いよいよ試験一週間前となり、部活自体が禁止された。放課後の教室は多くの生徒が残っている。試験前だからとみんながみんな静かに勉強するんじゃなく、むしろ静かに勉強したい人は帰宅するわけだから前よりもずいぶんにぎやかになった。
「………紫原君、どうしよう」
「んー?どうしたの」
「数学の範囲勘違いしてて、プラス30ページもあった」
「うわー。かわいそー」
「…絶対思ってない」
二人で勉強を始めた日の紫原君のように、私は深いため息を吐き出した。机にうなだれる私をお菓子を食べる彼が見下ろしてくる。
はぁ。30ページって。私のばか。ただでさえ数学はいつもぎりぎりなのに。中間の範囲の応用問題もしっかり出すとか聞いてない。
「…んー、ちょっと待っててねー」
「……ん?」
紫原君はなにか私を励ましてくれるのか、それともまったく関係ないことなのか、教室から出て行った。
どこへなにをしに行ったのだろう。案外戻ってこないし。まさか帰った?いやいやカバン置いて行ってるし。そう考えていると教室のドアががらりと開いた。
「ミョウジさーん。ちょっと来てー」
ちょいちょい。大きな手をそう動かされて、素直にそれに従う。廊下に出るとどこか見たことのあるような男子生徒が立っていた。
「教室入んの恥ずかしいってうるさいからさー」
「うっせぇな。なんでお前は普通に入れんだよ」
「あ。ミョウジさん、この人うちの副主将ねー」
「……あー、あぁ。それで」
「ん?俺のこと知ってんの?」
「いや、見たことあると思って」
「試合でも見に来たのか?」
「はい。練習試合ですけど」
副主将の、たしか、……福なんとかさん。だめだ思い出せない。
「ミョウジさん、数学教えてもらいなよ」
「…は?え?」
「数学なら得意らしいよー」
「アツシお前なぁ、いきなり引っ張ってきてよくそんな物言いできるよな」
「えーいいじゃん。ヒマそうだったんだし」
「ヒマじゃねーよ受験生なめんな」
あ、そうか三年生だから受験生なんだ。そんな大事な時期に私に勉強を教えるなんて絶対に迷惑だ。ヒマじゃないって言ってるし。
「あの、大丈夫です。数学、多分なんとかなります」
「範囲30ページも間違えてたんでしょ?」
「うん。いや、だけど」
「オレの勉強も教えてたから時間なくてできねーとかなったらやだし」
「アツシこの子に勉強教わってんのかよ」
「そうだけどー?」
副主将さんははぁと短く息を吐いて頭をがしがしと乱雑にかいた。どうしたのだろうか。
「それさ、教えるしかねぇじゃん。アツシがバカすぎて試合出してもらえねぇってなったらオレらも困るし」
「ほら、教えてもらいなよ」
「え、うーん、と……いいんですか?ほんとに」
「アツシの面倒みてもらってるお礼っつーことでいいんじゃね?」
「じゃあ、お願いします」
あ、思い出した。福井さんだ。副主将の福井さん。秋田県なのに福井さん。そんなくだらないことが脳内によみがえった。でも、思い出せてよかった。
「やるのはいいとして、場所どうするよ」
「教室でいいじゃんー」
「オレんとこの教室ならまだいいけど、それは気つかうだろ」
「べつにー」
「お前じゃねぇよ」
「あ、じゃあ図書室はどうですか?」
「あー、うん。ありだな」
「でも図書室って話してたら注意されるじゃん」
「図書室の学習室使えば大丈夫だよ」
「は?そんなんあるんだったらオレらもそこでやってればよかったじゃん」
「学習室は三人以上じゃねぇと使えねーんだよバカ」
実は私も初めて使う学習室に三人で向かう。いくつか数のあるそこはもうすでにほとんど埋まっていたけど、運良く空きを見つけることができた。教室の机よりは大きな四角いテーブルに私と福井さん、向かいに紫原君という形で座る。
よろしくお願いします。と勉強を始めて、私は必死に教科書と問題集を睨み、ほとんどわからないから福井さんがそこを教えて、紫原君は英語の単語を覚えているようだった。
間違えていた範囲も大方終わりに近づきちらりと静かな紫原君を見てみると、机にアゴをついてじーっとこちらを見ていた。あ、不機嫌な顔。
「アツシ、サボってねぇでやれよ」
「…サボってねーし」
「そんなに見ても今日はお菓子ないよ」
「……べつに、いらねーし」
「お前なぁ、ガキか」
「は?」
「うん、幼稚園児だな」
「はあ?」
紫原君はわけがわからないと言いたげに福井さんを睨んでいる。私もどういう意味かわからないけど、どうかこれ以上紫原君を不機嫌にさせないでください福井さん。
「先生がとられたってごねるガキ。さっきまで自分と遊んでくれてた先生が他の子どもだっこしてるの見て、オレもオレもーって言うやついんじゃん」
うわ、わかるかもしれない。マフィンのときもそうだったし。紫原君はきっと他の人よりは私に懐いてくれているからその私が紫原君をかまわないっていうのが気に入らない、みたいなそんな感じ。
「…だって今日オレミョウジさんに全然教えてもらってねーし。つまんない」
「アツシがそんなに懐くのも珍しいんじゃねぇの?」
「懐くとか、ペットみたいだからやだし」
あ、ごめん私も懐いてくれてるって思っちゃったよ紫原君。
「つーかオレそろそろ帰るわ。こうなったアツシ面倒くせぇし」
「……え」
「アツシ、ちゃんとミョウジちゃんに勉強教えてもらえよ。少しなら二人で使っても大丈夫だろ。学習室」
「…ん。言われなくても教えてもらうし」
「福井さん、本当にありがとうございました」
「おう。ん?つーか名前、そういえば言ってなかったよな?」
「あ、えっと、試合見てたとき隣の女の子たちの会話に出てきてたんで」
「へぇ、それでか。また数学わかんねぇとこあったらアツシ通してでもいいから聞いてこいよ」
「はい」
じゃあなーと福井さんは学習室を出ていった。さて。どうしたものか紫原君。お菓子がないってさっき言ったのは本当だし。どうしたものか。
「……紫原君も、ありがとう」
「は?」
「紫原君が福井さんを呼んでくれたから数学なんとか大丈夫そうだよ」
「………ん。よかった」
「だから、機嫌なおして」
「………オレさー、ちょっとわかったかも」
「ん?なに英語?」
「ちがうし。幼稚園児の気持ち」
「先生がとられたってごねる幼稚園児?」
「うん。ミョウジさんとられたみてーでつまんなかった」
「大げさだなぁ」
「だから。ん」
「ん?」
紫原君はこの前のようにこてんと頭を下げてくる。撫でろということだろうか。
「幼稚園児の気持ちわかったついでにさー」
「………」
「機嫌なおるかもー」
「現金なやつめ」
やっぱりやわらかい髪の毛をとんとんと撫でる。紫原君は満足したらしい。
「ん。ありがとー」
紫原君はうれしそうに、子供みたいに笑った。