期待なんて

「たっだいまー!」
「ただいまじゃないよ!」
 能天気とも取れる朗らかな声が聞こえてきた途端に持っていたペンを後方に投げつけた。「うぉ!?」という声が聞こえたが、きっと声の主は何てことない顔でそれを受け止めたに違いない。憎らしいが、そういう男だ。どんな奇襲を仕掛けようとも、彼の前では何の役にも立たない。
「シエテ! 何処行ってたの!?」
 座面をくるりと回して振り向けば、思った通り眼前で拳を作っていた金髪の男が立っていた。触覚のように立っている一房の髪が揺れて、彼が小首を傾げたのが分かった。自分の可愛さをアピールしようとしているのかもしれないが、そんな手に乗ると思ったら大間違いだ。私は誤魔化されない。
「どこって、そりゃあシェロちゃんのとこで近況報告? というか……」
「どうしてよろず屋さんで近況報告するわけ!? 今日中に決裁してほしい書類あるから今日までに帰ってきてって私言ったよね!?」
「あー……そうだっけ?」
「そうだよ!!」
 一週間ほど前に仕事で空けるからと言われた時、何が何でも今日までに帰ってこいと言ったことは綺麗さっぱり忘れられてしまっているらしい。仕方ない。こういう男だ。こういう、男なのだ。こんな人の面倒をどうして見なければいけないのか、とたまに本気で嫌になるのだが、彼は私が嫌になっているなどとは夢にも思っていないであろう。
「ごめんごめん。やるから。ね、だからちょっと機嫌直してくれないかなぁ」
「一時間で終わらせてよ!?」
「りょーかいりょーかい。お兄さんにまっかせなさい」
 どん、と自分の胸を叩いたシエテは私が投げつけたペンをくるりと回しながらテーブルの近くに椅子を引き寄せる。どうやら、やる気はちゃんとあるらしい。
 溜息を吐きながら、私はシエテに見てもらわねばならない書類の山を彼の前に置いた。想像していたよりも量が多かったのか、その目はパチパチと瞬いた。
「ちょっと多くなーい?」
「シエテが出掛けてる間に増えた」
「ナマエちゃんの八つ当たりじゃなくて?」
「じゃない」
 じろりと睨めば「だよねぇ」と返ってくる。それきり、彼の目線が私の方へと向かってくることはなかった。
 ……ほんと、力はあるんだけど。
 さらさらと記される文字は流れるような字体。翠の瞳は素早く左右に動き、思案する時間はほとんどなく文字を書き記していく。一枚、また一枚と書類が処理されていく様は感嘆の息を吐きたくなるほど速い。
 これが、全空最強の武具の使い手を集めた騎空団を束ねる頭目の力。武器の使い手という意味だけでなく、人を統べる力すらも兼ね備えた男の実力なのだとまざまざと見せつけられる。自分に投げつけられたペンが愛用の道具であるということさえ、目に入った瞬間には見抜かれていたであろう。それを迷いなく投げつけられたからこそ、さっさと仕事に取り組んでくれているのかもしれない。
 音を立てないように彼に背を向けて部屋を出てキッチンへと向かう。仕事終わりに彼に出す飲み物は決まっていた。体に走っている緊張が解けるように。けれど、過度な甘味は彼の好みには合わないだろうから、と仄かな甘みを感じられるものを用意していた。
 キッチンに入ってまずは冷蔵庫の前に立った。そこから牛乳を取り出して小鍋に注いだ。それを火にかけて沸騰しないように見張りながら、木べらで掻き混ぜる。しばらくして気泡がぷつぷつと浮き上がってきたところで火を止めてゆっくりともう一度掻き混ぜてからカップへと注いだ。ほわりと立つ湯気が、それが温かいことを証明していた。それを落とさぬよう、零さぬように気を遣いながら部屋へ戻ると、もう書類の山は半分ほど切り崩されていた。
 邪魔にならないような場所へとカップを置いて、私も自分の机に戻った。シエテが処理してるのは、あくまでも今日中に処理すべきもので、シエテ自身が処理しなきゃならないものだ。その他にも事務作業は山のようにあるのだ。
 『十天衆』、それは、全空の中でも優れた武器を扱う者が集まった騎空団。天星剣王と名乗るシエテをリーダーとして、十種類の武器種のエキスパートを集めた集団である。力を持つも者にはそれ相応の義務が伴う、として全空における脅威を潰すことにも一役買っている有名な騎空団だ。
 とはいえ、だ。目の前のシエテはこんな感じで適当であるし、他の者達も皆それぞれ自由に行動しており、『騎空団』と言われると正直首を傾げたくなる。何せ、十人全員が集まることが滅多にない。私だって全員が揃ったところを見たことなんて片手で数えるほどしかないのだ。おまけに、揃いも揃って問題児が多い。火消しの為にシエテが奔走することが多くなるほどに、彼らはあちらこちらで問題を起こすのだ。
 ……悪いのは皆じゃないってことは、分かってるんだけど。
 修繕費用の請求書を見ながら溜息を吐いた。こちらは、とある町で襲われていた人を助けようとした時に加減を誤ってその町のシンボル像を壊してしまった為に上がってきた請求書だ。もちろん、襲われていた人は無事であったし、犯人もそのまま自警団へと引き渡されたが、どんな理由があれ壊したのはこちら側である。ということで、請求をこちらに回してもらった、とは本人から聞いていたのだが。
 ……高い。
 シンボルを見ていないから判断は出来ないが、高い。一体何てものを壊してくれたんだ、と頭を抱えたくなる。その代わり、今年は豊作だということで食べ物はかなり恵んでもらったのだが。そちらは孤児の面倒を見ている双子に全て引き渡していいようにしてもらった。礼は本人に言うように言ったが、果たして伝わっているかどうか。
 シエテには及ばないながらも、ルーチンワークのように書類の山を片付けていく。請求書に嘆願書に依頼書。これらを仕分けして、時にメモを取って、返信が必要な物には返信をしたためる。そんなことをずっとやっていたら、一日なんてあっという間だ。
「ナマエちゃん、終わったよ」
 こめかみを解していると、書類を持ったシエテが横から声を掛けてきた。その両手には書類が抱えられている。
「じゃあ、ここに」
「ほい、了解」
 空いているスペースを指すとどさりとそれが置かれた。自分の前に並べられている書類を整理して、シエテに処理してもらったものを引き寄せて仕分けを始める。今日中にこれらを渡さなければならない。
 全空における有名な騎空団であるが故に、やってくる雑務も他のどこよりも多い。各団員がバラバラに生活しているから、それらは無尽蔵に積み上がっていく。
 そんな雑務をシエテ一人でこなすことが無理だから、という理由で私は十天衆でお世話になっている。前線に出ることは一切ない、本当に事務員としての団員だ。実際、武器の扱いはへっぽこもいいところだ。何度シエテに笑われたことか。
 とはいえ、雑務をこなす能力があったことだけは喜ばしいことだった。そうでなければ、この騎空団に置いてなんてもらえていないだろうけど。
「シエテ。何か食べたいものある? 一週間ぶりだから希望に合わせるよ」
 仕事で外に出ている間の生活は不規則だ。お風呂に入れないことはもちろん、食事が取れないことだってある。特に食事は活動気力に大いに影響を与えるもので、三日以上空けてから帰ってきた時は大体やつれているように見えるのだ。それは、今日だって例外ではない。
 そういう時は温かなもの、そして彼の好物を提供するように心がけており、必ず何が食べたいかを訊いている。好物とはいえ、人には気分というものがある。何を食べたい気分なのかを知っていれば、もっと喜んでもらえるのだ。そして、私はなんだかんだとそんなシエテの喜ぶ顔が好きなのだ。
「あ〜……」
 いつもなら喜んで返答するシエテが珍しく言葉を詰まらせた。
「シエテ?」
 書類から目を離して彼を見上げれば、気まずそうに頬を掻く彼の姿。その瞳がこちらに向けられることはなく。
「ごめん、ナマエちゃん。今日は、街の会議にこれから出なきゃいけないんだ」
「……あぁ、そうだったっけ」
 そういえば、そんな予定もあった気がする。シエテが戻ってこないから、忘れていた。
「じゃあ、夕飯はいらないね」
「ごめん! ほんっとごめん!!」
 拝むように両手を合わせて謝罪されるが、そもそもその謝罪には何の価値もない。だって、予め決まっていたことなのだ。勝手に落ち込む私の方が悪いし、謝らせてしまっている素振りを見せてしまった私が悪い。
「悪いのシエテじゃないよ」
「でもさぁ」
「ほらほら。予定があるならここでぐずぐずしてないの」
 椅子から立ってシエテを押した。会議が始まるまでにそれほどの猶予はなかったはず。いつまでもこんなところに居たら遅刻してしまう。
 私のことに構うよりも、もっと大事なことがこの人にはある。それは、分かっているのだ。それなのに、つい自分の感情を表に出してしまう私が悪い。
 この人は、この世界に必要な人で、世界の為に力を振るうべき人。そんな人が、たかだか一人の女にいつまでも目を向けていていいわけがない。
「ナマエ」
 家を出る直前、シエテが振り向いてぐっと私の手を引いた。
「日が変わるまでには帰る」
「……期待しないでおくから」
 そう言えば、困ったような顔でシエテは出ていった。それ以上言わなかったのは自分自身でも分かっているからだろう。守れるかどうか分からないから、って。
 だから、私は期待することをやめたのだ。期待して待っていて裏切られれば、それだけショックが大きいから。でも、期待しなければ別に帰ってこなくてもあまり心は痛まない。
「あーぁ、チョコ、どうしようかな」
 彼は知らないのだろう。私が、どんな気持ちで今日という日を待っていたのか、なんて。
 机に戻って冷めてしまった牛乳を飲みながら。テーブルの引き出しから一枚の便箋を取り出した。薄緑色のそれは、草原と風を思わせる。自由が似合う彼にぴったりだと思って、いつか買ったもので、愛用しているものだ。書類仕事をする時とは別のペンを持って、私はそこに文字を書きつけた。

○○○○○

 ひやりとした空気を感じて、意識が浮上した。寒い、と思ったのはほんの一瞬で、それはまたすぐに温かさに変わる。それまで感じていた温かさよりももっと温かいものとどことなく爽やかな匂いが体を包み込んで、意識がよりはっきりとする。
「……んぅ」
「あ、起こしちゃったかな」
 呻けば、気遣わし気な声が後ろから聞こえてくる。それが、私が待っていた人のものだとは、すぐに分かった。
 まだ重たい体を動かして、すぐ後ろに居る人物と顔を合わせる。
「……おかえり、しえて」
「ただいま。遅くなってごめんね」
「いいよ、べつに。いつもの、ことだし」
 眠たい目を擦っていると「こーら」と手を掴まれる。
「ダメだよ。傷つけたらどうするの」
「べつに」
「別にとか言わないの」
 掴まれた腕はそのまま首に回された。くすりと笑ったシエテは、私に体を寄せる。
「ごめん、やっぱり帰れなかったや。待っててくれたのにね」
「期待しないって言った」
「嘘つき」
 シンプルに、けれど優しい声でそんなことを糾弾された。けれど、まだ眠りの中にいるような状態では、反論の言葉など出てこない。
「テーブルに俺宛のメッセージとチョコレートなんか置いておいてさ。期待してるって言ってるようなものだろ」
「そんなことない」
 バレンタインでチョコを渡したかった。それは、事実だ。けれど、期待とかそんなことは考えていなかった。直接渡せないからメッセージを添えておいただけで。「ありがとう」の気持ちと、これからもよろしく、と思っただけで。会えないのが寂しくて未練がましく目につきやすいところに置いたとか、そんなことは断じてない。
 直接渡せたら、直接言うつもりだったのだ。そこに、特別な感情など、存在していない。
「素直じゃないなぁ」
 呆れたように息を吐いて、こつんと額を合わせられた。常に上を目指し、世界を見据えるその瞳が、今だけは私を射抜く。
「自分の気持ちにそうやって蓋しなくてもいいだろ」
「……してるつもりは、ない」
「いいや、してるね。だって俺、君からわがままなんて聞いたことないし」
 それは、そうだ。シエテにはなるべく自分の意思を伝えないようにしていることは事実である。シエテとは生きている次元が違うと、私は勝手に思っている。だから、自分の意思はなるべく伝えないようにしていたのだ。
 私のせいで、十天衆に、シエテに助けてほしいと願っている人の手を振り払うのは、絶対にダメだ。そう、思っていたから。シエテの強い力は世界の為に振るわれるべきで、その全ての時間を私の為に使われるべきではないのだ。
「シエテは、必要とされている人だよ。……私なんかが、わがままを言うなんて、出来ない」
「はぁ〜、どうしてそうなっちゃうかなぁ」
 うーん、と考えるようにシエテは唸る。いつの間にか、その大きな手は私の髪を優しく梳いていた。
「たしかに俺は、自分は強いと思っている。だから、これは世界の為に使うべきだとも、思っている。けどね、俺だって普通の人間だよ。多くの人が俺を必要としているように、俺だって誰かが必要だ」
 一人で出来ることなんて限度があるだろう。いつか、彼はそんなことを言ったと思う。
「俺は、君が必要だ。君に優しくされたいし、君に求められたいんだよ」
 分かる? などと言いながらシエテは私の頬を撫でた。少しばかり熱っぽく私を見るのは、多分気のせいではない。
「あのチョコを見た時、凄く嬉しかった。俺、まだ君から想いを寄せられてるんだな、って安心したんだよ。だからさ」
 その瞳から逃げ出したくなった。こうやってまっすぐに見てくるシエテの瞳を、いつだって直視出来ない。何もかもを見透かされているようで、それ以上に恥ずかしくて。逃げたくなってしまうのだ。でも、それを許してくれるほど、彼は優しくはない。
「好きだよ。ナマエ。待っててくれてありがとう。お礼と言ってはなんだけど、君の時間を明日一日、貰えないかな」
「……それ、俺の時間をあげるって言うところじゃない?」
「君の同意なしじゃあげられないだろ? 俺は、あげるつもり満々なんだけど」
 少しばかり悪戯っぽく笑む彼は、どこか子どもっぽさを感じさせる。そんな顔をもするんだから、本当にずるい。
 息を吐いて、目を閉じた。
「うん、あげる。その代わり、思いっきり甘やかして」
「ふふ、りょーかい。お望みのままに」
 目を開ける前に、唇を塞がれた。その温かな温度が何かなど、考えるまでもない。
 どうやら、夜はこれからのようらしい。
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