「ナマエ」
 パソコンに向かって書類を作成していると、気怠げな声が頭上から降ってきた。キーボードを叩いていた指を止めてそちらを振り仰げば、直属の上司が手帳を片手にこちらを見下ろしている。
「お疲れ様です」
「お疲れさん。ちょっといいか」
「どうぞ」
 頷けば、彼は隣の席へと座る。いつ戻ってくるかも分からない他人の席へ座るということは、話はそう長くないらしい。
「来月のこの日なんだけどよ」
 彼はパラパラと手帳を捲ってカレンダーを私に示した。指されたのは、三日間。それも、私が休暇を申請しようとしていた日取りだ。
「空いてるか?」
「……仕事、ですか?」
 この日に出張が入るなら、私の休暇の申請予定も変えなければならない。ちょっとした旅行に出かける予定だから、飛行機の手配やホテルの手配は既に済ませてしまっていた。もしも仕事ならば、その予定をキャンセルせねばならない。それを思うと、気が重くなるが、意外にも彼は首を横に振るだけだった。
「いや、ちょっとしたプライベートだ。仕事じゃねぇよ」
「はぁ」
「お前さんが暇なら、ちょいとおじさんに付き合ってくれよ」
 彼に付き合うのであれば、やはり私の予定は変えなければならない。さすがに、同じ月に一週間以上の休暇は申請できないためだ。とはいえ、三日間も指定したのは気になるところだ。ちょっと付き合うだけならば、一日だけで十分だろうに。
「どちらへ行かれるのですか?」
「アローラ地方だ」
「アローラ……」
 それは、私が行こうとしていた、まさにその場所ではないか。
 ……もしかして、クチナシさんも……。
 目的は、同じだというのだろうか。
「どうかしたか?」
「いえ……。ただ、私もその日にアローラ地方へ行くために準備をしていたものですから」
 虚を衝かれたように彼は私を見つめた。何かを思案するように目を閉じると、そうかい、と呟いて立ち上がる。
「んじゃ、二人分の休暇申請はオレが通しておくからよ」
「え、でも通りますか……?」
「通すんだよ」
 ニッと口の端を上げて彼は笑んだ。それは、頼れる上司の笑みでもあったが、何があっても折れない、という意思の表れのようでもあった。
「任せとけ。オレもお前さんも、評価は悪くない。ちょっとした旅行くらいなら許可は下りるだろうよ。バディで休暇なんだから、余計にな」
 そう言って、クチナシさんは自分のデスクへと戻ってしまった。私は呆然とそれを見ていた。
 彼の言葉が、まだ、信じられない。
 私が元々アローラ地方へ行こうとしていた理由。それは、弔いの為。
 大切な友達が、そこで死んだ。あの日から、ちょうど一年。私は、そのために行こうとしていたのだ。
 ……偶然、じゃ、ない。
 同じ日に、同じ場所へ。もしかしたら、向かう島は違うかもしれないけれど。でも、きっと、同じだ。その確信が、私にはある。
 だって、あの子は、彼と同じ任務に就いている時に、命を落としたのだから。

○○○○○

 何時間もの空の旅を経た後、今度は船での移動だった。そうして出発から半日ほど掛けて、私達は目的地へと降り立った。
 潮の匂いが鼻を擽る。島国だから常にこの風が吹くのだろう。都会の淀んだ空気ばかり吸っていたから、この匂いが凄く、新鮮だった。
 高い建物は見渡す限り全くなく、人家らしきものもそう多くはない。ここは、アローラ地方の中でもかなり、田舎の方なのかもしれない。
「お疲れさん」
「クチナシさんも、お疲れ様です」
 結局、休暇申請はあっさり通り、ついでだからと、私が既に手配していた飛行機やホテルの手配も若干の変更を掛けて、二人で動き回れるようにしてしまった。同じ乗り物で移動し、歩き回り、そして同じ部屋で寝る。あまりにも普段と変わらなさすぎて、なんだか仕事みたいなのがおかしかった。
 もちろん、私もクチナシさんも、普段以上にラフな格好をしているから、これが仕事ではない、という意識は否応なく植えつけられるのだけど。
「んじゃ、ちっと歩くぞ」
「はい」
 海に浮かんでいるような小さな集落を抜けると、そこは原初の自然がそのまま残っているような場所だった。クチナシさんは何も迷うことなく先を進んでいって、目的地へと向かっているようだった。
 ちょっと、と言っているからにはそう遠くはないのだろう。平坦な道であるから荷物を引きずっていても歩きやすいので、そこはありがたかった。
 互いに、会話はなかった。それは、この旅の目的が、楽しいものではないからかもしれない。私にとっても、彼にとっても。これは、心の傷と向き合うための、旅行なのだから。
「……ここだ」
 海岸に出ると、彼は立ち止まった。パラソルも何も立っていない、寂れた海岸だった。水深が深いのだろうか、海水浴が出来る海ではないのかもしれない。だから、観光客すらもいないのだろう。
 集落からはそれほど離れてはいないようで、砂浜の向こうに、海を挟んで集落の建物が確認できた。
 二人で柔らかに砂を踏んで、真ん中くらいまで歩を進める。
「……あいつが死んだのは、この辺りだ」
 深い青の海を臨みながら、あの子は死んでいったのだろうか。
 ……そんな、綺麗なものじゃない、か。
 静かに首を振る。そうだ、たしかに目の前に広がっている海はとても綺麗だが、それに感嘆してあの子が死んでいったわけではないのだ。そんなものを目に収めたかも、分からないのに。
 あの子は、Fallだった。Fallは危険生命体に付け狙われやすい体質らしい。それを利用して、私達国際警察は危険生命体を抹殺しようとして、そして、失敗した。
 危険生命体を次元の向こう側へと返すことは出来た、と聞いているが、作戦の要であるFallは死んだ。
 そう、私の親友は、ここで散って逝ったのだ。
 引いていたキャリーバッグをそこに置いて、集落で買った花束を手に、そこまで歩んだ。
 ――――ナマエ。
 鈴を鳴らすような声が、聞こえた気がした。目を閉じれば、そこに彼女が立っているような錯覚を覚えた。
 けれど、あの子はもういない。あの子は、一年前、死んでいった。誰も、助けられなかった。ただ、殺されるのを見ているほかなかった。
「ごめんね」
 そう呟いて、花を手向ける。
 私は、あの場にはいなかった。あの場にいたのは、クチナシさんと、ハンサムさんだ。
 実力がある二人が共に居て、どうすることも出来なかったのだ。むしろ、彼女一人の犠牲だけで済んだのだから、組織としては喜ばしいことなのだろう。
 けれど、やっぱり、私は、割り切れない。
 まだ、一緒にやりたいこともあって、一緒に見たかったものもあった。それなのに。
「ごめんね……!」
 ぶわりと涙が溢れてきた。もう、ここに彼女はいないのだと。あれから、一年が経ったのだと。そう思うと、もう止めることが出来なかった。
 温かな手が背に添えられて、ゆっくりと撫でられた。大きな手が、私の気持ちを落ちつけように、そこにある。
 彼だって、何か思うところがあるだろうに。それでも、私も思ってくれるのが、ありがたかった。
 そうして長い時間、私達はその場に蹲っていた。

○○○○○

 落ち着いて涙も渇いた頃、私達は連絡船に乗って、今度はウラウラ島という所にやってきていた。今日の宿は、ここだという。旅のメインの目的は果たしてしまったから、これからは、観光だ。せっかくの休みだから楽しまなきゃ、と思う反面、まだ心のどこかで引きずっている。
 先に食事にしよう、というクチナシさんの誘いで、私達はマリエシティの一角にある料亭に来ていた。クチナシさんはこのお店を予約していたようで、店に入るとすぐに、奥へと通される。
 個室に通されると、すぐに料理の準備が整えられた。見慣れない料理が、次から次へと並べられていく。一つ一つの器は小さく、そこに載っている料理も少量のように見えた。全ての準備が整うと、スタッフの人は部屋を出て行ってしまった。
「ジョウト地方の方だと、死んだ奴を偲ぶときにはこうした料理を食べるんだそうだ。精進料理っていうらしい」
「はぁ」
「肉も魚も使ってない。量は少なく見えっけど、結構な量があるからな。時間はあるし、ゆっくりでいいぞ」
「はい」
 クチナシさんはそれだけ言って、食事を始めた。私もそれに倣って箸を取る。
 お吸い物を一口飲んでから、煮物に手を付ける。味付けは薄い方だが、食材の味が生きている。そう、感じられた。
 とはいえ、このお皿に並んでいるものが何かは、半分ほどしか分からない。白と黒のマーブル模様を描いたサイコロ状のものは何で出来ているかも分からなかったし、揚げかと思ったものはもっとしっとりとした舌触りのもので、これもまた何か分からなかった。
 食べても何か分からない。けれど、決してまずくはない。いや、むしろおいしい。
 そんな不思議な食事は、思ったよりも長い時間続いた。彼の言った通り、少なく見えたその料理だったのだが、実際食べ始めると相当な量だったのだ。
 ゆっくりと箸を置けば、彼は外に出てスタッフの人を呼んで、片付けと食後のコーヒーを提供するよう申し出た。恭しい礼と共に、幾人かのスタッフが手早くテーブルを片付け、すぐに熱いコーヒーが目の前に置かれた。
「月日ってのは、早いもんだよな」
 コーヒーを飲みながら、彼はそんなことを零した。
「もう、一年経っちまった。オレはまだ、あの時のことを、忘れられないのにな」
「……覚えてらっしゃるんですか」
「……あぁ」
「あの子は、苦しんだんですか」
 まっすぐに彼を見据えれば、目を逸らされる。人伝に聞いた話と、直接その目で見た人間の話は、全く違うものだ。記憶が薄れているとはいえ、ここに、真実がある。多分、今逃したら、訊く機会をずっと逸してしまうだろう。
「さぁな。おじさんにゃ、分からねぇ。何せ、一瞬だったからな」
 巨大な化け物に殺された彼女。手も足も出せなかった彼ら。
 私は、知らされただけだった。彼は、その目で死の場面を目撃した。私達の中で彼女の重さは全然違うけれど、それでも、彼女の死がより重くのしかかっているのは、きっと、クチナシさんの方だ。
「一瞬だったんだ。あいつが躊躇ったあの瞬間に、化け物の手が伸びてきて、あいつは、一瞬で飲みこまれた。……亡骸がなかったのは、そういうことだ」
 葬儀の時、たしかにそこに、彼女の亡骸はなかった。人に見せられない程酷い有様だとしても、亡骸がない、というのはあまりにも不自然過ぎた。彼女の墓は一応建てられているが、そこには何もない。彼女の体は、そこにはない。
 彼女は、アローラ地方からは、帰ってこなかったのだから。
「文字通り、あいつはこのアローラで消えた。世界から、な」
「……どういうことですか」
「オレにも分からねぇよ。血の一滴も流れないまま、あいつは消えちまったんだ。化け物に、飲みこまれてな」
「っ!」
 それが。それが、真実だというのか。
 叩き潰されたのでも、踏みつぶされたのでもなく。
 飲みこまれた。だから、彼女はこの世界のどこにも残っていない。
「なぁ、ナマエ。なんでお前はあの後もオレなんかに付いてきてくれる。オレは、お前にとって憎むべき存在だろうよ」
 そうかもしれない。彼女を守ってくれなかったクチナシさんは、憎むべき存在なのかもしれない。
 ……でも、本当に、憎むべきものは。
 唇を湿すようにコーヒーを一口飲む。息を吐いてから、クチナシさんの方を見つめる。彼は、疲れたように、それでも私から目線を外すことはなかった。
 あの出来事はやはり、彼の精神を摩耗させていくものなのだろう。それでも、彼は向き合った。彼女の死に、正面から向き合って、親友である私と一緒に、その現場に連れてきてくれて、事の真相を語ってくれている。
 そんな彼を、信頼することはあっても、心の底から憎むことは、どうにも私には出来そうにないようだ。
「本当に憎むべきものは、危険生命体でしょう。あなたと居れば、いつかそいつに巡り会える。あの子の仇を取れるかもしれない。……これじゃ、不服ですか」
「オレといることが、危険生命体に巡り会うことになるとは限らねぇぞ」
「いいえ。私は、巡り会えると信じています。だって」
 国際警察。それは、複雑な組織図を持った組織。誰も彼もが一筋縄ではいかないような人間の集まり。それを束ねるのもやはり、一筋縄ではいかないような人間だ。
 人々の為ならば、簡単に仲間すらも切り捨てる冷酷な組織。それが、この組織だ。利用価値のあるものは価値がなくなるまで徹底的に使い込む。そんな、非情な組織だ。
 だから、絶対、巡り会える。本当に憎むべき、化け物に。
「私達がいるのは、国際警察ですから」


   手向けのは決意となる


「くっ……! ははは!」
 その言葉を聞いた瞬間、クチナシさんは盛大に笑い始めた。首を傾げてそれを見守っていると、彼の笑いはいつしか、自虐的なそれに変化していった。
「そうだな、ナマエの言う通りだ」
 コーヒーを飲む彼の目が見ているものは何だろう。今、何か、とてつもなく暗いものが映ったような気がするのは、気のせいだろうか。
「オレ達がいるのは、クソッたれな国際警察だったな……。だとしたら、オレも、ハンサムも、いつかは奴らにぶつけられる運命だってことか……」
 ……あぁ、そうか。
 次に死ぬのは、私か、彼か、それともあの人か。いや、もっと他の誰かか。この件に首を突っ込む限り、犠牲は避けられないってことなのか。
 そう、思ってしまうと、何故だかとても虚しくなった。
 私達が生きているのは、彼の言う通り、くそったれな世界なのだろう。
 ここにいる限り、幸せにはなれない。
 誰よりも慕っている上司を見ていると、私もまた、彼と同じように空虚な笑いが込み上げてきた。釣られて彼も渇いた笑いを零す。
 小さな部屋に、笑い声が木霊する。そこに、楽しさはなかった。
 ただ、ただ。自分達が踏み入れてしまった最悪な道を笑うばかりだった。この袋小路から逃げ出すには、二人揃って死ぬか、あるいは、二人揃って逃げ出すしかない。
 そうでもしなければ、こんな牢獄からは、逃げ出せないのだ。
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