「ミョウジさんごめんねー」
「ん?どしたの」
「辞書返すの忘れてた」
私は辞書を貸してたこと自体忘れていた。家で使うわけじゃないし。
紫原君は持っていたチョコレートの袋を私に渡して、陽泉と書かれたバッグをあさり始めた。ガサゴソ、と手を突っ込んでかき回す様子を見ているとジャージの袖がぴょこん、しわくちゃのプリントがぴょこん。全然整理してないんだろうなぁ。
「……アララ?」
「ん?」
「…教室に忘れたみてー」
「まじか。まぁ使うの明日の2限だからいいよ」
「えー、また忘れそう」
「こら」
「ねー、今から取りに行こうよ」
「……は?」
「今から。ね。決定ー」
「今から?学校に?」
「うん。まだ開いてるよ」
「そうじゃなくて…!」
「アララ?ミョウジさんこえーの?」
「うっ」
怖いよそりゃあ。夜の学校ですよ。怖いでしょ。一人じゃないからまだいいけど、夜の学校なんて電気もほとんどついてないしシーンと静まりかえってるし足音とか響くし、とにかく怖い要素しか思い浮かばない。
「面白そーじゃん」
「紫原君怖いの平気なの?」
「余裕。お化けとか信じてねーし」
「……ですよねー」
うん。紫原君ぽい。あまり驚くとか大声出すとかなさそう。あ、バスケは別だろうけど。紫原君が怖いの平気なら大丈夫かとも思うけれど逆に私一人びくびくしてるのもあれだし。でも紫原君はいつものごとく引きそうにないし。送りだっていつも断るのに結局家の近くまで来てくれて、私は紫原君の押しに勝ったことがない。
「……行きましょう」
「やったー」
紫原君に引っ張られるように学校へと向かう。施錠まではまだ時間があるらしくちらほらと電気がついている。それでもやっぱり怖い。ポテチを校門横の背の高い木の根っこに繋ぐと、何回か戸惑ったように鳴いた。ごめんねポテチ。
一年生と二年生の靴箱は少し離れているから、その時間さえも怖くて急いで靴を履き替える。すると紫原君はまだのんびりと靴を定位置に入れているところだった。
「よし、さっさと行ってさっさと帰ろう」
「はいはい。わかったよー」
スタスタ。紫原君は長い足でどんどん歩いていく。いや、待て。いつももっとゆっくり歩いてるじゃん。多分私に合わせてくれてるんだろうけど、いつもの帰り道はこんなに背中ばかりを追うことはない。それなのに今は早足で歩いても追いつけない。
「………紫原君」
「ん、なにー?」
「結構いじわるだね」
「アララ、ばれたー?」
「私がびびってるの面白がってるでしょ」
むぐ。口にチョコレートを突っ込まれた。甘い。急に与えられるにしては喉に詰まりそうになるくらいに甘い。
前にもこんなことがなかっただろうか。
「でもさっさと行こうって言ったのミョウジさんだしー」
「………」
「ごめんごめん。怒ったー?」
「紫原君の新たな一面を見た」
「なにそれー。怒ってないならいいや」
いいやってなんだ。怒るぞ。それでも歩くペースを落として私と同じ速さで歩いてくれているからもう文句は言わないでおこう。こっそりいつもより近づいて隣を歩く。
「そんなにこえーならオレの腕でも掴んでれば?」
「へ?」
「だから、そんなに近く歩くなら掴んでる方がはえーし。はい」
「…ツンデレ?」
「いらないならいい」
「ごめんなさい冗談です左腕お借りします」
両手で紫原君の左腕をしっかり掴む。彼なりの優しさなのだろうか。それとも近くをピタリと歩きにくかったのだろうか。ジャージ越しでも感じる筋肉のついた腕にさすがと感心しながら紫原君はほんとに怖くないんだなぁと改めて驚く。紫原君がこんな様子だし力強い腕もあるし、私もだんだんと平気になってきた。
「懐かしいなぁ、一年生のフロア」
「ミョウジさん何組だったのー?」
「4組だよ」
「え、オレも4組」
「じゃあもしかしたら私が使ってた机とか使ってるかもね」
「んー。そうだね」
ガラリと私が去年まで通っていた教室のドアを開ける。暗いし当たり前に掲示物もまるで違うしここには懐かしさはなかった。しかも、廊下も怖いけれど整然と机の並ぶ教室も怖いものがある。
「ちょっと待っててねー」
紫原君が電気をつけて机を探っている間、教室後ろの黒板に書かれた文字や掃除の振り分け表などをなんとなく読んでまわる。紫原君掃除とかちゃんとしてなさそうだなー。
「わっ」
「ぎゃっ!!」
背中をポンと叩かれる。これも、前にもやられたことがなかっただろうか。しかもその時よりも汚い声が出た気がする。
「いま電気ついてんじゃん。驚きすぎー」
「そういうことじゃない。関係ない。驚くものは驚くんですー」
「ミョウジさん子どもみたいだねー。はい辞書」
「あ、はいありがと」
「じゃ帰ろっかー」
子どもみたい。紫原君の言葉へのちょっとした反抗のつもりで、帰りの校内では彼の腕にしがみつくようなことはしなかった。免疫もついてきたらしい。慣れた目も手伝って紫原君の横を、むしろ少し前をスタスタと歩く。
「ねーこの前先輩から聞いたんだけどさー」
「うん」
「この学校の怖い話、知ってる?」
ピタリ。立ち止まる。それに合わせて紫原君も立ち止まり、心配したように私の前にまわって顔を覗き込んできた。
「……それ、絶対今言わないで」
「なんでー?」
「怖くて動けなくなる」
「ミョウジさんかわいー」
「あ、またバカにしたでしょ」
「別にー。強がってないでオレに掴まってればいいのに」
「……」
「ね?」
そう言って腕を差し出す紫原君が優しいお兄さんに見えてきた。くそ。負けた。
「ホラ。怖くない怖くなーい」
「もう絶対夜の学校とか来ない。紫原君とだけは来ない」
「ん。よしよし」
「ほらまたそうやって!」
小バカにしたように頭を撫でられる。それでもその手に少し安心したことは絶対に言わない。