ただいまの約束

 恋人の朝は案外早い。遅刻癖のあるその人を起こすのは一苦労だが、この騎空団の中でも随一の実力を持っている彼は連日あちらこちらへと連れ回されて大忙しだ。そんな彼を無事に送り出すのが、私の最大のミッションともいえる。
 貰っている合鍵で部屋へと入り、カーテンを開ける。次に布団を捲って肩を揺すりながら、大声で名前を呼ぶ。ポイントは、この時に近付きすぎないことだ。耳元で名前を呼ぼうものなら、とても嬉しそうな顔で抱き寄せられてしまう。暖を求めての本能的な行動か、それとも、種を残したいという本能的な欲望か。どちらかは分からないが。下手に近寄れば腕を掴まれて布団へと引きずり込まれるのだ。そうなってしまえば私が彼を起こすことは叶わない。
 だから、そうなる前に起こさなければならない。
「ジークフリートさん、朝ですよ! おはようございます!」
「んぅ……」
 軽く揺すってみても、当然のように彼は穏やかに寝息を立てるだけだ。想定の範囲だ。たしか昨日も夜遅くまで依頼に出かけていた気がする。魔物退治だったような。そして、それは今日も同じだ。朝から夜まで魔物退治に明け暮れるはずだ。
「起きないとまたグラン君に怒られますよ! 年下に怒られるの嫌だって言ってませんでした!?」
 少し前に零していた言葉を思い出して、それも言ってみる。年端もいかぬ子どもにこうも呆れられてはなぁ、と苦笑していたが、それはそうありたくないという嫌悪の表れとも言えた。他でもないジークフリートさんが言ったのだ。少しはそれを覚えてもらっていなければ困る。まぁ、「嫌だ」とまで言ったのは誇張表現だとは認めよう。しかし今はそんなことに構っていられる余裕はないのだ。
「今日は朝から討伐依頼があるんでしょう!? 遅れて怒られても知りませんよ!?」
 相変わらずゆさゆさと揺すっていると、ようやく少しばかりの反応が返ってきた。そのまま強く揺すってもう一度名を呼ぶと、その瞼が薄く開かれ、琥珀色の瞳がうっすらと顔を覗かせた。眠そうにこちらを見上げる瞳は私を捉えたのだろう。途端に口角を上げてその手を伸ばしてきた。
「おはよう、ナマエ」
「おはようございます」
「今日もいい朝だな。お前が来てくれる」
「……私が来るということは、ジークフリートさんはお仕事があるということなのですが」
 伸ばされた手を両手で握った。布団の中で温められていたそれは、私のものよりも高い温度で私の手を温めていた。呆れながらそう言えば、彼は「ふふ」と笑う。私がいるだけでご機嫌になるというのだから、世話が焼ける。その世話を焼くのを楽しんでいるのは私の方だろう、と言われてしまえば返す答えはないが。
 両手で握っていた手から片手だけを離してジークフリートさんの垂れている前髪を耳に掛けた。隠されていた肌が露になるだけで色気が匂い立つようだった。それに捕らわれぬように小さく一歩、後退する。
「起きてください。遅れますよ」
「あぁ、そうするとしよう。食事は摂ったか?」
「もう、そんな余裕はないですよ。支度してください」
「おっと、それは迷惑を掛けたな」
 私の手からやんわりと手を離したジークフリートさんはゆっくりと体を起こした。その顔から眠気はしっかりとなくなっていることを確認して、私は彼に背を向ける。狭い室内で歩く距離などたかが知れているし、手際だって彼の方がいいが、何もしないよりは早く終わるはずだ、と装備を並べ始めた。
「ナマエ」
「はい」
 名を呼ばれて振り返れば、彼の両手がぬっと私の横へと伸びてくるところだった。その手は頬をゆるりと包み込んだ。少しだけ引き寄せるような力が掛けられ、思わず一歩前へと進んでしまった。
 バランスを崩したその隙に、彼の整った顔が近付いてきて、唇にかさついたそれを押し付けられた。存在を主張するようなリップ音を立ててそれは離れていく。
 ぱく、ぱく、と口を開閉させる私を面白げな表情を浮かべて彼はこちらを見る。弧を描く唇、甘く細められる瞳。ゆるりと目元を撫でる指先は、優しい。
「おはようのキスだ」
「な……、な……!?」
 さらりとそんなことを言うジークフリートさんが信じられなくて、唇を戦慄かせる。しかし、彼はそんな私のことなど気にすることなく、そっと私の手を引いた。
「スキンシップが足りない」
「だからってそんな!」
「駄目だったか?」
 ゆるりと首を傾げられてしまえば、もう返す言葉がない。
 少しでも気を紛らわすために手近にあった籠手を突き出した。
「遅れます」
「そうだったな」
 苦笑し、それを受け取ったジークフリートさんは、私の耳元に唇を寄せ、「だがこれは後から着けるものだぞ」とからかってくる。動揺しすぎて、染みついた行動すら満足に出来なくなってしまったようだ。情けない。
「そう落ち込むな。手伝ってくれ」
 ぽん、と頭に手が乗せられ、彼を見上げれば、ふわりと笑んでいた。琥珀の瞳は、やはり甘い。それに吸い寄せられるように、私は「はい」と頷いてしまうのだ。

○○○○〇

 無事にジークフリートさんを送り出して数時間が経った。いや、一日はもう、終わってしまっている。
 私の方は、今日は抱えている依頼がなかったので、装備の手入れをしたり、ナルメアちゃんに特訓に付き合ってもらっていた。ナルメアちゃんには「厳しくお願いします」と頼んでいるため、彼女の指導は本当に厳しい。だが、精神統一、という点ではジークフリートさんに通じるものがあるし、それに何より強い。頭を下げて頼み込んだ代償が「恋バナを聞かせてくれないかしら」だったのが未だに疑問だが、彼女のおかげで、少しは強くなっている気がする。そう、少しは。
 グラン率いる騎空団に拾われてから長い間、私は誰でもこなせるような雑用とか、ちょっとした依頼とかしかこなしてこなかった。それは私の実力が全く足りないためであり、グランの采配のせいではない。むしろ彼の采配は正しい。
 彼の見たい風景を私も見てみたいと思ったし、少しでもそのお手伝いが出来ればいいな、と思ったから旅に同行しているわけだが、足手まといなんじゃないか、と思う。だって私は何の役にも立てていない。
 そしてそれは、ジークフリートさんに対しても同じだ。あんな強い人とどうして恋人関係なのか、未だに分からないのだ。きっかけを思い出そうとしても、もう思い出せないからそれは置いておくとして。
 ただ、時折不安になる。捨てられてしまうのではないか。置いていかれてしまうのではないか。利用されているだけなのではないか。そういったことがぐるぐる、ぐるぐると頭の中を駆け回り始めると、もう駄目だった。
「寝ちゃおうかな」
 そうしたことを考えていてもどうせ答えなんて出やしない。何度同じ自問自答をしたか覚えていないし、その度に自己嫌悪に陥っているのだ。どうせ、今更頑張ったところで、あの人の持つ強さを身に付けられるわけではない。
 けれど、せめて。自分の身が自分で守れるようになれば、付いて行くことはできるかもしれないと、そう思う。
「うまく、いかないなぁ」
 重心の掛け方も、槍の取り回しも、まだまだ未熟だ。今のままじゃとてもジークフリートさんがやってるような依頼を受けることはできないし、一緒に付いて行くこともできない。だから、いつも、彼を独りにしてしまう。私は、置いて行かれてしまう。
 頼りないからふらりとどこかに行ってしまうのなら。誰にも告げずに姿を消して薄汚れて帰ってくるのなら。私は、多分、彼女として失格なんだと思う。
 もっと頼ってほしいと思うのに。でも、私が弱いばかりだから、どうにも、その思いは伝わらない。特訓はもう長い間しているのに、その努力が実った実感は全くない。
「私、向いてないのかな」
 戦うことに。守ることに。だったらもう、降りてしまった方がいいんじゃないだろうか。このままここで、迷惑を掛け続けるくらいなら。
 ベッドの上で体を丸める。自分で自分を守るように。そうしていないと、泣き叫んでしまいそうだった。
 ゆっくりゆっくり、心が壊れていくようで、呼吸をするのも辛くなる。ぎゅっと目を瞑った拍子に涙が零れたような気がした。
 馬鹿だな、弱いな。そう思っても、それを止めることはできなくて。今はただ、暗くなってしまった部屋の中で一人嗚咽を殺して泣くことしかできなかった。
 今だけ、心まで弱くなることを許してほしい。

○○○○○

 くしゃりと頭を撫でられたような気がした。
 次の瞬間に感じる、温かさで意識が浮上したようだ。ふわりと石鹸の匂いが鼻を擽った。
「……ん」
 いつの間にか泣き疲れて眠っていたのだろう、頭がとてもぼんやりとする。
 もぞりと体を動かして体を起こすと、目の前に人影。
 息を呑んで、咄嗟に後退。だが、ベッドの上で咄嗟に後退すればどうなるか。――決まっている、無様に落下するだけだ。
 あ、という声が出るのと同時、支えを失った体が脚から床に叩き付けられ、その後背中を打ち付け半回転する。
「ナマエ!」
 呻きながら打ち付けたところを擦っていると、聞き慣れた声がベッドの上から聞こえてきた。――聞き慣れた、声?
 恐る恐る見上げると、暗闇の中で誰かが私に手を差し伸べているところだった。聞き慣れた声で、私に手を差し出してくれる人が私の部屋に居る。
「……ジーク、フリート、……さん?」
「あぁ。俺だ。ただいま」
 何てことだ、と言いたくなった。目が覚めて同じベッドに座っていたのは、恋人ではないか。
 私は、何て失礼なことをしてしまったのだろう。
「すみません、私、あの……」
「いや、俺の方こそすまない。明かりくらいつけておくべきだったな」
 差し出された手をゆっくりと取ると、ぐいっと引っ張り上げられた。そうしてまた、ベッドに座らせられる。
「おかえりなさい。すみません、寝てしまっていて」
「いや。もう皆寝ているような時間だ。ナマエが寝ていることは想定内だ」
「……でも」
 言葉が出てこなくて、顔を俯けた。
 部屋の明かりは私がベッドに倒れ込む前に消してしまった。そして、ジークフリートさんが戻ってきても、それは点けられることはなかったようで、部屋の中は真っ暗だ。私の方は彼の表情も分からず、ただそこに彼がいる、ということしか分からないのだが、彼はそうではないようだ。とても夜目が利く人だから、多分私がどんな表情をしているか分かっているだろう。
 手が、頬に伸ばされて優しく触れられる。ほら、分かってる。
「どうしたんだ」
「何でも、ないです」
「そんなことはないだろう。泣いていたな?」
「なっ」
 否定の言葉を言えずに驚いた声を出してしまい、しまった、と歯噛みする。今の声で答えを言ってしまったようなものではないか。
「やはりな、少し赤い」
「見えるんですか」
「あぁ、他ならぬナマエだからな」
 楽しげな声でそんなことを言うジークフリートさんは、多分笑っているんだろう。悔しい。私は彼の表情さえ分からないのに、彼は私の表情を正確に見れてしまっていて、その表情から心の内まで正確に読み取ってしまう。
「どうしたんだ。俺が留守の間に何かあったか」
「……何もないです」
「そんなわけはないだろう。どうして泣いていた? どこか痛むのか?」
「そうじゃないです」
 たしかに、痛い。けれど痛むのは、心だ。そんな痛みがどこから来るのかなんて、私には分からない。きっと、この人にも。
「じゃあ、何があった。教えてくれないか」
「……言ったところで、迷惑ですよ」
「そうか?」
「だって、どうにもできない」
 連れて行ってくださいなんて言えない。強くなることなんか簡単にできない。だから、これはどうにもできない。
 この寂しさは、どう足掻いたってなくならないし、このもどかしさは、どう足掻いたって消えてくれない。
「それでも」
 ジークフリートさんが少しこちらに寄ってくる気配がした。微かな衣擦れの音がした。大きな手が、私の頬を包み込んで、親指が目元をそっとなぞる。
「俺は知りたい。一緒に居たいと思ったナマエの気持ちを理解したい」
「……あなたに、どうにもできなくても?」
「あぁ」
 即座の頷きに、息を吐いた。
 甘えてしまってもいいのか、と少し悩んだけど。多分、言わなければきっと引き下がってはくれないから、覚悟を決めた。
「ねぇ、ジークフリートさん。私は、彼女として本当に相応しいですか」
「あぁ、当たり前だ。ナマエはいつも俺を助けてくれるだろう?」
「……本当に?」
 見上げる。少しだけ暗闇に慣れた目が、彼の表情を捉えていた。きょとんとした顔が、こちらを見下ろしている。
「私は、弱いのに。あなたに全然、及ばないのに。私が弱いから、連れて行ってくれないんですか。私が情けないから、何も言わずに黙って行っちゃうんですか。私は……」
 言葉を切って、私の頬に添えられている手に私の手を重ねた。大きな手は、温かかった。その温かさに泣きたくなる。いつも、私を、伴ってはくれない。
「本当は、いらないんじゃないですか」
「……ナマエ」
 ジークフリートさんは私の手をゆっくりと下ろし、頬に添えていた手も引っ込めてしまった。あぁ、やはり私はいらないのか、と思ったのも束の間。彼の両腕が私に向けて大きく広げられた。
「おいで」
「え、……でも」
「ん? 嫌か?」
「……いえ、そんなことは、ない、です。むしろ、嬉しい、というか」
「なら構わないだろう。おいで?」
 腕を広げたジークフリートさんを見て、微笑んでいるようなその顔を見て、心を決めて、おずおずと彼に近付いた。膝立ちの姿勢で距離を詰めること数歩。腕を伸ばして、抱き着いてみる。それに応えるようにジークフリートさんの広げられた腕は私の背に回って抱きしめてくれた。少しだけ力が籠められた抱擁は、私の心に安寧をもたらしてくれるようだった。ささくれ立っていた心が、少しずつ落ち着いて行くような、そんな気がした。
「あぁ、帰ってきたな」
「……え」
「お前をこうして抱くと帰ってきたと感じるんだ。俺には、もう、どこにも帰る場所がないだろう?」
「そんな、ことは」
 ない、と言おうとして、言葉を遮られた。私の頭に回っていた手が伸びてきて、そっと唇を押さえつける。
「ナマエが、俺の帰る場所だ。今の俺が帰る場所は、お前の下なんだ。だから、どこにも行かないでほしい。俺のわがままだとは分かってる。だが、お前はここで俺を待っていて、こうして抱きしめさせてほしい」
「ジークフリートさん……」
「ダメか?」
 そう言われて「ダメです」などと言えるはずがなかった。
 だって、何もできなくても、私にもちゃんとできることがあって。それが気休めでも、よかった。ここでこの人の帰りを待っているだけでいいというなら。
 何があっても、この人の帰る場所を守る。誰が何と言おうと、ジークフリートさんは優しいのだと。悪い人ではないのだと。物理的な居場所だけでなく。精神的な居場所も、ちゃんと守ってあげたかった。それが多分、ジークフリートさんが私に求めることなんだろう。
「ダメじゃないです」
 小さく首を横に振って答えると、嬉しそうな答えが降ってきた。ゆっくりと背中を撫でてくれる手が、心地いい。
「私が、守ります。ちゃんと、ジークフリートさんが帰ってくる場所を、守ります」
「あぁ」
「だからちゃんと、帰ってきてくださいね。何があっても」
「約束しよう」
 体を少し離されて、ジークフリートさんと目線を合わせられた。優しい顔で、私に微笑んでくれている。
「ここに帰ってきて、こうしてナマエにただいまを言おう」
「……はい」
 顎に手を添えられて、上向かせられるとゆっくりと彼の顔が近付いてきた。そっと目を閉じるとすぐに唇が触れ合った。
 ほんの少しのふれあいでそれは終わり、すぐに離れていく。けれど、心はとても満たされているようだった。
 もう一度、抱きしめられた。温かい体温は、今度こそ私の心を慰めてくれた。
 私にも彼女としてできることがちゃんとあるのだと、そっと教えてくれていた。
 武器を持って戦って、隣を歩き、背中を預け合うことだけができることではないのだと理解した。だからもう、自分に嫌になって泣くことはやめることにしようと、心の中で、そう決めた。
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