微睡みの中で聴こえてくるさざなみの音はとても心地が良い。
差し込む日差しが普段よりも眩しくて、私はまだ重たい瞼をゆっくりと上げた。
「はぁ、結局夜もぐっすり寝ちゃった」
金細工の施された壁掛け時計に目をやると、いつもよりは少し早いけれど二度寝するには遅い時間だった。
身支度を済ませてリビングダイニングに顔を出すと、まだそこはもぬけの殻だった。
冷蔵庫を開けさせてもらうと、中にはフルーツが数種類。それからブレッドケースにはコスタでも美味しいと評判のベーカリーのパンが置いてあった。パンはまだほのかに温かくて、良い香りが漂ってくる。さすがプレジデント神羅の別荘、どうやらデリバリーサービスがあるようだ。
私はそれをありがたく取り出させていただくと、カウンターキッチンを借りてカットすることにした。
ごそごそと物音がしたかと思うとようやく社長がリビングダイニングに顔を出す。ぱりっと糊の効いたシャツの袖口のボタンをつけながら歩いてくる彼は、髪もいつも通りにきちんとセットしていた。
「おはようございます、社長」
「ああ、おはようナマエ」
「昨日は本当にすみませんでした。冷蔵庫にあったものをいただいてしまったのですが」
私はキッチンタオルで手を拭きながら、テーブルに並べたばかりの朝食に目をやる。
「構わない。管理人に用意させておいたものだ」
そう言って社長は椅子に座ると予め置かれていた新聞を広げた。
私は社長の前にブラックコーヒーの入ったマグを置いて、自分も席につかせてもらう。
「よく眠れたか?」
新聞記事を目で追いながら社長が言う。
「はい。あんなにスキッフで寝たはずなのに、ぐっすりでした」
「疲れが溜まっていたんだろう」
「そうかも知れません。ベッドもふかふかでしたし……社長もゆっくり寝られましたか?」
「ああ。お陰さまで」
なら良かったと思っていると社長の電話端末が震えて着信を知らせる。
社長は画面表示に視線を移してから、苦笑いを浮かべて端末に手を伸ばした。
「私だ……ああ、そうだが」
読みかけの新聞紙をテーブルに置くと、まだ湯気の立つコーヒーマグを片手に社長は電話口の相手に向け相槌を打つ。
「なるほど。詳しくはヘリで聞く……だがもう少しゆっくりさせてくれないか。まだ朝食も摂り終わっていない」
電話端末からは誰のものかは分からないけれど社長に向けて忙しなく話し続ける男の人の声が漏れ聞こえてきた。
「ああ、それくらい分かっている。何も問題は無い」
そう言うと社長は、なんとまだ相手が何か言い続けているのに端末のボタンを押して一方的に電話を切ってしまった。
「……フン、心配性め」
鼻で笑う社長は、電話端末をテーブルの端に放るとようやく朝食に手を付け始めた。
私がその様子を伺っていると、社長は大げさに肩をすくめてみせた。
「すまないが、俺はここからミッドガルに戻る。ナマエはジュノンまで船で帰れるか?」
「はい、元からそのつもりでしたから大丈夫ですよ」
「そうか……くれぐれも気を付けるんだぞ。何かあればすぐ電話しろ」
「分かりました、お気遣いありがとうございます」
社長はテーブルに頬杖をつくと、向かいに座る私を見た。
「……なんでしょう?」
改めてまじまじと見つめられて、パンを頬張っていた私は恥ずかしくなる。
「平穏な日を、早く取り戻したいものだな」
そう言って社長は再び新聞を手に取り、続きを読み始めた。
社長が読んでいる裏側には、コレルで起こった殺人事件の記事が小さく載っていた。
「そうだ、ナマエ」
社長は新聞越しにこちらに視線を寄越す。
「昨日のおさらいをした方が良いんじゃないか?」
「はい?」
社長はまたあの悪い顔で微笑むと、部屋の隅でハンガーに掛けてあるネクタイを見た。
「朝の情報収集は一日を左右する。一秒でも惜しいのだが」
「……それは、新聞を読みたいから代わりにネクタイを結べということでしょうか?」
社長は新聞記事に目を戻して、薄い唇で弧を描く。
「さすがだ。賢いな」
「えぇ……」
「昨日は誰かをここまで運んだり夕食を用意したりして疲れたのだが……」
「喜んで結ばさせていただきます!」
社長の言葉を遮るように、私は飛び上がってハンガーまで小走りした。
この弱みはいつになったら忘れてもらえるのか、そんな日は来ないのだろうということだけは予想できた。
「失礼しまーす……」
黙々と新聞を読む社長の横から手を伸ばすと、彼は視線はそのままに頭を少し横に傾けてネクタイを掛けやすくしてくれた。
顔は近いし相変わらず緊張するものの、昨日褒めてもらえたこともあって、ネクタイに集中すればなんとか落ち着いて結んであげることができる。
(えーとまずはここをこうして、次は……)
彼の邪魔をしないように、私は頭の中で手順を復唱する。
それなのに社長は、いつの間にか新聞ではなくネクタイを凝視する私を見ているようだった。
「社長、そんなに見られると緊張するのですが……」
「これも練習だと思えば良い」
社長は得意気にそう言い放つけれど、一体なんの練習だと言うのだろうか。心臓を強くする練習にはなりそうだ。
「ふぅ、出来ました。なんとか……」
ずっと見られていたからぎこちなくなってしまったけれど、一度覚えた手順をすぐにさらい直す事ができたので今回も上手に結べたと思う。
なるほど確かに、良い練習にはなった。やっぱり一体なんの練習なのか分からないけれど。
「ふむ。やはり俺より上手いな」
社長は指先で結び目を触っただけでそう言う。
「それ本当ですか? 適当に言ってません?」
せっかく綺麗に結んだのに見もしないで社長がそう言うので、ちょっと拗ねそうになる。貴方のために頑張ったのだからちゃんと見てほしいのに。
すると社長は新聞をたたんでテーブルに置くと私の頬を両手で包み込む。
ぐいと顔を社長と向き合うように寄せられて、私は驚いて目を丸くした。
「それだけお前を信頼しているということだ。俺がこんなに気を許しているのはナマエだけだぞ」
そして社長は私の目を覗き込むと、ふむと小さく頷いた。
「やはり綺麗に結べているな」
そう言って社長は席を立つと帰り支度を始めた。
もしや私の瞳に映った自分の胸元を確認したというのだろうか。
(ずるい人だ……)
すっかり真っ赤になってしまった私のことなんて、簡単に思い通りにいく気の知れた部下としか思っていないのだろう。きっと。
それでも少し優越感を感じてしまうのだから、もう本当にどうしようもない。
朝の船便までまだ少し時間があったので、社長を見送りにヘリポートまで私も同行させてもらうことにした。
港に着くと、見覚えのある大きいヘリコプターが既に停まっている。そしてその前に立っていたのは、前よりも少し髪が伸びたツォンさんだった。
「お待ちしておりました」
ツォンさんは私を一瞥してから社長に向けて言う。しかしその視線は厳しくて、私というより社長を咎めているようにも見えた。
「そう怒るな。予定は問題無くこなしている」
「……何件のメールを無視されてそう仰っていますか?」
眉間に皺を寄せるツォンさんにたじろがないのは恐らくこの星で社長一人だけだと思う。
社長はやれやれと両手を広げて首を横に振ってから私に向き直った。
「では、無事ジュノンに着いたら連絡するように」
「えっ? あ……はい!」
「そんな風に気を抜いていると寝過ごすぞ」
「さすがにそれは……もう無いようにします……」
もうその話は忘れたいのに迷惑をかけた社長にそんな事を頼むわけにもいかず、私は肩を落とすしかなかった。
社長は喉の奥で笑うと、ようやくヘリに乗り込んだ。
ドアを閉めたツォンさんが私の顔を見る。
「あの、ツォンさん!」
「なんだ?」
「ありがとうございました。色々と」
思えばツォンさんには何度も社長とのやりとりの間に入ってもらったような気がする。
「シスネの頼みだったからだ」
そう言うと彼は表情を真顔のまま崩さずに、一瞬だけ目を細めるとヘリの操縦席に乗り込んだ。
飛び立つヘリを見上げると、社長が窓越しに笑いかけてくれたような、そんな気がした。
何日か経ったある日、ジュノンにいる私の元に珍しい客人がやってきた。
「ナマエ、なんかタークスの人が探してたけど……」
慌てた様子の同僚がオフィスにやって来て、私に耳打ちする。
「ヤバい案件じゃないよね……?」
「え? タークス?」
「そう。あのチンピラみたいな赤毛の」
巷では、我儘を言う子供に『良い子にしないとタークスが来るよ』なんて言う親もいるくらい、彼らの存在は恐れられているらしい。
恐らくツォンさんもレノさんも……シスネも、そう言われるくらいの事はしているのだろう。
けれど私にとってみれば彼らも普通の人間だし、良いところも知っている。
「レノさんだ。大丈夫、武器作ってあげたりしてる人だから」
「そう? じゃあ外にいたから行ってみて」
「分かった。ありがとう!」
私は同僚にお礼を言うとオフィスを出た。
屋外に出ると、黒いスーツに映える赤毛は目立つからすぐに見つかった。
「レノさん!」
「おう、ナマエ」
レノさんはエルジュノンの海に面した通りで、目の前に広がる海を眺めていた。近付くと頭には包帯が巻かれ、顔にも傷跡がいくつもあった。
「預かり物。確かに渡したぞ、と」
レノさんから厳重に包まれた塊を渡される。私にはそれが何か、開けなくてもすぐに分かった。
「結構、ショック受けるかも」
「大丈夫です……多分。何度もスクラップになった兵器を見てきましたから」
そう言ってはみるものの、今ここですぐ中身を確かめる気にはなれない。後で一人になってから、落ち着いて広げよう。
「破片もなるべく掻き集めたつもり」
「レノさんが拾ってくれたんですね」
「オレと相棒。社長、クラウド達とやりあった後なのにどうしても自分で行くって聞かねーから留守番させるのに苦労したんだぞ、と」
レノさんはそう言ってけらけらと笑う。
「あんなに焦った社長は見たことねぇ」
「そうだったんですね……すごい大事にしてくれてたのが分かって嬉しいです」
「社長がアンタの事真面目な奴って言ってた意味が分かったぞ、と」
タークスにまでそんなことを……と思うけれど、悪口を言われるよりはマシなのかもしれない。
「そう言えばそれ、めちゃくちゃ凄かったな!」
レノさんは手をポンと叩いて、私の手の中にある包みを指差す。
「社長がクラウドと戦ってるとこヘリから見たんだけどよ」
興奮気味で話すレノさんは、コインを投げたり両手で銃を撃つジェスチャーをしたりして、社長がいかに凄かったかを教えてくれた。
私はそれを聞いて社長の勇姿を想像し胸が一杯になる。私の作ったものが彼の役に立ったなら、こんなに嬉しいことはないから。
「ナマエの作る武器はやっぱすげぇな。オレも助けられたぞ、と」
「でもレノさん怪我したって聞いて……もっと助けてあげられなくてすみませんでした」
私はレノさんの頭に巻かれた包帯に目をやる。
「別にアンタのせいじゃない。アンタに貰ったのは役に立ったけど、ちょっと状況が上手くなかった」
「レノさん……」
「だからアンタは気にすんなよ、と」
「タークスって、本当に大変ですよね……」
「それが仕事だからな。前にも言ったけどこれ以外の生き方知らねぇんだ、オレたち」
レノさんはおどけてウインクすると舌を出した。
「昔シスネと約束したんです。タークスの誰かが困ってたら助けるって」
「へぇ、アイツとそんな話したのか?」
「だから絶対にもっと強い武器を作って届けますね、レノさん」
「そりゃ楽しみだな、と」
シスネだけではなくタークスの人達には本当に色々と助けてもらったから。
「ってかよ、ナマエ」
レノさんは人差し指を立てて私を指差した。
「その『レノさん』てのそろそろやめてくれねぇ? そういう他人行儀なの苦手なんだよ。オレたちダチだろ」
レノさんーーもといレノはそう言うと、敬語もやめだ、と付け加えた。
私の事を友達だと思ってくれるならなんだか嬉しい。こうやって人間関係の垣根をひょいと越えられる人は本当に尊敬する。
「じゃあ、レノがそう言ってくれるなら」
「おう。なんたってシスネのダチだしな」
きっと彼女は喜んでくれるだろう。
けれど本当は三人で……良かったら社長も誘って、また四人で飲みに行きたかったなと、私は少し寂しくなった。
レノはもう何日か休養したらゴンガガに向かう任務から仕事に復帰するらしい。
ゴンガガと言えばジャングルに囲まれた村だが、神羅との接点は昔メルトダウンした魔晄路くらいしか考えられなかった。
気を付けてね、と言うと彼は歯を見せて笑った。私はなんとかして彼がゴンガガに立つまでに新しいロッドを届けようと思った。
一人になって、私はようやく抱えていた包みを下ろす。
深呼吸をひとつして丁寧に包みを開けると、中からは大きく欠けたショットガンの本体と、レノ達が必死に掻き集めてくれたらしい割れた破片が収められた箱が出てきた。
ここまで集めるのは相当大変だっただろう。
私はレノと、相棒と言っていたもう一人のタークスに心の中で感謝する。
そして戦いの後なのにこれを探そうとしてくれた社長にも、勿論。
社長はこの事を私が知ったら悲しむのではないかと心配してくれていたらしい。言い出せなかったと言った時の彼のあの悲しそうな表情が頭に浮かんで、胸の奥が痛んだ。
でも私は、立派に役目を果たして彼を守ってくれたこの銃を誇りに思う。
「綺麗になって、生まれ変わろうね」
そしてまた社長の役に立てれば良い。私もそうなれたら良いのになんて、少しだけ思ったりした。