あなたのお嫁さんになる
 フルコースの料理は初めてなのでマナーが分かりません、と言ったら、ぼくはそんなことでは笑わんよ、と言われて早一時間ほど、だと思う。時計をちらちらと見るのも失礼に値するから、と極力見ないようにしていたが、わたしの体内時計とメニューに書かれていた料理の提供を見る限りでは少なくとも一時間は経っている。前菜にスープ、サラダ、メイン料理と来て、今はデザートだ。真っ白なお皿の上に乗っているモモンの実のソルベ。赤いソースが目にも鮮やかで、甘酸っぱくて冷たいそれは料理の口直しにはちょうどいい。カクテルを含みながら、ちらりと目の前に座っているヤローさんを見ると目が合ってにこりと微笑まれた。
 ……うぅ、何だか、やっぱり変な感じだ。
 フルコースの料理を食べに行く、と言われたからわたしもそれなりに服装には気を遣ってきたけど――来ているのは馴染み深いバウタウンのシーフードレストランなのでその必要はなかったかと思いもしたが――、目の前に座っているヤローさんもユニホーム姿でも作業着姿でもない。白いシャツに光る緑色のカフスリンクスが、くさタイプのジムリーダーだぞという存在感を示しているようで。今は脱いでいるけど、ダークグレーのジャケットもすごく、似合っていた。
 ぼくは威厳なんてないよ、っていつも言ってるくせに。そういう風にお酒を普通に飲んでる姿を見ると、わたしよりも大人の印象を受ける。全然子どもっぽくない。
「ねぇ、ナマエ」
「は、はいっ」
 ソルベの最後の一口を食べ終わりカクテルを口に含んだタイミングで、狙い澄ましたようにヤローさんが声を掛けてきた。その声が、いつもより落ち着いていて、真剣で。だから、名前を呼ばれただけだというのに、声が裏返ってしまった。
「ごめんね、急に声掛けて。タイミングを考えるべきやった。あ、顔下げないで?」
 恥ずかしくなってせっかく上げた顔をまた俯かせようとしたわたしを、ヤローさんはやんわりと制止した。わたしの緊張を解すようにヤローさんはまた笑う。緊張しすぎて逃げるように料理に目を落とし続けていたせいで、いつの間にかジャケットを着ていたことに気付かなかった。やっぱりちゃんとジャケットを着るとすごくかっこいいな、と思ってしまう。また目を伏せたくなるけど、止められた以上は頑張ってヤローさんの方を見続けた。
 そんなわたしにヤローさんはまた笑う。いつもの笑い方、なのに。服装が違うだけでそんなに印象が変わるなんて思わなかった。
「せっかく綺麗にしてきてくれたんやから、笑って?」
「いや、あの……」
 言葉が出てこない。そんな風に褒められると、またドキドキしてしまう。緊張と照れが混じって混乱してくる。あ、なんかもう本当に訳が分からなくなってきた。何を、言おうとしていたんだっけ。
 きょろきょろと視線を彷徨わせそうになるのを寸でのところで堪えてヤローさんに視線を戻す。翠の瞳がふと細められると、ねぇ、と改めて名前を呼ばれた。
「あの、ね」
 さっきまで自然に微笑んでいたヤローさんが急に緊張したように言葉を濁した。緊張を誤魔化すように頬を掻いたヤローさんに、あれ、と思った。さっきまであんなに笑っていたのに、今はなんか、すごく、緊張しているような。急に、どうしたんだろう。
「今日ここに誘ったのには、理由があって」
 そういえば、そうだ。別にどちらかの誕生日というわけでもなければ、記念日というわけでもない。なのに、ヤローさんは急にレストランでコース料理を食べようなんて誘ってきたのだ。理由も、はぐらかされたままだった。
 わたしとしては、忙しいヤローさんなりの何らかの穴埋めなのかな、と勝手に思っていたのだけど。それ以外の理由も、あったのか。
「ナマエ」
 もう一度名前を呼んだヤローさんは、ジャケットのポケットに手を差し入れた後、取り出したそれは、小さな箱だろうか。それを開けるような動作をした後、そこにちゃんと何かがあるのを確認して、両手でそれをわたしに差し出してきた。
 それが何か分からない程わたしも子どもではなかった。小さな白い箱。その真ん中にある、小さな銀色のリング。思わず胸を押さえた。
 ……うそ。
 言葉が、出なかった。
 だって、それは。

「ぼくの、お嫁さんになってください」

 言葉が出ないままのわたしに、はにかむようにヤローさんは告げた。お嫁さんに、なる。わたしが、ヤローさんの、お嫁さんに。
 そこに、いつものような遠慮はなかった。直接的な言葉の羅列で、愛の表現だった。「なってくれませんか」と問うのではなく、貰うのだという強い意思が滲み出ている、けれどヤローさんらしい優しい言葉で。
 わたしが好きな人と、一生を共にするその言葉に。否定することなんか、どうしてできようか。
「……はい」
 どう答えればいいのか分からなくて、ただ、こくりと頷いた。するとヤローさんは今まで以上に笑ってくれて、その小さな箱から指輪を取り出した。引かれるように、左手を差し出す。
 銀色のリングと、きらりと光るダイヤモンド。指に、そっと、その指輪がはめられて。愛おしそうに、わたしの手が撫でられた。
「絶対、絶対にきみを幸せにするから」
「わたし、も」
 撫でてくれる手に、わたしの手を重ねて。目を逸らさないように、緊張でつっかえそうになる言葉を必死に絞り出した。
「ヤローさんのこと、幸せにします」
 少しだけ目を見開いたヤローさんは、すぐにまた笑ってくれた。うん、と頷いた彼は、やっぱりいつもの通り、笑うのだ。
「愛してる」
 小さく響いた言葉は、わたしの中にすぅっと染み込んでいく。
 あぁ、今、わたしは、幸せだ。

○○○○○

 月日というものは、目まぐるしく過ぎていくものだ。
 あの後お互いの両親の顔合わせとか式の日取りをどうするかとか、いろいろと決めている間に、ついにわたしがヤローさんの家に行く日がやってきた。
 農家で、そして何よりもジムリーダーであるヤローさんにお嫁に行くのは大変だろう、とはすごく言われたし心配もされたけど。でも、わたしが選んだ人だし、わたしが好きな人だから頑張るよ、と告げて私は故郷であるバウタウンを離れることにした。何故か知らないけど、ジムリーダーの人にも話は広まっていたようで、ルリナさんに食事に誘われたり、連絡先を交換したり、と何かすごく気に入られてしまったようだ。曰く、情報の仕入れ、だというのだが、多分、あれだ。同じジムリーダーとして、ライバルとして見ているからだろう。そして、ヤローさんと結婚するのがバウタウンの人だから、という理由で仲良くなってくれたのだろう。多分。そうに違いない。
 ともかく、ちょっとした変化はあったけれど、何とか準備を全て済ませてわたしは引っ越しの日を迎えた。
「それじゃあ、いってきます」
 荷物はもう、送ってしまったから。あとはわたしがヤローさんの家に行くだけだった。見送りには両親だけでなく、友達の姿もあった。もちろん、ルリナさんの姿も。
「いってらっしゃい。ちゃんと幸せになってくるのよ」
「うん」
 お母さんに言われて、わたしは家を、そして町を出た。
 ……ジムチャレンジの時みたい。
 毎年行われるジムチャレンジ。そこに挑戦する人を見送るような声援だな、とつい思ってしまった。私にはそんな実力はないから、それに縁はなかったけど。
 隣の町だというのにみんながすごく別れを惜しんでくれて、わたしまで寂しくなってしまいそうだった。町を出る前にもう一度大きく手を振って、私は5番道路へと入っていった。
 これからのことに思いを馳せながら、ターフタウンへと続く橋を渡り始める。遠くに見えるナックルシティが、今日もはっきりと見えている。今年は、何人あそこまで辿り着いたんだったか。ジムチャレンジを突破することはかなりの難関らしいから、最後のナックルシティに辿り着くことができる人は両手で数えられるほどだという。そしてその最後のジムリーダーであるキバナさんという人は毎年ファイナルトーナメントの決勝に残るような実力者。彼を突破できるチャンレジャーは、ほとんどいないのだという。
 そんな遠い世界を見ながら、気持ちいい風を浴びていると遠くから私の名を呼ぶ声が聞こえた。ナックルシティから正面へと目を戻すと、ヤローさんがいつものユニフォーム姿でこちらへと走ってきているところだった。
 まさかこんなところに居るはずがない人がバウタウンの近くまで来ているとは思わなくて、驚いて立ち止まってしまう。そんなわたしにヤローさんは駆け寄ってきて、にこやかに手を握るのだ。
「遅くなってごめん」
「え、え? でも、迎えに来るなんて一言も……」
「言ってないよ。でもほら、お嫁さんを迎えに来るのは当然のことだ」
 てっきりターフタウンで待っているものだとばかり思っていたから、まさかバウタウンまで来ているとは思わなくてビックリしてしまう。だって、どうして。
「ルリナさんにどうしてまだ来てないのかってメールで怒られちゃったよ……。遅くなって本当にごめん」
「え、いや。その……」
 手を握った彼は私の肩に提げていたバッグを取ってターフタウンへと向けて歩を進め始めた。温かな風が、祝福するように通り抜けて行く。
「わたし、一人でターフタウンまで行くつもりだったので、すごく、嬉しいです」
「……そっか」
 握られていた手の指が、そっと絡め取られる。温かな手の温度に、どきりと心臓が跳ねた。
「そんじゃ、ここからは二人で行こうか」
「は、はい」
 とてもヤローさんの顔を見れなくて足元を見ながら歩いてしまう。こんなこと、予想もしていなかったから、本当にどうしていいか分からない。言葉も、出てこない。いつもなら交わせる、他愛無い言葉さえ、本当に、何も。
 これから、この人のものになるというのに。わたしは、なにも、言えない。
「ナマエ」
「はい」
 橋の真ん中辺りまで来た時、ヤローさんは不意に足を止めた。
「ぼくと結婚すると、もしかしたら辛いこともあるかもしれん」
「それは……」
 何ですか、と訊こうとして口を噤んだ。ルリナさんも言っていたではないか。ジムリーダーという職業もなかなか大変なのだと。
 ガラル地方において、ポケモンバトルは一種のエンターテイメントだ。ジムチャレンジというのは、そのエンターテイメントの花形だ。どんな相手にも全力で挑まなければならないし、負けたとしてジムスタジアムまで足を運んでくれた観客を盛り上げなきゃいけない。だから、そう簡単に負けられない。負けるとしても負け方を選ばなきゃいけない。観客の評価を得なければ、ジムリーダーとしての資格を剥奪されてしまうかもしれない。
 だから、ジムリーダーという地位に甘えることなくバトルの腕を磨き続ける。それと同時に、支援してくれる人達のための仕事も引き受けなきゃいけない。楽な仕事に見えるかもしれないけど、すごく気を遣うし、体力も使うのだと。そんな人を支えられる覚悟はあるかと、とルリナさんは訊いてきた。
 わたしがどんな風に答えたかは、緊張のせいで覚えていない。でも、絶対に手を離しません、と言った覚えだけはある。わたしは、バトルはすごく弱いけど。でも、だからこそ、他の部分でちゃんとヤローさんを支えられるようになりたかった。ポケモンバトルや農業に精を出してほしかった。そのために必要なことは、お母さんやお父さんに教えてもらったつもりだ。もう、後には引けない。だって、わたしは。
 ……ヤローさんと幸せになるって、決めたんだから。
「リーグの関係であちこち飛び回ることになって寂しい思いもさせるかもしれんし、ジムチャレンジが始まってすぐの頃はあんまり家におらんかもしれん。……そんでも」
 言葉を切ってこちらを見るヤローさんは、真剣な目だった。翠の瞳の中に映る私の顔は、不安な表情をしていた。
「そんでも、ぼくと一緒に、ずっと、来てくれる?」
 目を、閉じて。不安げな表情を無くすように頭をゆっくりと振って。そして、頷いて。
 ヤローさんの顔を正面から見返した。
「全部覚悟してます。それでもいいって思って、わたし、ヤローさんのお嫁さんになるんです」
 農業なんてやったことないから辛いかもしれない。料理が下手くそって言われるかもしれない。ポケモンの世話だって満足にできないかもしれない。
 それでも、それでも、ヤローさんのことが好きだから。ずっと一緒に居たいから。だから、何とか耐えなきゃいけないと思った。きっと、優しくしてくれるって、信じている。
 ヤローさんはいつだってわたしのことを想ってくれてるって、わたし、ちゃんと、知っているから。だから、大丈夫。ちゃんと、耐えられる、はずだ。
「……うん、分かった」
 少しだけ腰を屈めたヤローさんは、正面から私の顔を覗き込んだ。
「ごめんな。ぼくの方が弱気やった。きみは、ちゃんと覚悟を決めて家から出てきてくれたっていうのに」
 手を繋いでない方の手が私の頬に添えられた。慈しむように、そっと撫でられる。その心地良さに、そっと目を閉じた。
「きみを、最後まで愛するって誓う。ぼくの、大切なお嫁さん。……ねぇ」
 そっと言葉を切ったヤローさんは躊躇いがちに、でも、強請るように、囁いた。

「――愛してるって、言って?」

 そんなわがままを言われたのは、初めてだったかもしれない。何かをしてほしいと絶対に言ってこなかったヤローさんの、最初のわがまま。
 それを、断ることなんて、どうしたってできるはずがない。

「愛してます。ヤローさん」

 誰かに聞こえないように、そっと囁いた、その直後。唇が柔らかく塞がれた。
 キスされてる、と理解できるまでに少し時間があったけど、わたしは空いてる片腕をそっとヤローさんの首に回した。距離を、詰めたかった。今、この瞬間、ヤローさんにもっと近付きたかった。
 橋の真ん中で交わされた愛と誓いの言葉は、二人だけのものだ。周りには、誰もいない。だから、多分、ヤローさんはこんな思い切ったことをしたんだと思う。
「わがまま言ってごめん。でも、今、どうしても、その……したくて」
「いい、ですよ。……ほら、わたし、ヤローさんの、お嫁さんだから。だから、……何でも、わがまま言ってください」
 キス、という言葉はヤローさんでも恥ずかしかったのだろう。直接出てくることはなかったけど。でも、何かはすぐに分かったし、照れてるなっていうのもすぐに分かってしまった。そんなヤローさんも好きだな、って、思う。
「うん」
 にこりと微笑んだヤローさんは、もう一度だけ、今度は軽く唇を触れ合わせて離れていった。
「皆待っとるから、行こうか」
「はい」
 またゆっくりと手を引かれ、ターフタウンへと歩き出す。
「ナマエ」
「はい」
「これから、毎日、きみと居れるの、とても嬉しい。本当に、ありがとう」
「……わたしこそ、ありがとうございます。毎日ヤローさんの顔を近くで見られるの、すごく、嬉しいです」
 手を繋いで、二人きりの時間を堪能するように、ターフタウンへと向かっていく。
 はにかむ顔を、しっかりと記憶して。最初の、二人で互いに捧げ合った愛の誓いを、忘れないように、思い起こす。多分、そう。ここから、わたしと、ヤローさんの二人の人生が始まるのだ。
 ――今日、わたしは、ヤローさんのお嫁さんになる。

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