第六章 | ナノ


第六章 
 第一話
 第二話
 第三話
 第四話
 第五話
 第六話
 第七話
































第一話



 森の中で迷ってしまったのは、旅をしている以上仕方がない。こんな日もある。
 そして山肌に近いこの森で、温泉が湧いていたのは僥倖だった。迷ってしまったし日も暮れたし今日はここで一晩、ということになった。
 男女交代で温泉に入る。最初は俺たち(女の子に譲ろうとしたら、あり得ねえとミクに冷たい視線を浴びた。リンも否定せず。何故だ)で、今はリンたちが入っている。俺とクオは焚火を見つめながら消えないように適宜薪を足した。


「さて、覗くか」


 ……クオがそう言うまでは。


「は!? 何言ってんだお前!?」


 思わず飛び上がってクオを見下ろすと、しっと人差し指を立てられる。何故か呆れた視線を流されて、うろたえつつ再度腰を下ろした。


「なに考えてんだ、覗くなって言われただろ」
「あのなぁ……覗くなって言われて覗かないなんて愚の骨頂だぞ。あれはな、フラグだ。恥ずかしいからああ言ったけどこれで覗かなきゃ女として見られてないと思い込んで落ちこむかも」
「んなわけねえし。おっ、俺はリンのこと」
「だからそれを伝わるように覗いてやるのが真の紳士だろ。それともお前、見たくないの」
「見たい」


 即答だった。
 ……いやだって見たいし。
 よし、とクオが俺の背中を叩いた。


「行って来い」
「え、お前は?」
「俺も覗いて良いの? 良いから良いから。俺は火見てないと」


 ほらほらと急きたてられて思わず腰を上げ。
 なんとなく釈然としないものを感じつつ気配を忍ばせて温泉方面へと足を向ける。温泉を隔てている大きな岩に身を隠し、背後の気配を探った。


「あー……生き返る」
「ミク、おじさん臭い」
「いいじゃんか。別にさ」


 ちゃぽ、という水の音。穏やかな彼女の声に、顔にかっと血が昇るのを感じた。ちょっと待て。なんだこれ……なんだこれ!?


「それにしても意外だったな、ミクもお風呂の順番とか気にするのね」
「は? あたしはあんたのためを思って言ったんだろ。あたしは別に気にしねえよ。昔っから順番も何も男に混じって風呂入ってたし」
「それもすごいわね……」
「ま、家族だったからな。女もクソもねぇよ。あんたは……」
「……何よ」
「いやー、色気足んねえな」
「色気じゃないでしょ! どこ見て言ってんのよ、はっきり胸が足りないくらい言えばいいじゃない!」
「いきなり逆切れすんな! 気にしてんの?」
「うっさい」
「別に良いじゃん、あいつは気にしないだろ?」
「あいつって誰」
「あー、誘導尋問にも引っ掛かんないか」
「知らないわよ」


 覗き見。いやこれ、クオに言われて来てしまったが冷静になって考えてみれば悪いことだ。うん。これは、無理だ。俺が。
 混乱のまま腰をあげようとしたとき。


「知らない、ねぇ。どう思うよ、レン」
「えっ!?」
「なっ」


 呼びかけられて、思わずこけた。茂みに頭から突っ込んで悲惨な音が出る。
 背後で奇妙な沈黙が広がった。


「……おい、レン……」
「え、え、え、」
「本当にいるとは思わなかったぜ」
「信じらんない!」


 ばしゃ、と頭からお湯がかけられた。鼻に入って咽返り、涙目になりつつ顔を上げると、真っ赤な顔のリンが岩場上から覗いていた。身体には何か白いものが巻きついている。ミクも同様だ。何かと思えば水が物凄い勢いでぐるぐると回っているようだった。


「すげぇなリン、何だこれ」
「タオルかわりよ。出来るとは思わなかったけど」
「そんだけ覗かれるのが嫌だったわけか」
「当たり前でしょ?!」
「うぶぇ!」


 再びお湯がかけられる……というか襲いかかって、避ける間もなく吹き飛ばされた。その先はクオと焚火を見ていた場所で。


「お前馬鹿だなぁ」


 笑いを堪えたかのような朗らかな声に殺意が湧いた。
 俺が倒れ込んだ場所に、茂みに隠されていた街への標識があったことに気付くのは、それから少し先のこと。









20160313























第二話



 レンが見つけた標識に沿って道に出れば、街に着くのはすぐだった。雨が降り始めていたからすぐだったのはすごくありがたい。山裾に近いとは思えないくらいの活気に溢れた街ですぐに食堂に入ったのは、久しぶりに手の込んだ食事がしたかったから、と、この街での情報がほしかったから。
 土砂降りになっている。よかった、屋根のあるところに入れて。スープを注文していると、レンがふと何かをじっと見ているのに気付いた。視線を辿れば、すすけた壁に不釣り合いの新しいポスターが。
≪異種格闘技戦! 腕に覚えがある者来れり!≫
 ああ……なるほど。


「参加すれば?」
「えっ? あ、でもほら、どのくらいの滞在になるかわかんねえし」
「なになに? あ、トーナメントか。レンは好きだよなぁそういうの」
「おい見ろ、優勝賞金百万だと。行けよレン、勝ち取って来い」
「賞金目当てかよ」


 しばらく逡巡していたようだったけれど、レンはおっしと頷いてポスターの方へ駆けて行った。手続きについてみているらしい。
 あたしたちは苦笑いしつつ食事を再開する。カウンターで食事をとっていたため、店のおかみがあたしたちのそんな様子を見ていた。


「あんたたち、強いのかい? 思い付きでトーナメント出ようなんてすごいんだねぇ」
「あそこの男は脳筋ですからね、それしか取り得がないんですよ」
「おい聞こえてんぞクオ!」
「おまけに野蛮だ」
「まだ言うか!」


 物凄い勢いで戻ってきたレンは、がしっとクオくんの頭を掴んだ。クオくんはそれを振り払って埃立つだろ、迷惑だろ、と正論を述べて黙らせている。


「いやいや、お兄さんたちも相当強いよね。あたしにはわかるよ」
「おや、慧眼なお姉さんですね」
「何言ってくれてんだい。さっきから話聞いてると、向こうの森から来たんだろ?」
「ええまあ、ちょっと迷ってしまいまして」
「あの森はドラゴンが棲む森でねぇ……地元民もそうだけど、旅人さんも滅多に入らないよ」


 ぴく、と反応したのは、レンもあたしも同じだった。へぇ、とクオくんが穏やかな笑みで応じている。


「それは知りませんでした。道理で人気がないと思った」
「ま、伝説だけどね。こないだ山の方でどーんってすごい音がしたから、また尾鰭がついてね」
「最近は物騒ですしね」
「まぁねえ。ここらじゃ聞かないけど、遠くの方じゃ魔物が出てるっていうだろ? 何か知ってるかい」
「そうですねえ」


 おかみさんの口振りから、ドラゴンなんて信じていないのがわかった。見たこともない、伝説の生き物。多分、あたしだってレンのことがなければそう思っていたかもしれない。
 レンは何も言わず、スープを掬っていた。







20160313























第三話



 当然のように、というのもおかしな話だが、二日間かけて行われたトーナメントで俺は優勝した。何故か俺よりミクの方が嬉しそうだったのは恐らく賞金のためだろう。俺は賞金より、リンが「おめでと。お疲れ様」と言ってくれたことの方が嬉しかった。
 まだ熱のこもる競技場を出て、四人で街を歩いていく。さっきの試合を見ていた街の人から、おめでとう、とか、強いな兄ちゃん、とか声をかけられるのも高揚した気分に拍車をかけていた。
 それに水をかけた者がいた。


「調子こいてやがる」
「あ?」


 振り返ると、見覚えのある顔が一つと、その後ろに突き従う卑屈な目をした男が数人。ああ、準決勝でやり合った男か。よくあるんだよなぁ、こういうの。


「何か用か」
「別に」


 男の目がちらりとリンに目を向けたのを見て、リンを隠すように前に出る。でも遅かった。


「魔女がいるんならこっちに勝ち目ねえだろ」
「どういう意味だそれ」
「テメーが一番よくわかってんじゃねえか?」
「挑発には乗んねえぞ」
「は、腰抜け」
「何とでも――」
「レン、構ってないで行きましょう」


 リンが、俺の手に触れた。


「負けた理由が欲しいだけなんでしょ。それこそ、あの人が一番よくわかってるんじゃない? 馬鹿じゃなければ、だけど」


 リンにしては、随分挑発めいた言葉だった。驚いてリンを見下ろすと、きゅっと俺の腕を掴みながら男を睨み据えている。…可愛い。どうやら俺のことで怒ってくれているようだった。
 嬉しいんですが。どうすればいいですか。
 おろおろとクオに助けを求めると、呆れた目を返された。


「んだと?」
「何よ、それともわかりませんとでも言う気? 馬鹿でしたって自己紹介してくれるの? わざわざレンの視界に入って来てこれ見よがしに大きい独り言なんて、寂しい人ね。ほんっと、情けないわ」


 怖ぇ……。クオは苦笑気味だし、ミクは何故かいいぞもっとやれと声援を送っている。リンには逆らわないようにしようと決めた。
 よし、とリンが俺にしか聞こえないくらいの小さい声で囁いた。


「リン?」
「言いたいこと言ったし、逃げるわよ」
「へっ」
「よーい、どん!」


 リンに引っ張られて踵を返して走り出す。クオとミクもすぐに続いた。あいつらは、突然のことに対応しきれなかったようで、怒鳴り声がどんどん遠くなる。
 撒いた。


「……はぁっ、は、はあ……」
「大丈夫か?」
「もう……っ、何で平気そうなのよ……」
「鍛えてるし。水飲む?」
「良い」


 リンが額に落ちた汗を拭う。なんとなく見ていられなくて目を逸らすと、クオとミクがにやにやと笑っていた。くそ、殴るぞ。


「はぁ……すっきりした」
「すっきりしたって……リン、なんで」
「言われっ放しなんて嫌じゃない」
「そうだけど」
「あとああいう男は大っ嫌いなの」
「うん」
「それに、ほっといたらあんた、喧嘩しそうだったし」
「え? ……俺のため?」
「違うわよ。喧嘩なんか嫌だっただけ」


 そう言われても、期待してしまうのを止められない。にやっと笑ってしまいそうになる顔を片手で隠した時に。

 半鐘の音。


「あ……」


 真っ青になる、リンの顔。
 俺も、わかった。


「敵が来る……」


 ひたひたと近付く、闇の気配。






20160313





















第四話



 皆で街の外れへ走る。その間に逃げ惑う人々とぶつかったり転びかけたりしたけれど、構っていられない。
 街の外に出て、街道を駆け抜けてくる黒い馬を見つけた。三体。ああ、どうしよう。あれは影だ。あたしたちの姿を認めて、スピードをあげたようだった。思わず後退りをしてしまいそうになるけれど、このまま、街にはいられない。


「逃げないと……」
「ああ」


 ぎゅっと握られた手に視線をあげると、張り詰めた顔のレンが辺りに目を走らせていた。


「レン、山で撒くか」
「行こう」


 走り出して、道を逸れる。この先は道も、けもの道すらない山だ。木々の間を縫うように走る。ちらりと見えた影たちは、やっぱり道を逸れてあたしたちを追ってきた。


「急げ!」


 ぽつり、ぽつりと降り始めた雨が、ざぁざぁとバケツをさかさまにしたような土砂降りになる。この街に入ってから時折降っていたけれど、ここまではなかった。影達が雨を呼んだようだった。
 レンに手を引かれて足場の悪い場所を行く。クオくんとミクは軽やかに登って行って、案の定あたしが足を引っ張っているのだと落ちこみそうになった。違う、今はそんな場合じゃない。というか、足を引っ張るも何も奴らの狙いはあたしだ。なら、


「許さないからな」


 レンが、あたしの思考を読んだみたいにそう言った。あたしの手から力が抜けたのを察したのだろう。きゅっと握り締められる。
 ごおごおと大きな水の音がした。木々を抜けていくと、川が氾濫している。山裾の川だから普段はそんなに水は多くないはずだけれど、ここ数日の雨で増水したのだろう。吊り橋が心もとなく揺れていた。


「よっしゃ!」


 ミクがガッツポーズをしたのは、渡り切ってしまえばあとは橋を落とせばいいと悟ったから。そうしたら、影はしばらく追いかけることが出来ない。迂回ルートを探すか氾濫が収まるのを待つしかないのだから。
 ぐらぐらと揺れる橋を、渡る。古い橋。板が脆くて、隙間から荒れ狂う水面が見える。綱なんてすぐに切れてしまいそうで。
 足が、竦む。


「大丈夫だ」
「……レン」
「前だけ見てろ」


 そう言って、レンはあたしの手を引いて歩いていく。あたしはその言葉に従ってレンの背中だけ見ていた。ぎしぎしと橋が鳴っているはずなのに、聞こえなかった。


「レン! 早くしろ、来てるぞ!」
「わかってる!」


 先に渡り終えたクオくんとミクが叫んでいる。背後から近づく冷たい気配に、鳥肌が立った。
 あと少しで渡りきる、というときだった。


「なっ……」
「なんだあれ!?」


 クオくんとミクの驚いた声。レンも何かを感じたらしく、振り返った。つられて後ろを向くと、水が大きな――人一人よりも大きい――手を模して近付いていた。
 なに、あれ。


「きゃっ!」
「ミク!」
「おう!」


 ぐいっと手を引っ張られて、身体が宙に浮く。ものすごいスピードを体感したかと思えば、誰かに抱きとめられた。ミクだ。慌てて顔をあげるのと、橋が崩れるのと、レンと影達が水の中に引きずり込まれるのと。
 どれが一番早かったのか、わからなかった。





20160313























第五話



 水の中に引き込まれたとき、一瞬だけリンと目があった。よかった、ちゃんとミクに受け止められたらしい。それだけを思って、次の瞬間空気がなくなって咽返る。けれど水の中だ、いくらもがいても空気はないし、俺を掴んだ水の手は水中であっても俺を逃がさず、下へ下へと引き込んでいく。
 次第に視界が暗くなり、息苦しさも忘れ。ああ、これで、死んでいくのか、と、ふと思うほどに。
 けれどその思いは一瞬にして消える。息が出来るようになったからだ。


「がはっ、ひ、はぁっ、」


 膝を突いて水を吐き出す。暫らく肩で息をして、生きていることを実感する。
 そして、ふと、気付いた。

 ここはどこだ?

 薄青い静かな空間。ちゃぽ、と薄く水がたゆたっていて、丸い砂利が綺麗に敷き詰められている。霞みがかっていて遠くもよく見えない。あの森の中ではない。
 立ち上がって、ぎくりとした。


『落ち着いたか』


 大きな、目だ。
 薄い水色をした体躯。畳んだ翼。俺などひと振りで引き裂けそうな爪を持つ。それでもそうすることはないだろうと思わせるのは、その目が穏やかで敵意の欠片もなかったから。
 ドラゴンだった。
 驚いたのは急に視界に入ってきたからで、そこに敵意がなければ警戒する理由もない。落ち着いて、あんたは、と尋ねる。ドラゴンは気分を害した風もなく、口を開いた。


『私は水竜。ここを棲みかにしている老いぼれだよ』
「俺はレンだ。見ての通り人間だけど、何でここに連れて来たんだ?」
『驚かしたのには謝ろう。侵入者を排除しようとしただけなんだが、興味深い人間がいたからね』
「興味深い?」
『ああ。……レンよ、竜の加護がついているな』
「俺の育ての親だ」


 加護と言われて思いつくのはそれしかない。
 散々馬鹿にされたり茶化されたりしたけれど、確かに、彼は俺の親だった。


「今はどこにいるか知らないけどな。ドラゴンスレイヤーが近づいてくるからって追い出されたきりだ」
『そうか。今の世は我らにも棲みにくい。……だが、お前の親の行方が知れないのは、ドラゴンスレイヤーのせいではないな』
「え?」
『いや、間もなく知るだろう。この世はまこと、生きにくい』


 水竜はそう言って、何故か笑い声を漏らした。


「そうは見えないんだけど」
『ここをどこだと思う? 水の下、隔離された私の空間だ。人に荒らされぬようにな』
「ああ、道理で」
『こうもしないと生きにくいのだよ。お前もそうだろう』
「別に、そう感じたことねえけど」
『そうか? お前はこの世界を壊す者だよ』


 一瞬、反応が出来なかった。


「……は? 何、言ってんだ。俺は何も壊すつもりはない」
『言い方が悪かったかな。レンよ、魔王を知っているかい』
「直接見たり会ったりしたことはない。復活したことは話に聞いた」
『私は魔王を知っているよ』
「な……」
『そんなに驚くことはないだろう。我らは長命の一族だ』


 水竜は、言う。


『普通の子だったよ。少し大人しいけれど、利発な目をしていた。一緒にいた子ととても仲がよさそうに遊んでいた。大人びた目をしていたね』
「……でも、今は」
『今はまだ、復活したばかりだからそれほど活動はしていないようだけれど、魔王の目的は世界に死を溢れさせることだ。前回はそれで、とても悲しいことばかりが起きていたんだよ』
「それを、止めないと」
『そうだ。それでも、魔王を完全になくすことはできない』
「どうして」
『魔王は、装置なのだよ、人間の子。世界に悪意が溢れて来ると、生まれてしまう』
「封印するしかないってことか?」
『今の魔王を倒すことは出来る。でもいつか、また繰り返す』
「どうして」
『廻っていくのが、この世界の理だからだ』


 悲しそうに見えた。水竜の目が、少しだけ揺れたようにも見えた。
 どうしてだろう。


『竜の加護を受けた子、お前の近くに娘が一人いたね』
「へ? ああ、」
『あの娘とお前の命、どちらか選ばねばならぬとしたらどうする』
「んなもん決まってる。あいつには生きていて欲しい」


 考えるまでもなかった。
 まっすぐ竜を見つめて答えると、竜は大きな目で瞬きを繰り返した。


『――ふっ、あははは、これは面白い。照れもせずに言い切るとは』
「照れる必要何かないだろ。ここにリンはいないんだし」
『そうか。しかし、迎えが来たぞ』
「へ?」


 竜の視線を辿ると、上から何かが近づいてくる。まるで水の中を羽ばたくように、ゆっくり、ゆっくり。
 俺の隣に降り立った彼女は、杖をとんと突いて俺の胸元を叩いた。


「リ……」
「ふざけんじゃないわ。よくも庇ってくれたわね」
「え、ちょっと」
「人の気も知らないで、心配したでしょう」
「えっ」


 ぶわり。顔が、熱い。今俺顔真っ赤だ。それがわかったのか、リンも怯んだように身体を放した。


「な、なんで赤くなるのよ馬鹿」
「いや、心配、してくれたから。嬉しい」
「はっ、恥ずかしいこと言わないで!」


 リンは俺の身体を押して、水竜にぐいと身を乗り出した。


「レンは返してもらいます」
『よく迷子にならずに来られたものだ』
「……水の中だと、感覚が鋭くなるわ」
『ああ、そうだろう。水に愛されし子よ。水に愛されたように、水が慈しむように、お前もたくさん慈しんであげなさい』
「え?」
『そうして、廻っていくのだよ』


 帰りなさい、と水竜が言う。リンは何か言いたそうに見ていたけれど、俺の手を取ってふわりと浮かんだ。
 水の魔法だ。
 初めて会った頃から、随分、上手くなった。


「ドラゴンさん」
『さようなら、――の娘』


 ぶわっと顔に水流を感じた。竜が遠ざかっていく。
 恐らく、もう二度と会うことはないだろう。
 リンは何かを振り切るように俺の手を引いて飛んでいく。


「……リン。ありがとう」
「……レン。あのね。水の中にいると、感覚が鋭くなるみたいなの」
「? うん、さっきも聞いた」
「レンの匂いがする」
「えっ」
「違う! 違うから! その……レンに近い匂いがするの。多分……レンのお父さん」
「!」


 空がきらきらと輝いている。否、空じゃない、水面だ。それを突き破る瞬間、冷たい水の感覚が肌に触れる。でも一瞬で、俺たちはもとの森の中、川に足を浸して立っていた。荒れ狂う川は嘘のように落ち着いて、本当に浅瀬に戻っている。


「あれ?」
「……時間の流れが違うみたいね。あたしが向こうに行って、また時間経ってるかもしれない」
「マジでか」
「そうよ、ばか」
「う……ごめん」


 さっきから、リンは俺の前を歩いている。川から出ることなく。滑らないか心配だったけれど、リンの足取りはしっかりしていた。


「クオとミクは?」
「街に戻ってるはずよ。一日経っても戻らなったらそうしてって伝えてるから」
「悪い」
「……さっきから何であやまってばっかりなのよ」
「えと、リンが怒ってる、から?」
「男ならもっとしっかりしなさいよ」


 ゆっくりと川を上っていくと、木漏れ日が落ちている空間に行きつく。そこは滝壺で、ごおごおと水が激しく落ちている割には静かという、不思議と矛盾した綺麗な場所だった。


「……」


 リンがちらりと俺を見る。そして何か呪文を口の中で呟くと、あっという間に俺たちの周りを水が囲んだ。そのまま、滝壺の中に運ばれる。


「騒がないでね、そう大きくは出来ないから」
「ああ」


 滝壺は深かった。リンの魔法がなければ、辿りつけなかっただろう。
 底に、彼がいた。


「……親父?」


 外傷はなく、本当に、眠っているかのように見えた。水底でもわかる、綺麗な碧をした巨大な身体。懐かしい、数年ぶりに見た養い親の顔に刻まれた深い深い皺。
 ドラゴンが、眠っているように死んでいた。


「親父」


 震える手を伸ばす。一瞬、俺たちを囲む水の球が壊れてしまうのかと思ったけれど俺の手が水をくぐっただけで、球に変化はなかった。彼の目元に触れた。決して、目は開かない。見れば、随分前からここで眠っていたのか、苔むしていたり、鱗が剥がれていたりしていた。あのドラゴンスレイヤーたちは、やっぱり鱗を拾ったのだろう。
 ああ、そうか。そうだったのだ。俺は唐突に理解した。ドラゴンは不死の生き物だと聞いたことがある。けれど例外もある。酷く身体を傷つけられた時。そして、子を産み生を繋ぐ時。この美しく壮大な竜は、俺を「子」として認めた。

――命はそうして、廻っていくのだよ

 さっき会った竜の言葉の意味を、悟る。







20160313
























第六話



 レンが大きな水の手に引きずり込まれたとき、一瞬動けなかった。嘘みたいに、天気が晴れていくことにも気付かず、呆然と水面を見つめる。


「レン! 返事しろレン!」
「レン坊―! 死んだかあああああ!」
「ミク! お前もうちょいデリカシー身につけろよ女だろ!」
「あぁん? 金になるんだったら身につけてやんよ!」
「何で上からなんだよ」


 何で、あいつ、あたしを庇ったのよ。あたしは水をつかさどる魔術師なんだから、あのくらい、きっと大丈夫なのに。
 ああそうだ、あたし、魔術師だ。何してんだ、馬鹿。
 呻いたのは、微かに魔力の残滓を感じ取ったから。あの手なんて魔法の産物でしかないのに、何でぼーっとしていたのかしら。
 杖を構えて、呼吸を整える。


「リン?」
「うん……行けそう。一日経って戻らなかったら、街に戻ってて」
「……わかった」


 心配そうにクオくんが笑った。
 水の膜を作って、川の中に入る。水は思い切り濁っていて見通しはつかなかったけれど、それは関係のないこと。だってレンは、この川の中にはいない。
 水の中で、上を見上げる。きらきらひかる水面は、今は見えない。
 ふとレンの気配がした。水の中から。
 違う。これじゃない。でも、これは?
 魔力の尻尾を掴んで追いかける。レンの本当の気配はこっち。でも、別方向の水中から違う気配もしてくる。あたしはそれが気になって、答えがわかったのは少しだけ後だった。
 魔力で作られた別世界。うすぼんやりとした空間に、レンと、それから水色の美しいドラゴンがいた。呑気に会話何かしてる。こっちはどれだけ心配したと思ってるの。
 思わず食ってかかったのは、我ながら子供っぽかった。レンはあたしを庇ってくれたのに。


『水に愛されたように、水が慈しむように、お前もたくさん慈しんであげなさい』


 ドラゴンにそう言われて見上げた時、ふと気付いた。さっき感じた、レンじゃないレンの気配。あれは、ドラゴンだ。レンに近いドラゴン。ああ。
 レンの、お父さん。
 それが水中に留まる理由を、悟った。涙が出そうになった。







20160313





















第七話



 レンの横顔が、前髪に隠れて見えない。優しい手つきでドラゴンの目の下に触れていた。その手が震えていることに気付いて、目を逸らす。


「……親父は、俺を傷つけないように。俺の所為だって思わないように、山を去ったんだ」
「優しい、お父さんね」


 レンがドラゴンの頬から手を放した。行こう、と少し急くようにあたしの手を引く。何も言わずに、水面を目指した。
 よく、晴れていた。
 ちゃぷ、ちゃぷ、と音を立てて岸に近付いていく。足が着くようになって魔法を解くと、レンの足が止まったことに気付いた。
 一人になりたいのかもしれない。どうしたら、いいのかしら。逡巡は一瞬。
 振り返った瞬間に、温もりに包まれる。声をあげそうになって必死に押さえた。その身体が震えていたから。


「優しかった」


 耳元で聞こえた声が、震えている。


「優しい父親だった。強くなれと、俺に言った。それで……死んだんだ」


 そうね。
 そうだわ。
 それはきっと、あの人も同じなのだ。ハクさんも。もう二度と、会えない。
 零れる涙を見せないように、レンの頭をかき抱く。
 そうして暫らく、あたしたちはそこにいた。






20160313





 シリアス回でした。
 ぶっちゃけ冒頭一話のお風呂が書きたかったんですが、何故ここまで落差が出てしまったのかわからない。