荀イクと雪麗の二人は一旦許昌を離れ、頴川と河南の境にある関所付近へと赴いていた。厳白虎を討ち、許昌を制圧すると言ってもたった二人だけではいくら知略を巡らせようと勝てない。そこでやはり必要になるのが兵力であり、武を持った諸将である。どうやら荀イクが事前に手を回していたようで、共に戦ってくれる勇士との待ち合わせの場所へと向かっているのだ。

「ううん、この道も、あたっ…はぁ、ひどいですね……」

 馬に揺られながら辺りを見渡し、雪麗は憂いの溜息を吐き出す。しかし馬に乗り慣れていないせいか、変に揺れて体を打ち付けている。ぐらりと体が傾くたびに後ろにいる荀イクが雪麗の体を支えていた。相乗り中である。

「何処も似たような状況です。もはや国どころではなく、天下が疲弊しているのです」
「えぇ、知っています。天は今も泣き続けていますから」

 雪麗はそっと天を仰ぎ見た。我関せず、と穏やかに流れる雲に荀イクも空を見上げる。

 雪麗はとても聡明な女性であるが、言動がややぶっ飛んでいる節がある。初めの頃は戸惑いをしたものの、今ではそれがらしさと思うようになっているのだから時間の流れとは恐ろしい。空が泣いているだの、川が歌っているだの、はたまた花々が楽しそうに噂話をしているだの、少々頭の螺子が外れてしまっているような物言いをする。しかし彼女と付き合っていくうちに、彼女には本当にその声が聞こえているのではないかと思えてくるのだ。その電波っぷりを抜きにしても、彼女には卓越した才が溢れている。何度彼女の説く知に感銘を受けたことか。

「失礼。陽の位置が変わってきましたので、少々急ぎましょう。私に掴まっていていいですから、少し我慢してください」
「あっ、荀イク、まっ……きゃっ!」







 関所の建物が見え始めたところで漸く速度を落とし、木のそばで馬を止めた。先に荀イクが降りてから、馬上にいる雪麗へと手を伸ばす。雪麗はむっつりとした表情で荀イクをひと睨みした後、おずおずとその手を掴んだ。隠すことなく不機嫌を露わにする雪麗に、荀イクは思わずくすりと笑みを零す。怖々と馬上から降りた雪麗は、地面に足がついて漸く安心したように深く息を吐いたのだった。未だに揺られているような感覚はしているものの、馬に跨っているよりはずっと良い。

「はぁ……酷い目に遭いました」
「申し訳ありません、雪麗。お水を用意してありますが……」
「いただきます……」
「えぇ、どうぞ」

 受け取った水をこくこくと流し込んで、また一息。酷い目に遭ったと思いはしても、時間が惜しいのも事実で、理解している。自分を待つ荀イクと目を合わせ、つい…と馬を寄せた木の向こうへと視線を送る。

「あちらでお待ちのようですね」
「よく分かりましたね」
「木々が囁いて教えてくれるのですよ。ほら、そよそよと心地いい……」

 また始まった……とは思うがいちいち突っ込んでいたら進まない。荀イクは馬の手綱を握り、雪麗を先導するように木々の向こうへと歩き出した。

 暫く歩いていると藹々とした葉が増え、辺りに陰を作り始めてきた。雪麗は荀イクの背を追いながらちらりと上を見上げ、葉の隙間から差し込む細い光に目を細める。と、不意にぴりっとした緊張感が走り、雪麗ははっとして荀イクを見た。その瞬間、何か黒い塊のようなものが二人を目掛けて飛んできた。それが何か確認するより前に、荀イクが陣杖で弾き飛ばす。すると、その黒い塊はベチャリと音を立てて地面に叩きつけられ、辺りに真っ黒な染みを作った。この匂いは……

「墨、ですか……」

 ということは、私たちは墨を投げつけられたのだろうか?なんと勿体無い……と雪麗が的外れなことを考えながら地面に広がる墨を見つめていると、その“攻撃”を仕掛けた犯人が木の上から降りてきた。

「やーっと来たねぇ!」
「お待たせして申し訳ありません。ですが、こちらには女性がおりますので、別の形で確認して頂きたかったものです」
「ん?」

 荀イクが雪麗を気遣うように振り返ったことに気付いて、雪麗もそっと荀イクの後ろから顔を覗かせる。と、その先には特徴的な帽子を被った男性が一人。服装も何処か暖かそうな装いで、ここらのものではなさそうだ。何より雪麗の目を引いたのは、彼が持つ大きな“筆”だ。もしや、先程の墨はその“大きな筆”から繰り出されたものなのだろうか。興味深そうにそれを見つめる雪麗を、“大きな筆”を持つ男性もまた驚いたように見ていた。

「あれ?!わ、ごめんねぇ!荀イク殿だけかと思ってたよ!」

 慌ててその男性は雪麗に向かって謝罪をした。しかし雪麗の興味は未だ“大きな筆”に一身に注がれている。

「なかなか興味深いものをお持ちですね」
「あ、あれ?あー……これね。“妖筆”って武器なんだよ」

 先程のことを気にしていないどころか、“大きな筆”の持ち主である男のことも気にしていないのかもしれない。それに気付いて男は苦笑いを浮かべながらも雪麗の為にわざわざ説明をしてくれる。ふわ、と筆先を宙で滑らせるとそこに浮かぶ文字。

「まぁ…!」
「俺の名は“馬岱”。よろしくね」

 浮かんだ文字、それから自分を順番に指差して男性……“馬岱”は人の良さそうな笑顔を浮かべた。

「なんと素晴らしい…!申し遅れました、私は雪麗と申します。それ、私でも扱えます?」
「えぇ?うーん……えっと、持てる?」

 キラキラと期待をたっぷりと浮かべた瞳を向けられて馬岱は一瞬たじろいだ。恐らく彼女が言いたいことは“妖筆”を武器として扱えるかというよりもただの“大きな筆”として扱えるかどうかということだろう。多少使う人によって字や画の上手い下手はあれど、使えないことはない。ただ、見たところ雪麗に武芸の腕があるようには思えなかった。それを察した雪麗が馬岱に向かって手を伸ばす。妖筆を受け取り、やはりその大きさに見合う重さに慌てて両手に力を込めて支える。そして力いっぱい振り上げた。

「わぁっ!」
「おっと……」

 何かを描く訳でもなく力いっぱいに振り回すものだから周りに墨の線がただただ書かれていく。そしてその被害は近くにいた馬岱と荀イクの方まで飛んだが、持ち前の身体能力で難なく躱している。墨が飛んでこない場所まで離れて避難していると、漸く満足したのか妖筆を下ろした雪麗が二人を振り返り至極真面目な表情で一言。

「鍛錬が必要のようです」

 そうだろうな、と馬岱と荀イクは思った。

「ありがとうございます、まずは満足です」
「その様子じゃ諦めてないみたいだね?」
「えぇ。いずれその筆を自由自在に扱えるようになってみせますよ!」

 ホクホクと満足げな雪麗を見て、馬岱も思わず微笑ましくなる。だがしかし、此処で和んでいる場合ではない。本題にすら入っていない。

「もう少し先で若が待ってるんだ。案内するよ」
「お願いします」

 はいはーい、と陽気な返事をしながら歩き出した馬岱についていく。そして少し開けた場所へ出たその瞬間、とても煌びやかで眩しい光が目に飛び込んだ。

「む、来たか」
「お待たせいたしました、“馬超殿”」

 一目見て良馬だと分かる馬に寄り添い、金色に輝く立派な龍の兜を被り、身に纏う鎧も全体的に煌びやかである。破けた腰布は数々の戦場を駆け抜けた歴戦の将であることを大いに示し、何よりもその力強い意志が宿る真っ直ぐな瞳。

 “錦”と謳われる猛将、馬超の姿があった。