「オレを拾ってクダサイ」

その言葉で私は紫の大きなわんこ、もとい年下男性を拾った。
もちろん躊躇した、というか躊躇しかなかった。一応私は女であるし、見た感じの年だって近い。それでも私はそのとき傷心だったのだ。彼氏に急な別れを告げられて一週間。私を振ったことへの怒りやそれまでの悪口も落ち着いてちょうど寂しさだけが純粋にこみ上げるころだった。だから戸惑いながらもその紫に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

携帯止められてさ、オレちょうど今行くとこないの。
…家は?
携帯止められるくらいなのに家賃払えると思う?
キミを拾うことのメリットは。
んー。電球変えたげる。

は?と返したのをしっかりと覚えている。だってそのとき私の目の前にいた彼は私の住むアパート前のアスファルトに座り込んでいたのだ。小さい背丈の男性ではないことはわかっていたけれどまさか2メートルを超える巨体を持ち合わせているとは想像すらしていなかった。よろよろとした動きで立ち上がった彼が電球を変える動作を模すようにこれまた長い腕を持ち上げる様子ははっきり言って異常だった。異常だからおかしくて、そのおかしさに少しだけ心を許した。それにちょうど、私の部屋の電球はぽつりぽつりと元気をなくしているところだった。そしてさらに言うと、彼の見た目に私は気を悪くしなかった。とどのつまり、ストライクとはいかないまでもタイプと呼べる範疇のルックスを彼は持ち合わせていたのだ。








「ねー」

「…もうなに。重い」


3ヶ月も住み着いたままのこの大型犬は甘えるように後ろからずしりとのしかかってくる。一応ここを居としてバイトを見つけ、私の給料に上乗せされる彼の給料で私が生活をやりくりする毎日にももうすっかり慣れた。お互い座っている体勢でも体格差は大きく、すっぽりと包みこまれながらつい先日なんとか賞を受賞したと話題の小説を読む。
私たちの関係は、よくわからない。


「ベッド、行こうよ」

「…盛るな」

「えー、いいじゃん」


体を重ねることはあるけれど、お互い好きだなんて甘い言葉は一度として吐かない。かわいいとか、そういう類いのことはきっと行為を楽しむために私にかけられる。そんなふわふわと浮遊したようなよくわからない関係。


「ちょっと、お菓子のカスこぼさないで」

「じゃチューして」


今日は甘えるモードで徹底するらしい。鼻先を私のうなじに擦り付けて意味もなく、んーとかむーとか言っている。私の動きを待っているのがはっきりすぎるくらいに伝わってくる。いつも言葉ほどに行動は積極的ではない。


「キリいいとこまで読んだらね」

「……つまんねー」

「あ!こら」


もう見慣れた長い腕でひょいと取り上げられた文庫本は、しおりも挟まれずに閉じられた。こういう小さな積極性は持っている。アツシに邪魔されながら意識も定まらず追っていた文章をまた次見つけるのは骨が折れるだろう。


「ね。ナマエ」

「…はぁ、」

「ほんとにイヤならちゃんと怒って。オレが諦めるかはわかんねーけど」


こういう狡さも持っている。
私はもう一度のため息と一緒に体の向きをぐるりと回し、お菓子をごくりと飲む喉を確認してアツシの唇に私のを押し付けた。目を細めて嬉しそうにするアツシは甘い甘い舌で私の唇から歯の並びからぜんぶなぞっていった。広い背中に回した手でTシャツを掴むと、同じように私に回された腕がトントンと背中を叩く。これほど安心感に包まれる瞬間を私は知らない。むしろ私の皮膚のおうとつすべてにまで安心感が這いつくばるような、逃れられない安心感。あたたかい。と、いつも思う。


「イヤじゃねーんだ」

「わざわざ聞く?」

「んーん。いいや。顔でわかる」

「…嬉しそうだねぇ」


さっきうなじにされていたように今度は額をアツシの鼻がくすぐる。背中のトントンはまだ止まらない。きっと私がこの心地よさに浸っていることをアツシは知っている。溺れそうなことも、知っている。そういうしたたかさも持っている。


「オレを拾ったときのこと覚えてる?」


私の鼻頭の前にある口がもごもごと動く。甘える声そのままに甘い匂いがする。


「ん。覚えてるよ」

「正直拾ってくれると思わなかった」

「うん。どうかしてた」

「…ソレって、後悔?」

「さぁ。どうだろう」


後悔であるような、後悔でないような。アツシは至極やっかいな男なのだ。積極性はないくせに狡くてしたたか。宙ぶらりんの関係に嫌悪するような心のゆとりをなかなか私に与えてくれない。嫌いだとも、好きだとも言わせない。


「初めてヤったときのことは?覚えてる?」

「……覚えてない」

「うそつき」


アツシとの初めての行為は本当に流れと勢いだった。会社の飲みで酔っぱらった私にアツシがたたみかけて、崩れるみたいにつながった。そこに至るまでの微妙な人間関係の構築よりも、そこからのどこか諦めたそれの構築の方が時間はかからなかった。


「今日、なに。なんでそんなに、…そんなこと聞くの」

「んー。お菓子に飽きたからかなぁ」

「それは」

「冗談じゃねーから。お菓子があんまりおいしくねーの。だからナマエに構ってもらいてぇってだけ」

「それは、異常だね。アツシにとって」

「でしょ?だから、構ってよ」



「アツシを構うことのメリットは」

「んー。もうそんな顔させない。これから」



私がどんな顔をしていたのか、私のどの顔を指してアツシがそう言ったのか、結局わからない。ただ、行為の中で初めてアツシは照れたように私の肩に埋まって。好きだよ。と一度だけ湿った空気を震わせた。


縁 / enishi

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