」

 そう言いながらレノは助手席のドアを開ける。
 私はよろよろと立ち上がると荷台から降りて、レノに言われた一番奥のロッジへ向かった。

 埃っぽい寝室には、真っ白なシーツが張られたベットがひとつ。
 横になりやすいようにブランケットをよけてから、私は部屋の窓を開けた。
 夜の冷たい空気が流れ込んできて、部屋の淀んだ空気と入れ替わっていく。窓の外は真っ暗で、他のロッジにはまだ明かりは灯っていない。

 寂しい場所だな、と思った。
 それでも、静かに療養するにはちょうど良い場所なのだろう。

 ガチャ……とドアが開けられて、レノに担がれたルーファウスが入ってきた。
 泥だらけのスーツの色は、もはや白とは言い難い。いつも綺麗にセットされていた髪にも砂や泥が張り付き、白い肌には擦り傷と……黒い膿の跡。

「服、脱がせるから手伝ってくれ」

 レノはルーファウスをまず近くにあった椅子に座らせる。流石にこのままベッドに下ろすことはできないからだ。

「ちょっと痛むかもしれないですよ。我慢してくれよな、と」

 そう言ってレノはルーファウスのジャケットやスラックスを脱がしては私に手渡す。
 泥水を含んだ生乾きのそれはずっしりと重くて、脱がしたレノも受け取った私も着ていた服が泥塗れになった。

 私はその服をひとまずシャワールームに置いて、代わりにバスタオルとお湯を入れたバケツを用意して寝室に向かう。
 古いロッジとは言え、既にタークスによって生活できるような準備が整えられていたのが幸いだった。
 言ってくれればこの準備だって手伝えたのに……。そう思っていても仕方ないので、今はとりあえずルーファウスの身体を清潔にして、早く寝かせてあげないと。

 タオルを持って戻ろうとすると、寝室の中からルーファウスの声が微かに聞こえてきた。

「……見せたくなかった」
「でしょうねぇ」

 彼に応えるレノの声も。

「どっちの気持ちも分かるぞ、と。あいつはずっと心配して待ってたんだ」
「分かっている。だがあと少し待たせておいて欲しかったのだが……」
「オレたち脅されたんだぞ? 置いていくなら勝手についてって荒野で野垂れ死ぬってな」

 ルーファウスが深い溜息をついた。

「あれがそこまで強情だとは思わなかった」

 そこまで聞いて、私は遂に黙っていられずドアを開けた。

「悪かったですね。勝手に心配して押しかけて」
「ナマエ……」

 レノが脱がしかけている黒いシャツの隙間からは、身体に巻かれた包帯と痛々しい複数の傷痕が覗いている。
 困ったように私の名前を呟くルーファウスと、やれやれと片手で顔を覆うレノ。そんな二人の反応に、私はその場にいるのが辛くなった。

「一秒でも早く会いたいと思ってたのは、私だけだったみたいですね」

 自分で言葉にしたら余計惨めになって視界が歪む。
 私はバスタオルをレノに向かって投げ、バケツを床に置いた。
 
「お邪魔しました」
「おい、ナマエ!」

 レノが慌てて私を呼びながら立ち上がろうとするのは見届けず、私は逃げるようにロッジの外へ駆け出す。ルーファウスは、呼んでもくれなかった。

 外で待っていたダークネイションが寄ってきて、何事かと私を見上げる。

「ディーはルーファウスの側にいてあげて。喜ぶよ」

 俯いた私はそう言ったけれど、ダークネイションはそんな私の足元に擦り寄ってきた。

「……気、使わせてごめんね」

 私の目から溢れ落ちた涙が一粒、ダークネイションの背中に落ちる。
 彼が愛してくれるようになって、もう泣くことなんてないと思っていたのに。



「やっちまったな、と」

 俺の背中を拭きながら呆れたようにレノが言う。濡れてしまった包帯を外していく手つきは思っていたより器用で、レノ自身何度も包帯を巻かれてきたからだと思い当たった。

「聞かれてしまったことか? それとも……」
「泣いてただろ」

 俺としたことが迂闊だったとは思っている。気を張れなかったのは例の病気ーーキルミスターが星痕症候群と名付けたーーに罹患してしまったせいなのか、無事に戻ってこれた安心感からなのか。
 とにかく、ナマエを深く傷つけてしまったことだけは明らかだった。

「泣かせたならちゃんと謝らないと」

 身体の次に俺の額にも包帯を巻いたレノが言う。そんなことはその辺の子供だって知っていることだ。
 だが同時に、俺にとってはタークスに課すどんな任務よりも難易度が高いものに思える。
 過去にも何度かナマエに謝罪をしたことはあった。だが、今までで一番理由の説明が困難だと思える。

「あんたが誰よりもカッコいい男だってのはナマエもよく分かってるぞ、と」
「……どうだかな」

 俺に寝巻きを着せながら、レノは珍しく真面目な顔でそう言った。だが逆に揶揄ってくれた方がまだ良いと思う。
 
「惚れた女に情けない姿を見せたくなかったって言えば、あいつだって許してくれんだろ」
「お前は惚れた女に軽々しくそんなことが言えるのか?」

 こんな台詞を放っている今、睨みを利かせたところで格好がつかないことくらい分かっている。だがそうせずにはいられない。俺からプライドを取ったら一体何が残ると言うのだ。

 レノの手を借りてベッドに移り、痛む身体をなんとか横たえる。
 社長室が爆撃されてから、大怪我、拉致、監禁、暴行、水難、そして未知の奇病への罹患ーーこの世のすべての災難がこの身に降りかかったのではないかと思うくらいの数ヶ月だった。 
 そしてようやく馴染みの面子の元へ帰還したものの、今度は恋人との仲違い。まあ……こちらは自業自得ではあるが。
 
 横になると強烈な眠気が押し寄せてきた。今は膿の出る部分ーーキルミスターは星痕症候群と呼んだーーの痛みが落ち着いていることもあるが、何より疲れ切っていた。

 ナマエを怒らせてしまったのも、疲れていたからだ。そうに違いない。普段の俺なら、もっと上手いことを言ってやれた。

 自分にそう言い聞かせてみるものの、頭の奥では分かっている。
 これは俺自身の性根の問題で、本気で愛する女が出来たことでいつかは向き合わなければならないものなのだと。

「ひと眠りする。ナマエに伝えてくれ、明日の日暮れ後に訪れてほしいと」
「目覚めたらすぐ、じゃダメなのか? まさか抱こうなんて訳じゃないよな、と」

 レノは呆れたように見下ろしながら、俺の身体にブランケットをかける。

「……明るいと本音が話しづらい」

 なるほど、と呟いたレノは俺に背を向けた。

「あいつ……離れてる間は一度も泣かなかったぞ、と」
 
 そう言って部屋から出ていくレノ。俺はその背中を見送って、ゆっくりと瞳を閉じた。
 瞼の裏側に浮かんでくるのは、最後にナマエを抱きしめた夜の情景。

 この手はもう二度と彼女を抱きしめることができないのだろうか。
 そもそも、何もかも失った俺をまだナマエは愛し続けてくれるのだろうか。
 病に冒されたこの身は、健やかな彼女を縛りつけるのには重すぎる。

 それでも願うのは、もう一度だけでもナマエに触れたいーーただそれだけだった。

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